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KBS新労組の誕生から全面スト闘争まで(1)

KBS本部活動| 2012/05/30 18:23 | Posted by Reset KBS言論労組KBS本部

新労組の誕生から全面ストライキ闘争まで

不当懲戒,マクチャン人事粉砕および特報社長退陣ストライキ出征式(2012.3.6.)

3月6日、言論労組KBS本部は「不当懲戒、マクチャン人事粉砕、および特報社長 退陣」のための全面ストライキに突入した。5月24日が80日目で、KBSの歴史で 最長期のストライキであり、史上初の報道機関全面ストライキが進行している。

今回のストライキの直接の導火線になったのは、今年の初めに勃発した13人の 大量不当懲戒とイ・ファソプ報道本部長などの人事だった。

使用者側は今年1月30日、13人の元労組幹部に停職6か月などの重懲戒をした。 2010年6月の理事会妨害、2010年7月の「不法」スト、労組機関紙による名誉毀損 が懲戒の理由だった。2010年7月の団体協約争奪ストライキは完璧な合法ストで、 まだこれについての法律的な判断もない状態だが、使用者側は一方的にこれを 「不法」と規定して1年半前の出来事をまた持ち出し、懲戒の理由にした。

そして二日後の2月1日、キム・インギュ社長は言論労組KBS本部とKBS労働組合 が共同で実施した本部長信任投票で、在籍2/3以上の不信任で職務を解任された コ・デヨン本部長の後任にイ・ファソプ釜山総局長を任命するなど、これまで 不公正放送、人事専横議論の当事者として議論された人々を大挙局長、本部長 に任命するという、とんでもない人事を断行した。イ・ファソプ本部長は、 2010年のパク・チェワン青瓦台首席の論文二重掲載の単独報道を放送させず、 「追跡60分」の4大河川編を2週間も放送させないなど、KBSの公正報道を傷つけ た代表的人物とされる人だった。 そのような人物が報道本部長に任命され、特 に記者は強く反発し、記者協会が無期限の製作拒否を決議、新労組がストライキ に入る二日前に製作拒否に突入して今も続いている。

不当懲戒ととんでもない人事が続き、組合員の怒りは極に達し、2月23日に終わっ た全面ストライキ賛否投票では88.6%の組合員が賛成票を投じ、3月6日に ストライキが始まった。

このように、ストライキの導火線になったのは不当懲戒ととんでもない人事だっ たが、さらに根本的には2008年8月8日の事態以後の落下傘社長たちによる弾圧 と公正放送の破綻に対する怒りと挫折感が、これを契機として爆発したものと いえる。そのためKBS新労組のストライキを理解するためには、KBSが官製放送 に転落した過程と、その過程で新労組が既存の労組から分離し、弾圧の中で戦っ ている理由を見なければならないだろう。

新労組はなぜ、どのように作られたか?

2003年チョン・ヨンジュ社長の登場。労働組合の対立が始まる。

KBSには大きく二つの労働組合がある。一つは2009年末に新労組ができる前の 既存労組である「KBS労働組合」(企業別労組。委員長チェ・ジェフン)で、もう 一つは別名「新労組」と呼ばれる民主労総傘下の「全国言論労働組合KBS本部」だ。

初めてKBSに労働組合が作られたのは、87年6月抗争後の1988年。当時の民主化 の雰囲気の中で、興士団理事長出身のソ・ヨンフン氏が1988年にKBS社長に任命 された。だが軍部独裁に対する抵抗感が増す状況で、言論掌握の必要性を痛感 した盧泰愚政府は、1990年3月、職員に時間外手当の名目で過多な支払いがあっ たという監査院の狙い打ち監査を理由にソ・ヨンフン社長を追い出し、青瓦台 報道官とソウル新聞社長を歴任したソ・ギウォン氏をKBS社長に任命する。 2008年、チョン・ヨンジュ社長が追い出され、イ・ビョンスン、キム・インギュ 二人の落下傘社長が入ってきた過程と似ている。これに抵抗してKBSの職員は 製作拒否に突入、約二か月間、KBSの民主化のために激しく闘い、結局二回に わたる警察力の投入で戦いは幕を下ろす。これが「90年4月放送民主化闘争」 であり、KBS労働組合の根元になった事件だ。今の新労組は90年4月闘争の志を 受け継ぐものだと言える。

90年4月KBS放送民主化闘争

その後、金泳三(キム・ヨンサム)政府の時にホン・ドゥピョ、金大中政府の時 にパク・クォンサン氏がKBS社長に任命され、順次、放送の民主化がなされて (実は、そう見えただけだが)、労働組合は概ね大きな内部的な分裂なく維持 されてきた。

しかし2002年12月に盧武鉉大統領が当選した翌年の2月、チョン・ヨンジュ社長 が任命され、こうした平穏な状態に少しずつ亀裂が生じ始める。

東亜日報解職記者でハンギョレ新聞論説委員出身のチョン・ヨンジュ社長は、 製作現場に最大限の自律性を付与してこれまでの官僚的な人事体系を改編する などの改革措置を取ったが、内部的な抵抗もかなり強かった。記者、PDなどの 取材・製作部の役割が強化され、全職員の半分近くを占める技術など他の職種の 疎外感が強まり、チーム制の実施で職務を失ったシニアグループの反発もあった。

