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一度の人生、自分が思う通りに生きる

[社会主義探求領域]社会主義で労働時間は?

カンフ(社会運動に関心が多い) 2019.11.13 11:17

#1. 人生….

日暮途遠。「日は暮れていくのに、行く道は遠い」という意味です。 たいてい「年を取ったのに、するべきことがまだたくさん残っている時」 を示す表現に使います。 ここで「するべきこと」を「したいこと」に、ちょっと変えてみれば、 「やりたいことが多いのに、もうこんなに年を取ってしまった」という嘆きに感じられたりもします。

退職を目の前にした両親を見て、この言葉を思い出します。 30年以上、あなたと家族の面倒を見て、自分がやりたいことは我慢して なんとか生計を立てていこうとあくせく働いたのに、 ここに来た今「いま私に残されたものは何か」と少し虚しがっているようです。 それで初めて両親に「自分が若かった時、 職場生活する前にしたかったことはなかったのか」と尋ねました。 二人とも初めから誰かの両親になるために、 あるいは毎日毎日家族を食べさせるために暮らしたのではありませんから。 各自夢見た自分なりの人生と希望が何だったかも聞きたかったのです。

返事にはあきらめや悔恨がにじみ出てはいませんが、 もう戻れないのでまるで他人の話をするような、 ある種の悲しい淡々としたものが感じられるほどでした。 母親は本来大学に行ってもっと勉強をしたかったと言いました。 当時の世相のためなのかは知りませんが、 看護師になるのが夢だったそうです。 田舎でひとりで上京したが、結局学費を用意する方法がなく、 九老工業団地のある繊維会社に就職したといいます。 父親は当時、暮らしが厳しく、他のことを考えることができなかったとし、 高校三年の時から仕事場を見つけて、職場生活を始め、 40年間そうして生きて来たといいました。

二人の来歴が他の人たちより特にさらに不遇だったとは思いません。 同じ時代を生きてきた人々と比較してもそうで、 今の世代と比べても同じでしょう。 多少豊かな家に生まれない以上、大部分の人は暮らすためには就職して働かなければなりません。 それが自分が夢見た仕事ならば良いのですが、そうではない場合のほうが多いです。 そのようにして職場生活を始めた瞬間、 少しでもさらに安定した生計を維持しようとするなら、 一日8時間以上の労働に耐えなければなりません。 それさえも家を用意して、子供たちの学費を払い、 食費に交通費、通信費を除いて、老後の対策までたてようとすれば途方に暮れます。 若干の余裕でも享受したければ、もっと長い間働くほかはなく、 それだけ「自分の時間」はなくなっていきます。 自分の時間が消えるということは、まさに「自分の人生」が薄くなるということでしょう。 マルクスとエンゲルスは「共産党宣言」で資本主義以後の新しい社会は 「各自の自由な発展がすべての人の自由な発展の条件になる連合体」と書きました。 生計をたてるには、一日に8時間以上働かなければならない所で、 「各自の自由な発展」は不可能です。 暮らしのために生の活力があふれる時間を自分の夢とは関係がないことに注ぎ込むようにさせるこの資本主義は、 黄昏の道端で「それでも熱心に生きた」という慰安と共に、 時すでに遅しという「各自の悲劇」を吸い込んで自らを維持します。 それで労働時間に対する統制は過労を防がなければならないという切迫した問題と共に、 それぞれ一回だけの自分の人生を誰もが享受して楽しめるかという人生の問題です。 同時に、社会が構成員それぞれのその自由な人生を物質的に保障できるかという問題、 つまり体制の問題と直結するのです。

#2. 1日に2時間だけ働けばいいのなら?

単刀直入に、1日に2〜3時間働くだけで生計を立てるのに十分な報酬をもらえたら、 あなたの人生はどのように変わるでしょうか? 終えらせることができなかった勉強をもっとする事もでき、 学びたい技術を習得する事もでき、 映画を見たり展示会に行くなどの文化生活を楽しむ事もでき、 愛する人と余裕がある時間を送ることもできるでしょう。 仕事を通じて自己を実現する欲求が強い人は生計の心配、時間の心配なく、 自分がやりたい違ったことに飛び込むこともできます。 ある人は部屋に閉じこもって一日中電子娯楽に熱中するかもしれませんが、 他人に害を及ぼさなければ、それも本人の自由な選択です。 明らかなことは、今とは比較できないほど各自が自分の人生を はるかに豊かに作る自由な可能性が開かれることです。

