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なぜ私たちの近くにチョルリマ・マートがないのだろうか

[ワーカーズ]社会主義、世の中に向かった愉快なシナリオ

カンフ(社会運動に関心が多い) 2019.10.15 09:22

#1.こんな職場、どこかにないか

この前、安いよ〈チョルリマ・マート〉というウェブトーンがドラマに脚色されて放映を始めました。 今始まったばかりなので、どれくらい興行するのかは分かりませんが、 周辺で第1回を視聴した人たちは「斬新でおもしろい」と言って 割といい反応を見せました。 私は何年か前の原作漫画が連載されている時に、一度読んで、今回また見ることになりましたが。 自分の境遇が変わったためか、漫画を読んだ感じも違いました。 学生の時、この漫画はただひま潰しで読むコミックでした。 しかし学校を終えて生活戦線に立っている今、 何年が経ってまたこの漫画を読むことになった時、 初めて感じたのは「こんな所で働きたい」ということでした。 作品の題名が示しているように、この漫画はあるスーパーマーケットを巡って 起きる事件を描きます。 流通業界に従事したいとはっきり思ったことはないのですが、 現実にこんな所があるのなら、そのスーパーの店員として働きたいです。

この作品は若干とんでもない背景から始まります。 ある財閥グループの重役だった「チョン・ボクトン」という人物が、 グループ会長のとんでもない経営方針に反対して直言するのですが、 そのために左遷され、グループ流通系列会社の「チョルリマ・マート」の社長に赴任することになります。 しかし財閥流通系列会社という聞こえがいい名前と違い、 このスーパーはチェーン店もなく、本店1か所があるだけでした。 またお客さんもなく、商う意志も、まともな商品もない、 赤字だらけでグループ内では「島流し先」と言われたところでした。

事実上「辞表を書いて出て行け」ということだったこの左遷に怒った「チョン・ボクトン」は、 独特の方式で復讐を計画します。 自分が発令されたチョルリマ・マートを完全に潰すことでグループ本社に 「爆弾を投げる」のです。 ここから「奇想天外」な経営が始まります。 最初から正規職職員を大幅に採用しますが、 履歴書の提出もなく、ただ志願者が面接場で自分が生きてきた数奇な話をするだけで、 尋ねることも問うこともせず「合格」通知をします。 貧困に悩む若い音楽家、過去銀行で働いて整理解雇された代理運転手、 ごろつき出身の失業者、解雇された清掃業者労働者、 外部の侵略で追われてきた移住難民に至るまで、全員を正職員として採用します。

「ショッピングしやすいスーパー」ではなく、「働きやすいスーパー」を打ち出したり、 「1+1贈呈イベント」の代わりに「1+1採用」を標榜します。 カウンターの労働者が一日中立ったまま働くので、 カウンターにオンドルを設置して座って働けるようにして、 カスタマーセンターで不満を受け付ける労働者には王の服のような服を着せて王座に座らせ、 お客さんがパワハラする意欲を出させないようにします。 そればかりか、納品業者に支払う代金を3倍に上げて、 近くに大型マートがぞろぞろできたため危機に瀕した零細商人に、 スーパーの中で商売ができるように入店させます。 「職員用休息空間」だと言って大型の草地を作り、 市民に開放したりもします (これ以外にもいちいち数え上げるのが難しい各種の奇行を繰り広げます)。

しかし「チョン・ボクトン」の意図とは反対に、 店員と納品業者、消費者が呼応して、 死んだも同然だったスーパーには活力があふれるようになり、 大損失を出すために計画した計略(?)はそっくりイメージ改善と売り上げ急増につながります。 この過程で、チョルリマ・マートはもう職員にとっては単に 「生計のための職場」ではなく、あれこれ言いながら一緒に暮らしていく共同体に変わって行きます。 作品の序盤に、「地域の凶物」扱いされたスーパーは、 ますます近くの労働者が羨み、地域住民が喜ぶ空間になります。 一時はグループ本社で構造調整を陣頭指揮したことで苦しんだ「チョン・ボクトン」も、 「スーパーを潰す」執念から抜け出して、 少々とんでもない方式でもスーパーの職員を守ろうとする人に変わり、 作品は温かさを充満させます。