こうした雰囲気の中で、2004年12月に実施された労働組合選挙では、チョン・ ヨンジュ社長に批判的だったチン・ジョンチョル氏(当時、KBS安東放送のエン ジニアだった彼は、後でイ・ビョンスン、キム・インギュ社長就任後に部長、 局長などを歴任し、KBSの「実力者」とされる人物だ)が第10代労働組合委員長 に当選する。彼とチョン・ヨンジュ社長との対立はますます高まり(OhmyNews 連載[チョン・ヨンジュの証言]「暴行事件」の主人公、キム・インギュ体制の 実力者チン・ジョンチョル参考。http://bit.ly/KSmWeI ) KBSは次第にいわゆる 「親チョン・ヨンジュ」と「反チョン・ヨンジュ」に分裂し始める。

チョン・ヨンジュ社長とチン・ジョンチョル労組委員長(左 2005.4)

2008年8.8事態とイ・ビョンスン社長入城

2006年末の労組の選挙で前チン・ジョンチョル執行部と同じ路線のパク・スン ギュ氏が「コード粉砕福祉大当たり」のスローガンを掲げ、11代委員長に当選 したことで、KBS内部は深刻に分裂する。パク・スンギュ執行部は任期中ずっと チョン・ヨンジュ社長退陣闘争を展開し、2007年末の李明博大統領の執権で、 チョン・ヨンジュ社長をさらに強く攻撃した。労組の他にもPD協会正常化推進 委員会などの団体ができ、チョン・ヨンジュ社長の退陣を進めた。だがPD協会 (協会長ヤン・スンドン)、記者協会(協会長キム・ヒョンソク)などは、現時点 でのチョン・ヨンジュ社長退陣運動はつまり政権のKBS掌握に同調するものとい う立場を取った。

パク・スンギュ労組委員長(2008.4. 当時は言論労組を脱退する前)

李明博政権は就任直後からチョン・ヨンジュ社長の退陣を圧迫したがチョン・ ヨンジュ社長は最後までこれを拒否する。なおさら政権の退陣圧迫は強まり、 朝鮮・中央・東亜新聞はチョン・ヨンジュ社長に対するKBS労働組合の疑惑 提議を集中報道した。

キャンドルデモ事態後、政権は本格的に放送の掌握を始めた。PD手帳への捜査 が始まり、KBSチョン・ヨンジュ社長に対する監査院監査が始まった。結局北京 オリンピックが開かれる一日前の2008年8月8日、警察がKBSに乱入して混乱の中、 チョン・ヨンジュ社長は解任される。いわゆる「8.8事態」だ。チョン・ヨンジュ 社長解任の過程で沈黙を守っていた労組の執行部は、警察力投入という思いが けない事態が発生したことで、パク・スンギュ委員長などの執行部は民主広場 で公権力投入を糾弾する削髪式を挙行したが、現場にいた社員の揶揄を受けた。 怒った700人ほどの社員が「公営放送死守のための社員行動」(共同代表ヤン・ スンドンPD協会長、キム・ヒョンソク記者協会長)を結成し、イ・ビョンスン 社長出勤阻止闘争を行ったが、結局8月27日、イ・ビョンスン社長がKBSに入る。

8.8事態当時私服警官に引っ張られて行くキム・ヒョンソク記者(社員行動共同代表。現在新労組委員長)

社員行動の出勤阻止を突破してKBSに入るイ・ビョンスン社長(2008.8.27.)

パク・スンギュ労組委員長は、イ・ビョンスン社長がKBSに入り、本館のビルに かけた「落下傘社長反対」の横断幕を自主的に撒去し、「落下傘は科学的概念 ではない」としてイ・ビョンスン社長の就任を容認した。そしてこれまで対立 してきた言論労組(委員長チェ・サンジェ)を脱退して「言論労組KBS本部」から 「KBS労働組合」に名前を変え、企業別労組に転換する。その後も「社員行動」 との鋭い対立が続いた。

イ・ビョンスン社長は、政権のKBS掌握に抵抗する人々を大量に強制的に配転さ せるなど、いわゆる「9.17報復人事虐殺」を敢行した。今の言論労組のイ・ガ ンテク委員長も、当時「KBSスペシャル」のPDだったが、この9.17人事で非製作 部署の水原研修院に配転させられた。この他にも多くの人々が製作部署から 非製作部署へ、ソウルから地域へと席を移さなければならなかった。

報復の次は、批判的番組の粛清だった。

MBCの「PD手帳」のように政権にとって目の上のコブのような存在だった「時事 トゥナイト」と「メディア フォーカス」がその対象だった。 イ・ビョンスン 社長は就任辞で「今まで対内外的に批判されてきた番組、社会的に問題になっ ても変わらない番組は、真剣に存廃を検討する」とし「時事トゥナイト」と 「メディア フォーカス」の廃止を既定事実化した。廃止が表面化すると、 PD(時事トゥナイト)、記者(メディア フォーカス)は怒り、毎日ピケッティング が行われた。激しい抵抗にもかかわらず、ついに11月中旬の改編で「時事トゥ ナイト」は「時事360」へ、「メディア フォーカス」は「メディア批評」へと 変えて放送されることになった。題名が変わっただけだが、実質的には番組の 廃止を意味することは誰もが知る事実だった。実際に「時事360」は社内審議委員 の悪意的な審議に苦しみ、6か月後に廃止された。「メディア批評」も以前の鋭 い批判機能を相当部分失ったまま、今もなんとか命脈をつないでいる。