それぞれの労働時間をこのように大幅に減らして、 それだけ雇用人員を増やし、これまで資本家が利益として持っていった分を すべて働く人に配分すれば、いくらでも可能なことです。 その上、資本主義はそれぞれの資本が生存のためにも競争で勝利しなければならないので、 慢性的な過剰生産とそれにともなう超過労働の強要 (その一方でコスト削減のために雇用を減らし、失業者を量産します) を引き起こします。 反面、社会主義は構成員の必要によって財貨とサービス生産を適正水準に調整するので、 労働時間は減らし、皆の生活需要を満足させるために焦点をおきます。

今日では技術発展による雇用減少がずいぶん心配されています。 労働力支出を減らす技術の発展は資本主義では雇用を減らす恐怖を呼び起こしますが、 社会主義では生計の心配をせずに労働時間を減らし、 皆の生活の質を高めるために寄与することになります。 資本主義における技術発展はさらに大きな利益を生産することに服務しなければなりませんから、 技術開発に成功した資本家や企業主には莫大な超過利潤を持ってきます。 しかしこの技術を活用して財貨やサービスを生産するために必要な雇用を最小化することにより、 雇用を得られない労働者は生計の危機を体験するほかはありません。 そうかと思えば技術開発費よりも安く労働者をこき使い、 そのために労働者の安全のための技術や、危険で劣悪な工程を機械化する技術は脚光を浴びません。

社会主義では技術発展の結果を社会全体が共有します。 たとえば特定量の財貨を生産するために必要な時間と労働力を減らす技術を開発すれば、 労働時間は減り、労働者と社会構成員は相変らず以前と同じ水準の生産物を享受するようになるのです。 また、反復的でうっとうしい労働でも、 危険で劣悪な勤務環境は収支勘定にしばられずに積極的に費用を投入し、 自動化・機械化することにより、 労働者の安全を優先的に保障する一方、 労働者は単純労働から抜け出してさらに創造的な活動 (あるいは自分が希望する何か) にさらに多くの時間を使えるようになるでしょう。

前に1日に2〜3時間を働く未来を想像してみようと書きましたが、 もちろん初めからこの程度の水準で労働時間を短縮することはできないかもしれません。 現在の技術条件を前提として社会的必要を充足しようとすれば、 2〜3時間よりはもっと働かなければならないかもしれません (ただし競争的な過剰生産がなく、皆に働く機会を提供するので、 今よりは明らかに労働時間が減りますが)。 しかし社会主義では労働者たち自身が労働時間を減らしていくために努力するでしょう。 労働者たちが自分の作業環境でどんな技術が必要なのかを決める主体だからです。 技術発展が労働者の生計を威嚇せず、 労働時間を減らしてそれだけ労働者自身が自由に活用できる時間を増やすので、 労働者たちはさらに競争的に技術発展に拍車をかけるようになるのです。

#3. あなたはなぜ金を稼ぐのですか?

一方、世の中が変わっても、やむをえず連続的に長い時間を働かなければならない場合が生じることもあります (たとえば、消防署員が勤務時間終わったからと火を消している途中に退勤することはできませんから)。 その仕事が本当に愛していて、何時間も働きたい人もいるかもしれません。 また社会主義でもさらに熱心に、さらに多く働く人には彼らが労働しただけ、 さらに多くの報酬を提供するしくみが作動するでしょう。 これは長時間労働を助長するためではなく、 さらに働く人にそれぞれの労働に正当な代価を保障する必要があるためです。 もちろん、その格差が資本主義のように 「生まれ変わらない以上克服できない水準」になってはいけません。 職種別に差はあるでしょうが、 特定時間以上で働いた代価をどのように、どれだけ補償するかは、 構成員が共に決める問題です。 例えば、今は残業・特別勤務に対して基本給より高い賃金を付けて超過労働をあおっていますが、 社会主義では特定時間以上の労働に追加する補償割合を逆に減らすことによって、 できるだけ超過労働を自制するようにすることもできるでしょう。