#2. 社会主義職場生活

さて現実に戻ると、突然「現実自覚タイム」が来ます。 残念なことに、この世の中にはこんなスーパーはありません。 初めから「チョン・ボクトン」が考えたように、 資本主義であんな経営は「会社を潰す近道」扱いされるのが常です。 いくら社長が「善意」を持っていても、 結局競争で負けて利益を十分にあげられなければ、企業自体が生き残れません。 最近は技術発展と共に、先端産業を筆頭として職場文化にも変化の風が吹くそうですが、 資本主義でその限界はとてもはっきりとあらわれます。 たとえば先導的な電気自動車メーカーのテスラが正規職職員数千人を解雇したり、 アマゾンは倉庫で働く労働者が「われわれはロボットでなく人間だ」と叫んでストライキをする程、 低賃金と劣悪な作業環境で有名です。

皆さんは今、出勤の交通便は幸せですか? 日曜の陽が暮れる頃から残念さと無念さが押し寄せて、 はやく次の金曜がくることを願いませんか? 上からは実績の圧迫、下からは突き上げる後輩の表情、 そこに同僚との成果競争まで。 少しとんでもない話をすれば、非難されるのがあたりまえ、 不満があってもあるいは不利益を受けるか顔色をうかがう今日の職場で、 ある人は「いつまでこの会社に通えるか」と心配し、 他のある人は「うまく退社する方法」を深く考えます。 一日の時間のうち相当部分を過ごし、 一生を構成する核心要素の一つでもある職場。 確実な職場は「チョルリマ・マート」が描くように、 生気溌剌として楽しい遊び場になることはないのでしょうか?

社会主義でも大部分の人々が職場生活をすることになるでしょう。 構成員の必要と欲求を満足させ、社会を維持するために多くの財貨とサービスを生産しなければならないという点は変わらないからです。 しかしこれ以上、利益のための生産に必死にならずにすむので、 職場の日常は今とは違います。 社会主義での労働は、その結果として社会の必要を充足させると同時に、 労働を遂行する過程でも苦痛を最小化し、 労働者の満足感を最大化することができるように再構成されるでしょう。 利益を得なければならない企業主と株主、 そして彼らの指示に従う経営者と管理者ではなく、 労働者が集団で直接自分たちの労働をどう遂行するのかを考えて決めるから可能なのです。

一銭でも多くの利益を回収して費用を減らさなければならないという鎖がなくなれば、 労働者は自分の職場で多様な想像力を発揮できるようになります。 「チョルリマ・マート」がほとんど全的に社長「チョン・ボクトン」の 「とんでもない」指示に依存していますが、 社会主義ではその職場で働く労働者全員がこの「とんでもない」考えらを一緒に出して決める権利があります。 立って働くのが不便なら、本当にオンドルを設置して座って働く事もできて、 昼食後のだるさのために仕事に集中するのが難しければ、 昼寝ができる快適な施設を作ることもできます。 互いに回数や時間を決めて、労働者が誰でも自分が作りたい物を作ったり、 アイデアを構想する自由時間を配分することもできるでしょう。 1か月に1回ぐらいはエイプリフールのように他部署と業務を変える事もできて (これにより、他部署の同僚の苦情も理解でき、会社が全体的にどう変わるのかを把握することもできるでしょう)、 同じ業界の他の企業体であれ、まったく異なる産業界の会社と交流して体験するプログラムを作り、 希望する労働者は職場を通じて多様な仕事を経験することもできるでしょう。

同僚の労働者たちとの関係も変化します。 指示と服従の関係ではなく、 同等な位置でともに決めて遂行する関係が根を張ります。 職場は「競争と不安の空間」ではなく、 私が働きたければ(職場内犯罪のような特定の失格条件がない限り)、 いくらでもずっと働ける生活の空間になります。 「いつクビになるかわからないので、 生きていくために悔しくても我慢しなければならない」時間は終わります。 職場で働く当事者が名実ともにその職場の主人としての決定権を持ち、 自分の労働との時空間を自ら作って変えて計画できます。 職場での階層が消えることにより、 「同僚よりさらに多くの実績を積み、 利益創出に服務した代価として競争に勝利」するというシステムもなくなります。 その代わりに、社会的に必要な分だけに生産することに寄与して、 この労働共同体をどうすればもっと楽しくすることができるのかが 「成功的な職場生活」の基準になります。 今は同僚と共にする会食さえ「業務の延長」、 はなはだしくは「階層と暴力」につながるので、 それで「定時退勤」を待ちながら、少しでもはやく職場の影から抜け出したいとすれば、 社会主義での職場生活は逆に「多彩な生活の延長」になるでしょう。