「時事トゥナイト」、「メディア フォーカス」の廃止と共に衝撃を与えたのは、 報道局の「調査報道チーム」の廃止だった。調査報道チームはこれまで権力、 公職者の不正などを厳しく深層報道し、多くのスクープを行い、さまざまな賞 を得るなど、2000年代中盤から韓国の調査報道の活性化に決定的な寄与をした。 こうした成果で当時の記者は自負心も強かった。 だがイ・ビョンスン社長は、 この調査報道チームを強引に解体し、チーム長として調査報道チームの中枢的 な役割を果たしてきたキム・ヨンジン記者を蔚山に発令した。

時事トゥナイト、メディアフォーカス廃止反対集会(2008.11.11.)

一方、李明博大統領のラジオ週例演説強行も、内部の強い抵抗を呼んだ。80年 代末、盧泰愚政権の時にラジオでしばらく大統領週例演説放送をしてから20年 近くたってKBSがそんな放送をすると考えた人は殆どいなかった。ところがこれ からまた大統領の「玉音放送」をするという事実に、ラジオPDをはじめとする 多くの人々は衝撃を受け、ピケッティングし、ラジオ委員会を開いて反対した。 だが結局、放送は強行された。

ところが労働組合は沈黙していた。チョン・ヨンジュ社長の時の「時事トゥナ イト」や「メディアフォーカス」は、チョン・ヨンジュ社長下のKBSが「偏向」 している証拠だと主張してきた労組が、これらの番組の廃止に共に戦うはずも なかった。こうして、同じ組合の中にありながら対立的だった労組の執行部と 社員行動の不安な同居は、2009年末に新労組が発足するまで続いた。

このようにイ・ビョンスン社長はこれまで政権に批判的だった番組と人、組織 を暴力的な方法で一つ一つ除去していった。そして、チン・ジョンチョル(10代 労組委員長)、イ・ジュナン(11代パク・スンギュ委員長当時言論労組委員長に 当選して弾劾。8.8事態以後、KBS正常化非常対策委共同代表)、チェ・チョロ (チン・ジョンチョル委員長当時労組事務局長)、ユン・トンチャン(90年代末 PD協会長出身。PD協会正常化推進協議会活動)、オ・ジンギュ(KBS正常化非常対 策委共同代表)、パク・カプチン(KBS正常化非常対策委共同代表)、ユン・ミョ ンシク(KBS公正放送労組委員長)氏など、労組の元幹部を中心に、チョン・ヨン ジュ社長退陣を主導した人々を大挙して局長などの高位幹部に登用した。彼ら はほとんどがキム・インギュ社長就任後も社内の核心的位置を占めている。

その年の12月に実施された労組委員長選挙は、KBSばかりか全国の関心を引いた。 まだキャンドルデモの余韻が残る状態で、KBS労組の選挙結果は今後、MB政権の 言論掌握が順調にいくか、あるいはある程度制御されるかを決定する重要な 要素だった。

だが社員行動が支持したキム・ヨンハン候補は決選投票の末に、パク・スンギュ 執行部で副委員長をしていたカン・ドング候補に66票差で負ける。これで政権 によるKBS掌握と戦う最後の砦も崩れ、2008年を熱くしたキャンドルの熱気は 完全に消滅することになる。

新年になり、最も憂慮されていたことがついに現実になった。イ・ビョンスン 社長は2009年1月16日、社員行動共同代表のキム・ヒョンソク記者協会長とヤン・ スンドンPD協会長を罷免、ソン・ジェホ記者を解任した。結局、再審で、罷免 解任だけは防げたが、イ・ビョンスン社長は反対勢力の弾圧を続けてKBSを官製 放送に作っていった。

だがイ・ビョンスン社長はその気難しい性格と無条件予算を削るような低次元 の経営方式で社員行動ばかりか全職員の心を失う。その年の末、イ・ビョンスン 社長の連任を控えて労組が全職員を対象に実施したアンケート調査で76.9%が 連任に反対すると答えた。彼は結局連任に失敗し、1年3か月で社長の座から 不名誉な撤退をした。

(2編に続く)

原文(KBS新労組サイト)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定によりクリエイティブコモンズ ライセンス 著作者表示、営利利用不可、原文変更不可に従います。


新労組の誕生から全面ストライキ闘争まで(2)

KBS本部活動| 2012/05/30 18:24 | Posted by Reset KBS言論労組KBS本部

(1編から続く)

2. キム・インギュMB特別補佐官,ついにKBS社長になる

2009年11月19日、キム・インギュ氏がイ・ビョンスン社長の後に続いて、次期 社長に決定した。KBS記者出身のキム・インギュ氏は、2007年の大統領選挙の時 に李明博候補の放送戦略室長として働いていた。政権に直接身を置いていた人 がKBS社長になったのは、1990年のソ・ギウォン社長以後、19年ぶりだ。当時、 盧泰愚政権がソ・ヨンフン社長を強制的に退任させてソ・ギウォン氏を任命し、 KBS社員が強く反発したことで、1990年4月の放送民主化大闘争が起きる。その 後、政界の人物がKBS社長になるのはタブー視されてきたが、キム・インギュ社長 の登場でその社会的な合意がこわれてしまったのだ。