「いくら補償体系が変わっても、もっと働いて、少しでも多く持っていけるのなら、 長時間労働は根絶されずにそのまま残るのでないか」と疑問を抱くかもしれません。 だがここで資本主義と社会主義の差があらわれる根本的な問いを投げてみます。 われわれは今なぜ金を稼ごうとするのでしょうか? ひとまず、暮らすには金が必要だからでしょう。 さらに、より良い家、さらにいい教育、さらにおいしい食べ物、 より良い品物、もっと長い老後の対応まで。 一生のすべての瞬間に常に金が欠かせません。

しかし社会主義では「無条件さらに多く稼がなければならない」理由が相当部分なくなります。 住宅はもう売買の対象ではなく、公的に保障する良質の公共(永久)賃貸住宅に変わります。 学校の序列はなく、勉強したい人なら大学教育まで、普遍的権利として提供します。 交通から通信、保育から医療、老後に至るまで、共同体の責任で差別のないサービスを供給します。 このように、個人の人生で必要な基盤サービスを公的に提供すれば、 「それぞれが考えて稼がなければならない」部分は大きく減ります。 もちろん、ほしい物が多ければ、それだけさらに働かなければなりません。 しかし生産手段が社会化されていて、資本主義のような私的売買と所有ができませんから、 たくさん稼いで溜め込んでも確実に使えるようなところもなく、意味がありません。 個人の飛行機のようなものを目標にしなければですが。 皆を常時的な超過労働に追い立てる誘引はなくなります。 余裕ある生活を享受する水準で、仕事の手を止めて一日のほとんどを 新しい自分の人生にするために使うか、 でなければ(規模は制約的でも)もっと多くの財貨とサービスを享有するために、 自分の時間をあきらめてさらに働くのか、 それぞれの状況に合った各自の選択があるだけです。

#4. 社会主義、労働者のための労働者の柔軟性

一番最初に拠論した「日暮桃源」に戻ると、 この前この言葉に激しく共感したことがありました。 もちろん私は若いです。 年を取ったという悲しみは確実に感じたことがありません。 ただ、本当に物理的に、陽が暮れるのにまだ行く道をはるかに残したまま、 頑なに融通がきかない道路の上に立ち止まっていたためです。 地方からバスに乗ってソウルにきたのに、なぜか退勤時間帯と重なったせいで 予想時間より1時間も長く道で静かに過ごさなければならなかったんです。

初めにいらいらしました。 道路を埋め尽くした多くの車両に怒りが込み上げました。 しかし、(バスの中で確実にすることもなく)もう少し考えてみると 「なぜこんなに多くの人が特定時間帯に一度に出勤して退勤しなければならないのだろうか」という疑問を感じました。 人のよって多少の差はあっても、夜間労働を除けばたいてい朝出勤して、 9〜10時間程度を職場で過ごし、晩に退勤するためでしょう。 社会主義ではどうでしょうか? それぞれの労働時間が大幅に減れば、交代する方式で互いに違う時間に出退勤できるでしょう。 誰かは今のように朝出勤してお昼を食べる前ぐらい退勤し、 他の誰かは昼時ぐらい働きにでかけて午後の時間帯に仕事を終える方法です。 このように、労働時間が画期的に減れば労働者が作業工程を考慮して、 同僚と協議して自分の事情に合わせて労働時間配置の弾力性を発揮して、 わずかに(?)交通渋滞によるストレスと時間浪費も最小化し、 自分が望む時間に望むことをしながら時間活用の満足度を高めます。

最近、文在寅(ムン・ジェイン)大統領が直接弾力勤労制拡大を要求したのに続いて、 昨日まで互いに殺しあいのように戦っていた与野が 「弾力勤労制拡大は非争点事案」だといってすぐ国会で処理することに合意しました。 彼らが話す「弾力性」は、いつも労働者たちにもっと多くの仕事をさせて、 何とかして賃金は削ろうとするのが不変の核心でした。 資本のため「弾力性」は、ただ「やらせたいだけ仕事をさせて、払いたいだけ払う」 という意味でしかありません。

社会主義は正確にその反対です。 何とか余裕がある生活を保障しながら、労働時間を減らし、 労働者たちが自らのために弾力的かつ柔軟に労働時間を配置する権限を直接持つこと。 誰も生計型労働のために自分の夢を放棄しないように、 それぞれの自由な発展のための時間と資源を十分に提供すること。 一度の人生、思った通りに暮らしてみたいあなたには、社会主義が似合っています。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2019-11-10 13:26:30 / Last modified on 2019-12-03 20:09:25 Copyright: Default

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