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転換点に立った朝鮮半島、省察的国際政治のために

[ワーカーズ]朝鮮半島

イ・ユチョル(国際政治研究) 2018.05.23 18:15

[出処:サゲ]

朝鮮戦争停戦65年、現在、朝鮮半島は転換点に立っている。 北朝鮮は彼らの生存、つまり体制の安寧のためだと言っていた核を放棄することもできるというジェスチャーを国際社会に見せている。 こうした北朝鮮の態度の変化が公式化される南北首脳会談と北米首脳会談を目前にした現在、 北との修交、朝鮮戦争終戦合意と平和協定締結の可能性に対する楽観的な展望が少しずつ流れ出ている。

冷戦以後、戦争の恐怖だけが支配してきた東北アジア、朝鮮半島での見慣れない平和局面だ。 しかし相変らず私たちにとっては現実主義的な接近だけが有効な代案として提示されている。 現在の馴染みのない状況は、単に東北アジアを構成する国家間の利害関係が一致した状況、つまり一時的現象に過ぎず、 国家間の対立と日常的な競争状態に回帰するほかはないということだ。 この現実主義的な代案は、北朝鮮の態度の変化や彼らの崩壊に備えた軍事力強化、あるいは韓米日同盟を通じ、 絶対的な権力の優位を追求しなければならないという主張、 あるいは現在の平和局面を強固にするために対話や経済的交流、そして国際制度を構築しなければならないという主張に集約される。

これはこの65年間変わらない提言だ。 保守-進歩を問わず、韓国の議論はこの枠組みから一度も抜け出せたことはない。 左派も同じだ。 同一の現実認識の下で、保守の提言より融和的に、楽観論者などよりも現実的な提言をするだけだ。 果たして朝鮮半島に関する左派の認識が「反米、反帝」、「下からの統一」、「東北アジア平和体制構築」からどれだけ前進したのか? むしろ自らの観点に基づいた理論を作るよりも、必要による自己満足的なスローガンを再生産してきただけではないだろうか? 転換点に立った朝鮮半島。 支配勢力の主導の下で今一度、朝鮮半島の秩序再編を目前にした中で、 国際政治についてわれわれの観点と理論が何なのかを確かめるべき時だ。

本稿は何が国際政治に対する私たちのジレンマを強めたのかを確かめようと思う。 冷戦と脱冷戦を経て、われわれの観念を支配してきた理論的観点は何か、 そしてその問題点は何かを調べ、私たちができること、 あるいはできないことは何か調べてみたい。

不安定な国際秩序の根源

朝鮮半島と東北アジアは常に国家間紛争の可能性が高い不安定性を持つ地域だった。 これは何か特定の理論ではなく、国際政治理論の主流思潮すべてが同意する部分だ。

これらの理論の根拠は、国際体制の無政府性と単位国家の自嘲的行為にある。 国際体制における世界政府の不在は、その構造の属性を自然状態、 すなわち日常的な闘争状態を生産し、 こうした属性は国家に自助的行為を追求させることに繋がりかねないということだ。 このような自助的行為の終着点は国際体制内の単位間の勢力バランスだ。 勢力バランスが崩れると、国家は自助的行為によりバランス(軍備増強、同盟締結)を追求するが、 問題はその過程で現れる安保のジレンマが構造的な不確実性を深め、 不安定な国際秩序と紛争の可能性を強めるという点だ。

こうした国際政治理論は東北アジア、朝鮮半島に対する懐疑的展望を生む。 冷戦秩序による両極体制の場合は、生存という目標の下に形成されたそれぞれの同盟構成国が一定のパターンで予測可能な安定的秩序を形成するが、 中国の浮上と米国の相対的な覇権の弱化、北朝鮮の非対称戦力開発などにより、勢力バランスが崩れた多極体制は違うという主張だ。 つまり、領域内の構成国による自助的行為の追求につながり、 安保のジレンマを呼び、 対立の可能性を内包する予測不可能な秩序を形成させるという視角だ。 特に米国中心の東北アジア秩序における中国の浮上は、 領域内の国家に修正主義的な意図と解釈され、 現状維持勢力の安保結束と競争的様相がさらに強化されるため、 結局、領域内の非協調的な国際秩序が形成されるほかはないということだ。

もちろん現実主義的な秩序に基づく代案しかないわけではない。 経済的な相互依存や民主的政治体制の共有を通じて相互の信頼を積み、 領域内に常設的制度を構築して領域内の規律と規則を生産し、 安定した側面で国際秩序を管理することができるという主張がそれだ。 しかし東北アジアは常設の制度が存在しないばかりか、こうした制度を構築する条件である多者協力の文化と慣習も不在なので、常設的制度の構築は難しい。 さらに東北アジア内の国家間の歴史認識の偏差と、相異なる政治体制は、 潜在的な紛争要素の管理より相互の不信をさらに深めるだけだ。 すなわち、ヨーロッパの秩序とは正反対の要素を内包する東北アジアには、 不安定な脱冷戦秩序が形成されるという主張だ。