実はキム・インギュ氏は、2008年にイ・ビョンスン氏が社長になった時の有力 候補だった。だが強制的にチョン・ヨンジュ社長を追い出した後、すぐ大統領 選挙特別補佐官出身者をKBS社長にすることが負担だったのか、彼は社長公募の 締め切り一日前に応募を放棄し、結局イ・ビョンスン氏が社長になった。だが 今度は堂々と特報出身者がKBS社長になったのだ。1年余りの時間が過ぎ、言論 掌握に対する政権の自信も強まり、一方ではイ・ビョンスン社長に対するKBS 内部構成員の嫌悪感も作用したのだろう。

当時の労組執行部の立場は妙だった。初めから、「キム・インギュ、イ・ビョ ンスン、カン・ドンスン」の三人を落下傘と規定して反対したが、少し後で 「キム・インギュ反対」に立場を旋回したのだ。労組がイ・ビョンスンを支持 しているのではないかという疑いが起きたのは当然だ。

イ・ビョンスンとキム・インギュ、二人のうち誰が社長になるかは全くわから なかった。11月18日に次期社長選任のための理事会が開かれ、ついに深夜12時 になってキム・インギュ氏が最終的に合格点を受けたという知らせが伝えられ た。そしてキム・インギュ社長は11月24日、社員行動と労組執行部の出勤阻止 を突破してKBSに入り、就任式を開く。

キム・インギュ特報社長出勤阻止(2009.12.24.)

カン・ドング委員長は「特報社長がくれば組合の看板を下ろさなければならな い」とし、キム・インギュ特報社長がくれば全面ストライキ闘争に突入すると 言い放ってきた。11月26日、全面ストライキ賛否投票が始まり、カン・ドング 委員長は賛否投票の可決を要求するために無期限ハンストに入った。社員行動 はこれまで労組と対立的な関係にあったが、今回は労組の全面ストライキ闘争を 積極的に支持することにした。

投票が始まると、予想外に投票率は高かった。労組執行部は高い投票率で可決 すると楽観していた。だが結果は意外にも77票差で否決だった。特報出身が KBSの自尊心を根元から押し倒して社長になったのに、組合員はストライキ賛否 投票を否決させるというとんでもない惨事になったのだ。2008年8.8事態とその 年末、労組選挙の敗北後に起きた最も衝撃的な事件に、ストライキ闘争を準備 していた今の新労組の組合員はKBSの未来にこれまでより濃い暗雲が来ているこ とを感じていた。

3. 新労組が建設される

この衝撃的な結果に対し、社員行動を中心とする組合員は、執行部がストライ キ否決の責任を取り総辞職した後、特報社長に対抗する新しい戦いを準備しろ と執行部を圧迫した。だがカン・ドング委員長はこれを拒否し、断食を続けな がら度重なる辞任要求を頑強に拒否した。そして労組執行部はキム・インギュ 社長の就任を認める手順に入った。

もはや特報社長と戦う方法がなくなった絶体絶命の状況だった。結局社員行動 は新しい労組を作り、公正放送を守ることに意見を集約し、その年の12月記者、 PD組合員を中心とする約600人が脱退、言論労組に加入して「全国言論労働組合 KBS本部(新労組)」を建設することになる。委員長にはオム・ギョンチョル記者、 副委員長にはイ・ネギュPDが単独で立候補して、当選した。

言論労組KBS本部出征式(2010.3.11 KBS)

労組執行部は社長就任1年後に信任投票を通じ、去就を決めることにするなどの いくつかの約束を受け取って、キム・インギュ社長の就任を容認し、1月4日の 始務式にカン・ドング労組委員長が出席、キム・インギュ社長と同じように ケーキカットを見せ、キム・インギュ特報社長体制を完全に認めた。

始務式席に参加にしたキム・インギュ社長とカン・ドング労組委員長(2010.1.4.)

使用者側は新労組の発足を執拗に妨害した。記者、PD、アナウンサー、技術、 経営、カメラマンなど、新労組の組合員が少い部署では、新労組に加入すれば 不利益を与えるという幹部の脅迫が公然と行われた。実際に現在大邱総局長の カン・ソンホ当時映像取材局長は「社長が新労組をとにかく壊せと指示した。 脱退しない奴らのリストを把握して報告しろといった。脱退しない奴らは人事 考課を最下にしろといった。脱退しなければ私も考課を下げる。脱退するまで 仕事はさせない」と組合員を脅迫して物議をかもした。(2010.3.25. 労報 「新労組破壊作戦の転末」参考 http://kbsunion.tistory.com/67 )

使用者側は、労組結成の不法の有無について法的検討をしたが労組結成自体を 防ぐことはできなかった。現行の労働法で複数労組は禁止されているが、既存 の労組が企業別労組で、新生労組が産別労組の場合、複数労組とは認めないと いう判例があるためだ。その代わりに労組結成は認めるものの、交渉権は認め ないという方向で糸口をつかみ、訴訟まで行ったがその年の7月に新労組が勝訴、 結局団体交渉権を認められるようになる。

