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追い出された人々:シンジン精密、ハンド工業社

[イシュー: ヒプチロの内部事情]

キム・ハンジュ、ユン・ジヨン、ウン・ヘジン記者 2019.11.25 14:39

[出処:ユン・ジヨン記者]

#シンジン精密

シンジン精密のキム・ヨンナム社長は、何度も清渓川・乙支路工具街を振り返る。 キム社長はそこだけで三十年以上、工場を経営する町の最古参だった。 長い歳月、毎朝晩と行き来した狭い路地と、低い建物と、そこの人々と、 そして八坪ほどのシンジン精密工場は、いつのまにか魔法のように消えていた。 昔からの彼らの根拠地にはフェンスで囲まれ、 毎日土ぼこりが飛んだ。 人々はそこに高層アパートができるといった。

キム社長は清渓川・乙支路再開発事業で昨年12月、世運3区域から追い出された。 長い苦労の末、彼は文来洞にシンジン精密の看板を上げた。 工場は移転しても十数年間、手足を合わせた工具商と取引先は、まだそこに残っていた。 文来洞シンジン精密から乙支路工具街までは、地下鉄と徒歩で一時間程度かかった。 キム・ナム社長はいつもその長い通りを行き来したりした。 従来なら三分で解決できた業務が、軽く3時間になった。 道に捨てられる時間も苦々しかったが、 掘削機が掘った荒地を無気力に見なければならないのも苦役だった。

キム・ヨンナム社長は清渓川・乙支路工具街で有名人と言われる。 シンジン精密で韓国初の宇宙飛行士のイ・ソヨン氏の身体変化を測定した 「等高線撮影機」が製作されたためだった。 マスコミはたびたび取材に来て、彼のインタビューが紹介される時もあった。 中区庁は、彼らが運営する「乙支遊覧」のゲストに彼を招いたりした。 ソウルにいくつも残っていない古い路地、そこでクモの巣のようにつながり、 互いが互いの技術を共有して協業する工具商の姿は特色ある観光商品だった。 中区庁の案内で、多ければ数十人の観光客が清渓川・乙支路の工具街の隅々を旅行した。 1か月に2回、彼は観光客らの前で乙支路の歴史と、工具商の協業の過程と、 そのためにこの上なくしっかりした技術力について説明した。 いくらみすぼらしく、つまらなく見えても、 ここは昔からの職人が互いの技術力を分けて補いながら、 製造業の土台を作っていく所だと。 一銭も受けとらないボランティアだが、 キム・ナム社長は喜んで時間をあけて人々の前に立った。 百回、千回話しても口が痛くない程、ここは一生の自負心だった。

実際に乙支路は技術開発の開始点であり、開発者の実験室だった。 開発者たちは乙支路の商人を訪ねてきて、技術開発を依頼した。 機械図面を鉛筆でスケッチしてきた人もいたし、 そのままきて言葉で説明する人もいた。 商人たちはどんなつまらない技術依頼も親切に聞いてトントンと作った。 外国なら数億ウォンの機械も、ここでは100〜200万ウォンなら充分だった。 商人たちは新しい機械が大量生産される前に、最初のサンプルを作る人だった。 キム・ナム社長は80年代の初期、清渓川に流れてきて30年ほどここで過ごした。 その頃、乙支路の狭い路地は人たちであふれていた。 小さな金属一つを削るのも、部品一つを買うのも、 この工具街を経なければならなかった。 キム社長は汎用旋盤、リングとCNC旋盤などの機械で部品を作った。 消防署員が着る保護服の生地をテストする断熱センサーから、 大型食堂の消毒水の生成器などを製作した。 さまざまな新しい技術と機械が彼の手を経て送り出された。 いくら古くてみすぼらしい町でも、知っている人は知っていると思っていた。 商人たちが削って確かめた多くの技術が韓国社会の製造業の軸になってきたということを。 いや、他の人はともかく、政府と地方自治体はこの事実を知らなければならなかった。

しかし2017年の秋から世運3-1、4、5地区が強制撤去されるといううわさが流れた。 鑑定評価士と施行社の職員が路地のあちこちを歩き回った。 再開発という名のその事業は、破壊と撤去に焦点が合わされていた。 キム社長をはじめとする商人たちは、中区庁とソウル市を忙しく行き来した。 こうして一気に人々を追い出してはいけないと、 少なくとも私たちが集まって作業できる移住空間は作ってくれなければならないのではないかと訴えた。 だが観光客の前で彼にマイクまで与えた中区庁の態度は違っていた。 区庁は市庁に行けと言い、市庁は区庁に行って聞けと言った。

その間、時間は空しく流れ、退去の圧力はさらに強くなった。 工場を空けなければ3億台の損害賠償を請求するという告知書が毎週飛んできた。 キム社長は粘りに粘った。 国土交通部中央土地収用委員会に何度も異議提起もした。 だがどの政府機関も彼らのしんばり棒にはならなかった。 冷たい冬の風が吹きつけた昨年12月、 結局キム社長は世運3-4区域を出た。 数十年、共に働いた商人たちは、そうしてちりぢりに散った。 もっと頑張って戦い、もっと多くの人々の関心が集まっていれば変わったのだろうか。 昔の記憶と悩みが離れない。 再び強制撤去を目前に置いている、そこに残った商人たちの声が耳鳴りのように残る。

[出処:ユン・ジヨン記者]