結局、東北アジアには第一・第二次大戦の間のヨーロッパの状況と類似の多極体制が形成され、 軍備競争と周期的な軍事衝突が続く状況に発展するという結論に至る。 そしてこうした理論の唯一の解決策は、自然状態で各国家の自助的行為である無意識的な勢力バランスを追求するだけだ。

しかし私たちが注目する点はこうした国際秩序の下にある韓国、北朝鮮のジレンマだ。 結局、韓国、北朝鮮の運命は領域内覇権国である米国と中国の利害関係にかかっている。 上の観点によれば、朝鮮半島の平和は当事国である韓国、北朝鮮とも、領域内秩序は勿論、 国際秩序を自ら構築できるほどの物理的な力を持てないため、 結局覇権国であり朝鮮半島と緊密な関係にある米国と中国に頼るほかはない。 もちろん、北朝鮮の核兵器とICBM開発は領域内の勢力バランスを崩して二つの覇権国を自分たちが望む交渉テーブルにつけることに成功したが、そこまでだ。 したがって、朝鮮半島に関する議論は結局、いわゆる戦略的なジレンマと表現される米中間の勢力競争において、韓国がどのような選択をすべきかという質問に帰結する。 そしてその返事もまた、韓米同盟強化、親中外交あるいは連米和中戦略という制限された選択肢からみつけるほかはない。

現実と理論の乖離、現状維持が持つ意味

しかし脱冷戦30年、停戦65年間の懐疑的展望とは違い、 朝鮮半島は比較的安定した秩序を維持してきた。 もちろん、主流理論の信頼のように紛争的な要素は国家間の不信を深め、 不安定な安保秩序は競争的軍備拡張を誘発し、 領域内の緊張を高めてきた。 その上、北朝鮮の非対称戦力強化は現実主義的な代案が東北アジアはもちろん、 朝鮮半島を支配する契機になった。 しかし現在の和解局面が示すように、領域内の紛争の要素は緊張を深めても、 物理的な対立にまで至ることはなかった。 ヨーロッパのような常設的制度は存在しないが、 懸案と課題中心の両方の業務交渉と多者協議を通じ、 領域内の紛争的な要素を管理してきたといえる。 ではこうした現実と理論の乖離はどこに始まったのか?

実証主義に基づく科学的接近(自然状態の下の単位国家間で繰り返される行為の観察と法則発見)と 合理的選択(希少資源をめぐり競争し、自己利益を極大化しようとする合理的理性を持った国家と彼らの自助的行為)に基づいて国際政治を分析してきた 既存の主流国際政治学者にとって、 現象についての科学的な説明(因果的推論と論理性に基づく予測の可能性の発現)は絶対的なことだった。 そのような現実を認知して、これを説明すること自体が目的である理論にとって、 理論と現実の間隙は理論の失敗を意味する。 しかし彼らが信じる学問と非学門を区分する科学的方法論も絶対的ではない。 不完全な人間の認識に基づいた自然科学の方法論により、 有機的複合体としての社会を分析することは観察対象を単純化するだけだ。 国際体制を自然状態と同一なものとして、その中の単位(国家)を観察し、一つの法則を発見し、 これを理論化する実証主義的な理論の一義的な世界観は、 国際政治の非可視的実在を死蔵させて時空間を超越した絶対的構造とその中の単位として国家を位置させる。 すなわち、国家を主体ではなく一つの単位に転落させる。 彼らにとって主体(国家)とは結局、世界を理性の鏡に映った固定した像であり、 科学実験の観察対象の変数でしかない。

しかし彼らが信じる変数(国家)は社会的存在で構成され、 多様な人種とそれぞれに異なる地理的条件を持つ一定の領土の中で、 社会的存在(人間)間の相互関係、そしてそうした国家間の相互関係を結び、 多様な歴史、文化、慣習、倫理、生産、さらに人間の欲望などを形成して 多様な属性を持つ社会的に構成された国家だ。 つまり、国家は人間間、人間と社会の社会的関係の歴史を含む国家-社会の複合体であり、 したがって単位間の関係である国際関係は、 国家-社会複合体の間の関係として再解釈される。 そして、そうした国家-社会の複合体により構成された国際体制は、 構造ではなく人間-社会-国家の歴史的な相互関係の中に作られた特定の時期に、特定の地域に、特殊な形態の国際秩序を反映する(地域)国際社会として再構成される。