政権のKBS放送掌握が完成される

2009年12月、いよいよキム・インギュ特報社長がKBSに入城した。そしてKBSは 驚く程速く第5・第6共和国時代に回帰し始めた。事実、キム・インギュ社長に なっても、これほどまで放送を壊すと思った人は多くはなかった。何より特報 出身という「原罪」があり、ある程度用心するのではないかという期待も一部 にあったのは事実だ。だが特報社長の登場以後のKBSは、それこそ空しく退行を 始めた。前任のイ・ビョンスン社長が放送の批判的機能を去勢することに力を 入れたとすれば、キム・インギュ社長はさらにKBSを政権の広報の道具として、 それも驚く程、早く果敢な方式で変えていった。

その年の12月27日、KBSは「挑戦ゴールデンベル」の放送を突然中断して李明博 大統領のUAE原発受注の知らせを臨時ニュースで伝えた。ニュースはこの国家的 「慶事」で埋めつくされ、「原発輸出記念・開かれた音楽会」まで放送された。 これは、これから起きることの予告篇でしかなかった。(公正放送推進委員会 報告書「手綱弛められた政府協賛、このままではいけない」 http://kbsunion.tistory.com/32参考)

天安艦事件が起き、遺体が引き揚げられる前に追慕募金放送をするかと思えば、 政府の調査結果発表の直前にPDが声明書まで発表して極力反対したが、西海交戦 を主題にした「緊張の西海、NLLを考える」の放送を強行した。6.2地方選挙の 10日ほど前に公安政局の雰囲気を造成し、与党の選挙を助けようとする意図だ という疑いを持たないわけにはいかなかった。

2010年のG20首脳会談の時は、G20を広報する特集番組が何と3,300分も放送され た。3,300分といえば、ドラマ「太陽を抱いた月」20部作、1200分の3倍に近い ものすごい分量だ。「G20特別企画・快適韓国、国格を高める」のような恥ずかしい タイトルをつけた番組は、G20で韓国の国格が上がり、途方もない経済効果になる と大げさに騒いだ。(声明書「G20放送狂風、誰のためか?」 http://kbsunion.tistory.com/220参考)

ニュースは急激にソフトになっていった。4大河川もBBKの内容もニュースから 痕跡をなくしたようなものだ。暴露専門ウェブサイトのウィキリークスが米国 政府の文書を公開して世界的に話題になると、ニュースは初めにこれを重く扱っ たが、韓米FTA、BBKなど、韓国に関する敏感な内容が公開されると口を閉じて しまった。権力を批判する内容はほとんどなくなり、その代わりに「猪が都心 に出没」といった報道は何度も重く扱われた。一線の記者はKBSが「猪ニュース」 になってしまったと嘆いたほどだ。

キム・インギュ社長の登場以後、KBSで起きた公正性、製作自律性事例はここで いちいち数え上げるのは不可能なほどだ。それだけKBSの放送は徹底的に壊れ、 組合員の怒りと恥辱感は到底推し量れないほどだ。(最近作成した資料にこれに ついての実態を収録した。参考 http://www.kbsunion.net/651)

またキム・インギュ特別補佐官社長は、自分に友好的な勢力は、不正や暴行の 経歴があっても重用しても、新労組など批判的な勢力には仮借なく懲戒と弾圧 の刃を振り回した。

キム・インギュ社長が就任した直後、理事会はイ・キリョン前報道本部長を監事 に任命した。イ・キリョン氏は2007年7月、大邱慶北産業振興院長在職時の友人 の息子を不正就職させようとしたが、監査で減給3か月の重懲戒を受けた前歴が ある人で、こうした人が公営放送KBSの監事になったのだ。この史上初の事態が 起きると、監査室の職員20人は「採用不正は監査指摘事項の中でも罪質が悪く、 (これにかかわった)イ監査は監査責任者としての資格が欠如している」”という 声明を出した。これも史上初の事態だ。するとキム・インギュ社長は監査室の 職員8人を交替してしまった。結局、不正の前歴がある人物の監事の座を保障 するために、問題提起をする監査室職員を総入れ替えしたのだ。(声明書「不正 監事イ・キリョンは自主的に辞任しろ」 http://kbsunion.tistory.com/6参考) こうしたとんでもない事件は、KBSでは何でもないようにいつも行われている。

企業から数百万ウォン分のゴルフ、酒接待を受けたコ・デヨン報道本部長は、 結局何の罰も受けず、部下の職員をアザが残るほど暴行した労組の元委員長の チン・ジョンチョル局長も「警告」で終わった。しかしストライキ期間の4月 20日、テント強制撤去中、社長の悪口を言ったという理由で新労組の公正放送 推進委幹事のチェ・ギョンヨン記者を解雇してしまった。

団体協約により実施された本部長信任投票で、2010年に集中的な不公正放送を 主導し、史上初の88%の不信任を受けたキル・ファニョン コンテンツ本部長 は、解任されるどころか(団体協約には在籍組合員2/3以上が不信任すれば解任 できる)副社長に栄転した。(www.kbsunion.net/462参考)

このように自分に友好的な勢力と批判的な勢力に対する徹底したダブルスタン ダードと暴力的な方式の統治は、KBSのキム・インギュ、MBCのキム・ジェチョル、 YTNのペ・ソッキュといった「落下傘」社長の共通の特徴だといえる。

2010年7月全面ストライキ

こうして放送の管制、不公正化が急速に進んだが、社内でこれを効果的に制御 することはできなかった。既存労組の対応は強くなく、発足したばかりの言論 労組KBS本部は死力を尽くしてこれを防いだが力不足だった。何より労組を結成 しても団体協約がない状態で、公正放送のための闘争を遂行するには限界があっ たためだ。何よりも団体協約とそれによる公正放送委員会を勝ち取る必要性が 切実だった。