#ハンド工業社

清渓川のハンド工業社と言えば、誰でも納得した時期があった。 ハンド工業社は清渓川一帯のヘラ絞り加工業者1号店として名前が知られている。 そこのクァク・ハンドク社長は、20歳に清渓川のヘラ絞り工場で仕事を学び始めた。 仕事に慣れる前に入隊して、除隊後には清渓川にある印刷所工場に就職した。 だが月給9万ウォンでは暮らしは大変だった。 勉強したわけでもなく、どうして暮らせばいいのかも分からなかった。 結局、彼はまたヘラ絞り工場に戻って技術を学んだ。 結婚を控えて店を構えてもみたが、容易ではなかった。 他に目を向けても、結局彼はヘラ絞り工場に戻っていた。 そうするうちに1990年、ハンド工業社から入社の提案を受けた。 13年間ずっとそこで従業員として働き、2003年に工場を買収した。 彼がハンド工業社と共に過ごした歳月だけで29年だ。

スマートフォンとナビゲーションがなかった時期、 ハンド工業社は道路交通表示板の付属品の生産を引き受けていたという。 直接現場に出て行って、再び中央分離帯を溶接して設置する作業もした。 プレスとヘラ絞りさえあれば、作れない物がなかった。 各種の機械部品をはじめ、コーヒーマシン、燭台、鍋、聖堂で使う香炉台など、 多種多様な物を扱った。 上得意の取引先だとうわさを聞いて訪ねてきた客で工場はいつも込み合っていた。 少なくとも昨年、世運整備区域から追い出される前まではそうだった。

クァク・ハンドク社長は昨年10月、29年間の根拠地だった世運3区域を離れた。 もちろん、恣意的な選択ではなかった。 ソウル市と施行社は、該当敷地に高層アパートが建てられるといった。 一年以上頑張ったが、力不足だった。 クァク社長はその時に世運3区域から追い出されてきた過程を考えると、 まだ血が逆流する。

昨年2月から世運3区域に再開発の噂が流れ始めた。 5月からは鑑定評価士が路地を歩き回り、すぐ再開発に入るだろうし、 7月末から1次移住が始まるだろうと騒ぎ立てた。 施行社は路地の商人のうち何人かだけに情報を流した。 施行社と接触した数人の商人は毎朝路地に出てきて他の商人に内輪の情報を渡した。 補償金がいくらだそうだ、はやく印鑑を押さなければ補償金ももらえずに 追い出されるらしい、そんな話だった。 路地に流れるうわさは不安を育てた。 心理戦はかなり役立ったようだ。 不安に震えた商人たちが1人、2人と印鑑を押し始めた。 クァク社長は毎朝こそこそと話し合う声に我慢できなかった。 十数年間、毎日顔を突き合わせ、技術を共有しながら生きてきた商人の関係に ひびが入り始めた。

路地のとげとげしいうわさの後に商売人たちがやってくる。 三々五々集まってがやがや言う商人たちの肩の向こうから 町の法律事務所の職員がのぞき込み始めた。 彼らは弁護士を選任をしなければ大変なことになるかのように喚き始めた。 初めて強制撤去されることになった数百人の商人が続々と弁護士事務室と契約を結んだ。 別途の契約金と共に、補償金の15〜20%を弁護士に支払うという契約だった。 商人たちは法や制度について何の情報を持っていなかった。 後で弁護士選任が不必要だということを知った商人は解約を要求した。 一人当り数十万ウォンもの契約金を無駄にしてしまった。

昨年11月から今年1月まで、この区域で事業をしていた350軒の工場が強制撤去された。 彼らの約11%は廃業を決定した。 移住を準備する時間さえないほどだった。 クァク・ハンドク社長は移住する空間を探して、あちこちを飛び回った。 賃貸料を安くするために京畿道郊外の周辺に目を向けたりもした。 だが何の縁故もない地域に、あまり残っていないことを考えると、 いっそ死んだほうが良いように思えた。 結局、世運3区域からあまり遠くない山林洞の空いた空間を捜し出した。 10年以上放置されたその空間を掃いて拭いて修理するだけでも短かからぬ時間がかかった。

最大の問題は、機械を移すことだった。 プレスと各種の金型、数え切れない荷物は引越屋を雇えば良い。 だがヘラ絞りを移す作業は思ったより単純ではなかった。 ヘラ絞りは基本的に地中に埋めなければならない機械だ。 前はコンクリートで固めて機械を埋めたが、 最近はボルトを地面に打ち込んで固定させる方法が一般的だった。 それでも一人で土地を掘りおこし、ボルトを打ち込み、 機械を固定させるのは容易ではなかった。 ヘラ絞りを設置するたけで3か月かかった。 移住する時に補償を受けた営業費用と引越費用は、 場所を整備する前に消えてなくなった。

クァク・ハンドク社長は、その時一緒に強制移住した商人の知らせをしばしば聞く。 みんな自分と同じように状況は良くなかった。 新しい環境に落ち着く過程がやさしいはずがなかった。 突然の移住でこれまでの取引先との取り引きも切れ、 移住した事実を知らない上得意も結構いる。 これでは飢えて死ぬというような毎日だけが、うんざりするように続いていた。 どんな対策もなく、ただ古い地域を壊して殺すばかりの中区庁とソウル市が、 耐えがたいほど憎かった。 数十年積み重ねてきた製造業の基礎と基盤を一日で押し倒した形だった。

クァク社長は最近も世運3区域によく出入りする。 そのたびに胸が痛むのは、それでも自分が住んでいた町の写真を 何枚か撮っておこうという後悔のためだった。 その時、その戦闘警察との思い出、風景、そして数え切れない人々が固めた技術は、 記録されないまま消えてしまう。

[出処:ユン・ジヨン記者]

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2019-12-02 15:20:23 / Last modified on 2019-12-06 16:07:04 Copyright: Default

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