結局こうした観点では、主流理論が前提とする無政府性と国家という単位が再生産する体制的属性は、 決して一般化されることができないことになる。 そのように国際政治が安保と生存領域だけに限定されるべき根拠は消える。 すなわち、主流理論等の国際体制の無政府性や国家の合理性は不自然なものになってしまう。 そしてこうしたことはこれらの理論と現実の乖離が必然的にならざるをえない理由を説明する。

それでもこれまで主流理論に執着してきた理由は客観性にある。 彼らの現実主義的認識とその代案両方を受け入れたり同意はしなくても、 彼らの科学的観察と検証過程により生産された経験的/分析的知識が客観的事実に基づいたこと、 そしてそれが中立的であることもあるという信頼のためだった。 こうした価値中立性テーゼは観察者を国際政治の現実と分離した存在と見て、 彼らが認識する観察対象を一つの孤立した存在として観察された事実だけを把握して、 これを把握する観察者と観察者から導き出された概念や判断も一つの独立的な構成要素としてだけ把握するところに始まる。 しかし観察者(理論家)も観察対象もそれ自体で社会的関係とは分離できない。 観察者たちも国際政治の現実と分離した存在ではなく、 むしろそれを構成する重要な単位であるという点で、 彼らも価値から自由ではなく、観察対象も社会的脈絡から分離できない。

特に、観察者の観察と検証を通じて生産された経験/分析的知識も社会現象(自然)の統制(法則化)に関心を持っているので、 その知識価値指向性を持つほかはない。 彼らは自分の知識に基づいて、覇権国中心の単極体制や両極体制が安定的な国際秩序を維持することとして、現体制と秩序の現状維持を代弁している。 私たちにとって現秩序を受け入れるという選択肢だけを提示しているのと違わない。 これは平和を制度化する方案として提示する経済的な相互依存論、 民主平和論、そしてこれらの終着点であるレジーム構築が持つ覇権従属的な属性と相対している。

すなわち、国際政治に対する省察的態度と知識構成の目的、 その理論の内在的価値に対する洞察が必要だ。 一定の価値はすべての知識の構成と知識生産の過程で投影されるほかはない。 科学的理論も特定の時期の歴史的な文化の反映、換言すれば特定社会集団と階級によって異なる方式の関係を避けることができず、 これは純粋科学理論でも同じだ。 そのような点で、現在の国際政治秩序の矛盾を指摘して、これを変形するよりも、 その内部でそれと共に作動させる主流理論は現秩序に服従を強要する肯定の哲学だ。

東北アジア秩序の省察的再構成のために

われわれはこれまであまりにも当然に現在の秩序を受け入れてきたし、 そうした秩序が絶対的だという信頼のため、その中だけで代案を探してきたのではないか? 先に言及した朝鮮半島が直面する現実で、われわれが持っているいくつかの選択肢は、 徹底して支配勢力の論理の中から導き出された彼らの論理であるだけではないか? われわれ自身がわれわれの論理を正常な範疇から排除し、非正常に位置させてきたので、 それらの代案がむなしいだけではないだろうか?

国際政治をはじめとする社会科学理論は権力に関することだ。 それでもその権力を受け入れることではいけない。 むしろその権力を変形させるための目的性を持ったものでなければならない。 では、われわれはまた向き合った朝鮮半島と東北アジアのこの自然な秩序を不自然なものと認識するところから出発しなければならない。 これまで私たちが信じていた知識への批判を基礎として、 朝鮮半島が直面する状況に対する根本的な質問をもう一度投げてみなければならない。 朝鮮半島と東北アジアが処した現在の対決的秩序は絶対的だろうか? それは果たして望ましいものか? 今まで理論家/研究者はこのような秩序でどんな機能を遂行してきたのか? このような省察的な質問は現在、われわれが向き合っている秩序が決して自然で固定されているものでもないという点を明確に認識して、 その秩序を正しいものに変形させる出発点になるだろう。

もちろん物理的権力は秩序の基礎だ。 力量の限界は秩序変形の主導的役割を制限する。 それでも観念的次元の領域まで制限されるわけではない。 秩序は必ずその秩序の正当性(正義)を伴う。 そしてその秩序の正当性は人類の普遍的価値で構成される。 こうした点でわれわれの価値論理、すなわち平等、自由、平和に基づいた対抗論理を作り出すことは重要だ。 これを通じて、国際政治を再解釈することによって、 現在の秩序を再編する突破口を作り出さなければならない。 これは現在、われわれがしなければならない、そしてすることができる、 支配勢力により再構成される現実に対抗するための、われわれの代案への第一歩であろう。[ワーカーズ42号]

[参考文献]
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原文(ワーカーズ/チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


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