2010年上半期から団体協約締結のための労使間の交渉が進められたが、退屈な 交渉の末に結局決裂した。そして2010年7月1日、団体協約締結と公正放送争奪 のための新労組全面ストライキが始まった。

できてから6か月しかたたない労組が、実際にストライキをできるのか、しても 長い間続けられるのかについては、使用者側も半信半疑だったようだ。だが、 キム・インギュ社長の半年、公正放送の破壊と各種の専横を味わった組合員の 怒りは非常に強く、ストライキは熱い熱気の中で進められた。組合の執行部も 驚いたのは、組合員の自発的な参加と創意性だった。ストライキは毎日毎日が 祭りの雰囲気で進められ、これらすべては組合員がアイディアを出し、小物を 作り、出演芸能人と交渉し、新しい闘争の方向を提示しながら行われた。ある 意味では、韓国のスト史上、今までになかった新しい様相を作ったと言える。

公正放送死守、団体協約争奪のための全面ストライキ(2010.7.1-7.29)

2010年のストライキは合法ストライキだったが、使用者側は「不法」と規定し 続け、業務復帰と懲戒を口にしながら復帰を勧めた。一方では代替労働を投入 し、結局は訴訟まで行った。こうした中で7月23日に新労組が提起した団体交渉 応諾仮処分抗告審訴訟で、また勝訴した。使用者側は再抗告の立場を明らかに したが、新労組の団体交渉権を拒否するこれ以上の名分は消えている状態だった。

7月29日、労使は団体協約の締結について暫定的に合意し、29日間のストライキ が終わった。そしてうっとうしい交渉を経て、その年の12月2日委員長と社長が 最終署名をしてついに団体協約が締結された。そして「追跡60分」4大河川編の 不放事態が起き、12月13日に初の公正放送委員会が開かれた。団体協約の締結 で、放送の不公正、管制化を防ぐある程度の基盤が用意されたのだ。だがその 後も、ペク・ソンヨプ、李承晩特集放送強行、KBSスペシャル定率性編不放事態 など、製作の自律性、公正性侵害の事例は今この瞬間も続いている。

労働組合とは何か?

事実、MB政権になった時まで、KBSがこれほどまで壊れると予測した人は殆どい なかった。これまでにかなり言論の民主化が進んだだけに、どの政権になって も最低の公正性は維持されると見る人がほとんどだあった。だが2008年の初め に6人が解職されたYTN事態を始め、KBS、MBCが次々と掌握され、これはあまり にも素朴な考えであることが立証された。その中でもKBSは最も暴力的な方式で、 最も急速に権力に掌握された。

なぜだろうか? われわれは骨に染みる教訓を得た。まさに労働組合がしっかり 役割を果たせなかったからだ。労働組合が言論掌握と戦い、公正放送を守るど ころか、権力の言論掌握に同調したことで8.8事態が起き、落下傘社長がKBSを 難なく接収できたのだ。これではKBSを守れないという切迫感の中で、私たちは 新労組を作らなければならず、あらゆる弾圧と妨害を突破して2010年7月、29日間 のストライキの末に団体協約を勝ち取り、600人だった組合員は今1200人に増えた。

こうして暮らすことはできない!

2012年3月6日、新労組はいよいよ歴史的な全面ストライキに突入した。全面 ストライキの直接の契機になったのは、前述のように13人への不当懲戒と イ・ファソプ報道本部長などのとんでもない人事だった。

不当懲戒の場合、その過程は少々複雑だ。

キム・インギュ社長は、2009年末の就任直後に大々的な組織改編を断行する。 ボストンコンサルティング(BCG)に何と24億ウォンもの金を支払ってコンサルティ ングを実施し、この結果により3月から本格的に組織改編作業が始まった。

キム・インギュ社長の組織改編は、KBSを管制化しようとする意図がかなり強かっ た。キム・インギュ社長は前にソウル大の同窓会報のインタビューで「PD300人 を追い出しても問題ない」という爆弾発言をして問題になったこともあったが、 それだけ狂牛病事態以後、政権の弾圧対象になった「PDジャーナリズム」への 敵対心が強かった。組織改編は、さまざまな職種の反発を呼んだが最も問題に なったのは「追跡60分」などのPDが製作する時事番組を、TV製作本部から分離 させたことだった。これにより報道本部の傘下に時事製作担当局を新設して、 記者とPDが製作する時事番組をそこに移管する案が出された。だが、この案は 支持されず、最終的に「追跡60分」を報道本部に移すという結論が出た。イ・ ビョンスン社長の就任以後、「時事トゥナイト」がなくなり「KBSスペシャル」 などの番組から時事機能はほとんど去勢された状況で、その上にTV製作本部に 残された唯一の時事番組である「追跡60分」を報道本部に移管するのは、 「ゲートキーピング」の機能を大幅に強め、批判機能を弱める意図としか受け 止められなかった。

激しい抵抗が続き、6月10日にはキム・ドクチェPD協会長などのPDが民主広場で 集団で削髪した。これに先立って6月4日には新労組執行部と組合員が理事会長 の前で集団でピケッティングし、オム・ギョンチョル委員長が理事会に組織改編 の不当性に対する立場を伝えた。

