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韓国:ノーキッズ・ゾーン、ノークィア・ゾーンそして民主主義 | ||||||
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ノーキッズ・ゾーン、ノークィア・ゾーンそして民主主義[ワーカーズ]レインボー
パク・ジョンジュ(地球地域行動ネットワーク) 2019.04.19 09:35
![]() 子供を追い出す社会3月下旬に入った頃、題名には「ウテの涙」、著者と書かれた所には「チョン・イス」と書かれた3ページ分の文が インターネットで話題になった。 4ページ目には泣いている弟が描かれていた。 この文は絵本を描く11歳の作家が書いたもので、 弟の誕生日を迎えて家族と外食に行き、 「ノーキッズ・ゾーン」のレストランに入れない日の日記だ。 最後には映画「人生は美しい」から引用された文章が記されている。 「お父さん! なぜ犬とユダヤ人は店に入れないの?」 レストランの利用を制止された子供の当事者が書いたこの文は、 多くの支持と共感を得たが、 ある人たちは子供の排除を正当化する修辞を繰り返した。 子供たちは騒々しいから仕方ないとか、 子供たちを統制できない両親が悪いとか、 あるいは子供たちがレストランに行く権利だけがあるのではなく、 レストランの主人が自分のレストランを思いのままに運営する権利もあるとかいった言葉だ。 先に支持と共感を(そして「おとな」としての「反省」を)書いた人たちは、 ここに反論する言葉も見える。 子供たちがレストランやカフェのようなところに行けないのなら、 そのようなところでのマナーをどこで学ぶのかという言葉や、 子供たちに行ける空間はほとんどないのに、 ただ入れないようにしてはいけないという言葉、 あるいは子供たちを(たびたび忍耐しながら)受け入れるのがおとなの義務だという言葉。 こうした姿を見ながら、この子供たちの未来を想像してみる。 彼らがいよいよ子供ではなくなった時、 彼らがどこに行って何ができるのかを想像してみる。 青少年が、あるいは成人になった彼らの能力を想像するのではない。 彼らがどこに行っても良く、何をしても良いと許されるのかという想像だ。 何かの不愉快を、誰かを追い出す正当な理由と思う社会、 あるいは一時的には我慢できるものと思う社会で、 彼らがーあるいは私がー受けることができる許諾のことだ。 少数者を追い出す社会このできごとより少し前に、崇実大学校のニュースが新聞の紙面に上がった。 あるサークルが、キャンパスに新入生歓迎横断幕をかけようとして学校側から制止された事件だった。 性少数者の会が製作したこの横断幕に 「性少数者新入生」に言及する言葉が書かれているという理由であった。 学校側の人物は不許可の理由を 「キリスト教大学としてのアイデンティティを維持するための次元」と明らかにしたという。 (崇実大学校は2015年には性少数者を主題にした映画の上映を問題にして、 学生たちが準備した人権映画祭に講義を貸すことを拒否した。) 性少数者の人生を扱うイベントやビラの掲示を禁止するばかりか、 性少数者の入学禁止もはばからないキリスト教の大学を 「ノークィア・ゾーン(No Queer Zone)」と呼んでも全く誇張ではないだろう。 しかしこれはキリスト教大学だけの問題でも、性少数者だけの問題でもない。 同性の恋人が道路で手を握っても非難して、 公然とムスリムや難民を追放しろと話す社会、 各種の形態の女性嫌悪が幅をきかせる社会、 障害者が地域社会で生活することを嫌う社会、 労働者の仕事は労働なのだから、争議で経営に影響を与えてはいけないと話す社会、 そのような社会が今の韓国であるからだ。 こうしたことは、ノーキッズ・ゾーンを作って擁護することと果たして違うのだろうか? 私が信じるーそして社会的に主流のー秩序から抜け出す彼らを社会から除去しても良いという、 いや、除去しなければならないという論理が裏にあることを考えれば、 彼らはすべて少しずつ異なる外観を持っているだけで、 態度は互いに違わない。 こうした社会で個人の選択肢はふたつしかない。 追い出されるか、自分から改めるか。 まさに「おとな」や「正常な人」、あるいは「韓民族」になれないのなら追い出されるしかない。 平等権や労働権、あるいは宗教の自由のようなものを放棄することにより、 2順位や3順位程度の入場券を得られるかもしれないが、 それも自分の(大きな)一部を追い出すことでしかないので、 実は追い出される選択肢しかない。 そして民主主義大韓民国憲法第1条第1項は「大韓民国は民主共和国だ」という文章だ。 続く第2項は「大韓民国の主権は国民にあり、すべての権力は国民から出てくる」と規定する。 つまり、権力は権力者個人のものではないので、主権者が参加する民主主義的な手続きを通じて委任して、時には回収できるという宣言だ。 しかしこれは単に手続きの問題ではない。 あの国民というものが、意が統一された単一な集団なら、 誰もが同じ一つの秩序だけに従って暮らせるのなら、 初めから民主主義は必要ではない。 一人一人がすべて互いに違うことを考えて、 互いに異なる形態で生きていくから必要なのが民主主義であり、 そのすべてを抑圧するのではなく、互いに平等に待遇して討論して対話するという約束が共和制だ。 換言すれば、公共領域に誰かが入場し、そこで自分の人生を営み、話すことを遮断することは、 それ自体で民主社会の原理を否定する行為だ。 したがって 「キリスト教大学としてのアイデンティティを維持」するために特定の発話を禁じるという言葉は、 そこが平等な学問共同体ではなく、ただ既成の秩序を維持し強化する機関に過ぎないという告白だ。 子供たちはまだ公共の場所でのマナーを知らないから、 レストランやカフェに来る資格がないという言葉は (反対にー『時には』よりも『たびたび』に近い頻度でー大人が社会の秩序を知らせなければならないという言葉も)、 韓国に住みたければ出身地の文化を放棄して韓国の文化に従わなければならないという言葉も、 淫らな話はやめて健全な性風俗を守れという言葉も、 目的もなく車椅子に乗って道に出てきて通行人に迷惑をかけるなと言う言葉も、 性平等だから労働尊重といった言葉で社会の対立を起こさないという言葉も、 すべてが同じ告白でしかない。 互いに異なる人々が討論と対話を通じ、 新しい生き方を作るのは、 ただ学問共同体のものではなく、 すべての民主的共同体の事だから、 あのすべての言葉はただ自分が民主主義に反対するといった告白でしかない。 ノーキッズ・ゾーン、ノークィア・ゾーン、家父長主義的集団、難民反対デモ、座込場強制撤去、 こうした所から追い出されるのは、単に数人の人でない。 こうしたところで禁止されるのは、単に特定の行為ではない。 ここから追い出されること、ここで禁止されるのは民主主義そのもの、 平等な人生そのもの、互いに異なる人間という存在そのものだ。 追い出された私たちがまた動き始めれば、 それは単に一つ席を増やすのではなく、 そこの原理と秩序を、その空間自体を新しく作り出すことだ。(ワーカーズ53号) 翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2019-04-16 19:11:55 / Last modified on 2019-04-28 08:31:38 Copyright: Default 世界のニュース | 韓国のニュース | 上の階層へ | ||||||