#3. 皆の「チョルリマ・マート」のために

もちろん「チョルリマ・マート」は社会主義を背景にした作品では全くありません。 資本主義では「チョルリマ・マート」がぶつかるほかはない問題は、 作品の中で「作家の設定」と「ウソのような偶然」で埋められるだけでしょう。 代表的には、赤字だらけのスーパーでいい条件の正規職職員を大挙雇用し、 労働者たちの福祉や、前で上げた社長の各種の「奇行」にかかる費用をどこから持ってくるのでしょうか? 作品の中ではグループ本社から資金支援を持ってくるという設定をしていますが、 これだけを見ても現実の資本主義では「チョルリマ・マート」を具現するのは難しいことがわかります。

もし現実に「チョン・ボクトン」のような、 あるいは彼のまれな計画に惜しみなく資金を出す「善良な資本家」がいたとしても、 資本主義は決して容易ではないでしょう。 たとえば「チョルリマ・マート」は該当地域の商圏中心部にある3つのライバルと 道を挟んで向かい合っています。 この大型マートは日々成長する「チョルリマ・マート」をくじくために 納品業者をそそのかして品物を取り出したり、 出血を甘受して大幅な低価格割引イベントをしたりもします。 「チョルリマ・マート」がこの競争で生き残ったのは、 運や「小細工」のおかげでしょう。 社長の奇想天外な行動が意図せずに消費者を呼び込んだり、 相手スーパーの非常識な水準の低価格攻勢にアルバイトを大量に雇用して、 逆にその割引商品を丸ごと買い取って 「売れなくても良いから競争相手の莫大な出血を誘導する」方法を使うのです。 偶然の幸運で「チョルリマ・マート」がこの競争で勝利したとしましょう。 では他の3か所の近くの大型マートで働いていた労働者はどうなるでしょう? 「チョルリマ・マート」の職員は相変らず幸せかもしれませんが、 少なくともライバル業者のすべての労働者が 「チョルリマ・マート」の幸福を分け合うことはできません。

結局、「チョルリマ・マート」が資本主義の波の中で、孤高な島として存在することを期待するのは難しいです。 実際に作品の中でも「チョン・ボクトン」と共にスーパーを率いる店長の「ムン・ソック」は、 時々「人員効率化」の誘惑を感じます (もちろん「チョン・ボクトン」のおかげでいつも挫折するだけでなく、 最後には店長本人も「競争勝利」ではなく「スーパー職員と共にする日常」を 守ろうとするのですがね)。 社会主義の目標は、特定企業に限定した、 それも、いつどう侵食されるかわからない「不安で制約的な幸福」ではありません。

社会主義では個別の企業がそれぞれ利益を得るために競争するのでなく、 社会的な必要に応じて財貨とサービスを供給するようになります。 そのために個別の資本が企業を所有せず、 国家や地域共同体などの社会が所有して、 労働者と共に運営と統制をすることになります。 同じ品目の財貨やサービスを供給する企業体はさまざまかもしれませんが、 各自の利益の極大化計画ではなく、 社会全般的に調整された計画によって生産するので、 互いを踏み倒すためにあれこれする理由がありません。 今のように出血競争と過剰生産、マーケティングに莫大な費用を浪費する必要がなく、 虎視耽々と労働者を費用削減の対象とする根本的な原因も除かれます。 もし、ある企業体が労働過程の便宜や製品の質を高める革新をすれば、 他の企業体の労働者も共有し、自分の職場でも導入して拡散させることもできます。 共同体は目的意識的に労働者と消費者の満足を高めるために、 資源投入を計画して執行することで、 特定資本の資金力という偶然的な要素に依存しなければならなかった資本主義より、 さらに安定的かつ持続的な革新の基盤を提供するでしょう。

「チョルリマ・マート」を見ながら面白かったのは、 ただこの作品が「コミック漫画」だからだけではありません。 作中人物が自分の職場を自分たちだけの独特の職場で作っていく過程一つ一つが愉快で楽しいのです。 この漫画、あるいはドラマをぜひ見ろと広告しているのではありません。 ただし「私は職場で幸せなのか、不幸なのか」という質問を投げようと思います。 誰にでも暮らせる職場が提供されていなければならず、 人生が楽しくなければならないのですから、 職場もおもしろくなければならないということ。 社会主義はそんな世の中に向けた愉快なシナリオです。[ワーカーズ59号]

原文(ワーカーズ/チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2019-10-03 11:48:42 / Last modified on 2019-10-18 02:57:32 Copyright: Default

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