4月に「リセットKBS ニュース9」が特ダネ発掘した民間人査察報告書にはキム・ インギュ社長の組織改編についての話が出てくる。ストライキ賛否投票が否決 された後に作成された「KBS最近動向報告」の文書には、組織改編の意味につい て「現在、放送局は技術の発展により人員過剰状態で、構造調整を最も憂慮し ており、経営診断結果に構造調整および組織改編の必要性が入っていれば、今 後の主導権はキム・インギュ社長に渡りKBSの掌握に大きな困難がないと思うと いう展望もある」と言及している。結局キム・インギュ社長の組織改編は査察 文書の表現のとおり「KBSの色を変え」「構造調整」への恐怖心を誘発し、組織 を「掌握」する意図だということだ。

追跡60分の報道本部移管に反対して削髪式をするKBSPD協会員(左側キム・ドクチェ協会長)

新労組の組合員たちは、直感的にこうした意図を看破し、これに抵抗しなけれ ばならなかった。ところが特報社長はこれを懲戒の理由としたのだ。

ん、懲戒の口実は2010年のストライキで、前述の通り使用者側の人も2010年の 団体協約ストライキは不法とは言えないという意見が多かった。それでもイ・ ジュナン法務室長(2008年パク・スンギュ委員長当時言論労組委員長に当選した が弾劾され、以後、社員行動と新労組の代表的な「狙撃手」とされる)等キム・ インギュ社長の側近は理由もなくこれを「不法」とし、「不法ストライキ主導」 が懲戒の理由になった。

実は2010年ストライキの懲戒は、ストライキが労使合意で円満に終わったこと で実質的に終了した事案だった。誰もこの件で大量重懲戒があると考えていた 人はいなかった。ところがこれがまた登場したのは、2010年7月の29日ストライキ が終わって5か月後の12月に、追跡60分の4大河川編不放事態が起き、新労組は 青瓦台秘書官が「追跡60分」4大河川編に外圧を行使したという社内情報報告文書 を暴露した。すると使用者側は60人ほどの執行部と組合員を「不法ストライキ」 を理由に懲戒に回付したのだ。誰が見ても明白な報復措置だった。

だが約60人の人事委員会開催は物理的に不可能で、人事委員会は中断した。と ころが今年の初めにまたこの古い事案をまた堀り出して、13人に停職・減俸な どの大量重懲戒を加えたのだ(停職6か月は「解任」の次の段階で、今後進級が 実質的に不可能なほどの重懲戒だ)。使用者側の幹部も理解できないと話すほど 例のない非常識な事態で、特報社長がこれまで新労組に対して、いかに大きな 差別と弾圧を続けてきたのかを示す象徴的な事例だといえる。

実際に2008年の8.8事態以後、そして新労組発足後に新労組の組合員が受けた 弾圧と侮辱は到底言葉にできないほどだ。8.8事態当時「チョン・ヨンジュ社長 退陣を防げなければ受信料の拒否運動しなければならない」というコメントを インターネットの掲示板に書き込んだある組合員は「誠実、品位維持違反」を 理由に停職3か月の重懲戒を受けた(この組合員は最近、懲戒無効訴訟で大法院 で最終勝訴した)。

2010年にストライキが終わるとすぐ、9時ニュースのキム・ユンジ アンカーな ど新労組に所属するアナウンサーが全員番組から下ろされた。特報社長の就任 以後、キム・ミファ氏の「ブラックリスト」波紋以後にできたMC選定委員会は、 MC選定に対する権限を一線の製作スタッフではなく幹部が行使するようにして いて、新労組所属アナウンサーの番組進入を基本的に封鎖する。今回のストラ イキでも似たようなことが繰り返された( 2012年3月22日声明書「特報社長は アナウンサーへの不当労働行為即刻中断しろ!」 www.kbsunion.net/531参考)。 相対的に少ない新労組所属のアナウンサーへの弾圧は、特報体制の最も苛酷で 幼稚な断面だ。

KBS新労組アナウンサー(2010. 7月ストライキ当時宣伝戦を終えて撮影。後列左から時計方向に チェ・ウォンジョン、オ・テフン、チェ・スンドン、キム・ヒョンテ、 イ・サンヒョプ、ホン・ソヨン、イ・グァンヨン、パク・ノウォン、キム・テギュ、 チョン・セジン、キム・スンフィ アナウンサー。イ・ヒョンゴル、イ・サンホ、 キム・ユンジ アナウンサーなどは写真に入っていない)

このように、私たちは2008年以後弾圧と差別の中で、KBSが1990年の放送民主化 闘争以後、急速に退行しているのを無気力に見ていなければならなかった。もう これ以上はこうして暮らしてはいけない。懲戒と弾圧が恐ろしくて、口と耳を ふさぎ、一日一日を生きていくには、これ以上私たちの自尊心が許さなかった。 これが私たちが全面ストライキに入った理由だ。

言論の自由の復活、その最後の機会

現在、KBS、MBC、YTN、聯合ニュース、国民日報の「ゴレンジャー」が全面スト ライキを行なっている。KBSは80日、MBCは110日を越えた。チョ・ヨンギ一家に 対して、編集権の独立を叫んでいる国民日報を除き、すべてMB政権になってから 直間接的に落下傘社長がきて公正性を破壊し、人事、懲戒などで専横をしてきた という共通点がある。今回の全面ストライキは、MB政権発足以後に味わった惨めな 言論掌握の状況を打破し、言論の独立を勝ち取る最後の抗争だ。この抗争が挫折 すれば、今後も韓国の言論は政権の口という宿命から抜け出せないだろう。

言論労組とストライキ労組は、このストライキの課題を3つに設定している。 第一に、落下傘社長を退出させ、解雇、懲戒ジャーナリストを原状復旧し、 第二に、言論掌握聴聞会と国政調査を実施し、言論掌握の真相を糾明し、 第三に、公営言論社の理事、社長選任構造改善など公正性と独立性の制度的な 装置を用意することだ。

セヌリ党全党大会(一山キンテクス)言論労組集会(2012.5.15.)

最近まで言論ストライキについて口を閉ざしていたセヌリ党は最近、長い沈黙 を破って立場を明らかにした。新しく任院内代表に選出されたイ・ハング議員 が、言論ストライキは「不法」であり「政治ストライキ」だ線を引いたのだ。 情けないことだ。今の言論掌握状況を引き起こしたのは青瓦台とチェ・シジュン の放通委、そして今のセヌリ党のハンナラ党だ。ところがまるで自分とは何の 関係もないかのように、これを不法ストライキ、政治ストライキと言っている。

言論ゼネストは、賃金や勤労条件の向上を目標にしているのではないから不法 ストライキだと言う。果たしてそうだろうか? ジャーナリストにとって公正性、 独立性は最も重要な勤労条件だ。事実、イ・ビョンスン、キム・インギュ社長 在任期間に私たちを最も困らせたのは、何よりも「恥ずかしさ」だった。政府 イベントの広報番組を作れという命令が突然降りてきて、単独取材をしても、 放送されないことは多かった。双竜自動車で20余人が死んでも、猪がコンビニ を襲撃したニュースほどにも報道しなかった。2010年団体協約ストライキの時、 新労組のスローガンの一つが「恥ずかしいから、ストライキする」だった。 われわれは今「恥ずかしくない」権利を叫んでいるのだ。

新労組は勝利する

2012年3月6日、まだ晩冬の寒さが残る日、言論労組KBS本部は全面ストライキの 闘争に突入した。執行部発足から2か月で全面ストライキを、それも社長退陣を 目標にストライキをすることへの負担感もあった。だが全面ストライキはいつ のまにか80日を越え、2010年ストライキの時とは較べられないほど多くのこと があった。そしてわれわれは、新労組の力を再度確認し、毎日毎日新しい歴史 を書いていっている。

「リセット遠征隊」は海南と釜山からソウルまで、18日間こつこつと歩いて、 国土を縦断しながら、ストライキの正当性を知らせた。「リセットKBS ニュース9」 は真実を語らないニュース、沈黙するニュースの代わりに、劣悪な装備で自分の ポケットから出張費を出し、権力を批判して監視する報道をしたし、ついに大量の 民間人査察文書を初めて特ダネ報道した。

5月7日にはMBC、YTN、国民日報などの仲間たちと共に汝矣島公園にテントを張り 「希望キャンプ」を作って、まだここを中心に言論の自由抗争を繰り広げている。

チェ・ギョンヨン記者が解雇されると職務チーム長幹部22人が職務を辞任して ストライキに賛同し、今も幹部のストライキへの参加が続いている。

キム・インギュ社長家前のキャンドル集会(2012.4.19.)

地域の組合員はソウルよりさらに劣悪で孤立した条件にもかかわらず80余日間 少しも揺らぐことなく言論掌握に沈黙するセヌリ党議員を追いかけて事態解決 を要求し、農作業をしている所にまで行って言論ストライキを知らせる。

ストライキが長期化し、給与が0ウォンになるほど困難の中、代議員大会で全員 一致で苦痛分担を決議し、組合員どうしが自発的にストライキ基金を募金している。

ユンジュン路に花見に来た人々にポップコーンとビラを配ったり、予備ジャー ナリストの大学生を招いて、ナ・ヨンソクPD、ソ・スミンPDなどが講演をした りもする。奇抜なストライキ動画を徹夜で編集してPodcastに上げたりもする。

ストライキは、時には悲壮に、時には祭りを凌ぐ溌刺とした雰囲気で進められ ている。2010年のストライキのアップグレード2.0バージョンだといえる。これ らすべてはまさに組合員が自ら作っている。新労組だけができることで、あら ゆる逆境を突破し、組合員が自らの力で労組を作ったから可能だったのだ。

今回のストライキは、落下傘社長を退出させ、今まで特報社長が構築してきた 「特報体制」を清算し、2008年の8.8事態で始まった言論掌握の真相を明らかに して、さらに再びKBSを権力のおもちゃに転落させないための至難な過程の一部 だ。もちろん容易ではないだろう。危機も多く、限界もあった。だが80日以上 ストライキが続き、私たちは自分たちの力を確認し、ジャーナリストとして、 労働者としてのアイデンティティを感じ、何よりも屈従ではなく自由の大切さ をまた一度骨に凍みるほど確認することができた。新労組の戦いは、これから が開始だ。

原文(KBS新労組サイト)

翻訳/文責:安田(ゆ)
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Created byStaff. Created on 2012-06-03 10:31:02 / Last modified on 2012-06-03 10:31:24 Copyright: Default

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