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「韓進重の趙南鎬やパク・ソンホでも、命は同じように尊いです」

85クレーンの家族「子供たちを傷つけたくない」

ヨン・ソンノク現場記者 2011.08.16 09:31

韓進重工業整理解雇闘争委員会の組合員のほとんどが上京闘争に出た8月14日、 日曜日の85クレーン反対側の歩道には家族が特に多くいた。そこでクレーンの 中間を守っている組合員の家族と会った。

▲14日の昼、高校生と中学生二人の子供と一緒に座っているパク・ソンホ(現整闘委解雇者代表)組合員の妻、チョン・マンシム氏とシン・ドンスン組合員の妻チョ・ウンスン氏はまだ哺乳瓶を洗ったり、やっと歩きだした家族対策委の子供たちと遊んでいた。[出処:蔚山労働ニュース]

14日の昼、高校生と中学生二人の子供と一緒に座っているパク・ソンホ(現整闘 委解雇者代表)組合員の妻、チョン・マンシム氏とシン・ドンスン組合員の妻 チョ・ウンスン氏はまだ哺乳瓶を洗ったり、やっと歩きだした家族対策委の子供 たちと遊んでいた。

パク・ソンホ組合員は88年に韓進重工業に入社して、91年に故パク・チャンス 委員長執行部の時、教宣部長をした。パク・チャンス委員長の疑問死糾明など 葬儀闘争をして手配された時に解雇され、1年の手配の末に結局拘束された。 94年の全国解雇者復職闘争委員会の時、韓進重工業LNG船上占拠ストライキの時、 解雇者の身分になり、また拘束され、96年に労働組合執行部が拘束され、家族 対策委の闘争で共に戦って3回目の拘束された。

91年に解雇され、10年以上解雇者だったが労働組合組合員の身分で一緒にいた 時間だった。そのような彼が2003年キム・ジュイク支会長が命を絶った時、会 社との戦いの末に2003年12月1日13年ぶりに復職した。チョン・マンシム氏はそ の時をこう回顧する。

「ソウルにいる趙南鎬(チョ・ナモ)の家の前にまで行って戦っても、私たちの 力で復職したかったんです。ソウルで戦うと荷物をまとめて20日後にキム・ジュ イク支会長の葬儀のためまた釜山に来ました。そしてキム・ジュイク支会長が 亡くなって復職したのです。

キム・ジュイク支会長がそんなことになるとは想像もできませんでした。あの 人が亡くなり、組合員たちが戦いましたが、その命の値段で復職したと言うこ ともできます。そんな力を借りて復職するとは考えもしませんでした」。

▲8月中旬の猛暑がクレーンにみなぎる。6月27日の行政代執行の時、クレーン中間に上がり、8月15日でクレーン座り込み50日目をむかえるパク・ソンホ組合員が家族に手を振る。[出処:蔚山労働ニュース]

▲休む暇もなくクレーンを見上げて手を振るパク・ソンホ組合員の妻チョン・マンシム氏。うれしくて話をするか、心配な気持で手を持ち上げることもできない。[出処:蔚山労働ニュース]

時には妻で、時には同志で、つらい戦いの末に復職したのに、2011年整理解雇 通知を受けた時、家族としての心情はどうだったのだろうか。

「人が命まで捧げて成し遂げたことなのに、こんな全く同じことをされてあき れます。私たちに力がなければやられるのが現実かと思いますが、腹が立ちます」。

長い間労働組合活動をしてきた夫にチョン・マンシム氏は「いつもけんかしていた」 と打ち明けた。

「経済的、時間的なことで、すごくけんかしました。子供を育てなければなら ず、食べなければならず、着なければならず、みんな違わないと思います。 そんな悩みをするたびに、自分との戦いのようです。

くやしくて腹が立ち、山に入って、世の中と決別したいとも考えます。誰でも みんなそうではないでしょうか。キム・ジンスク指導委員もいつも自分との戦い で、今までの道を選択したのだろうと考えます」。

キム・ジンスク指導委員がクレーンに上がり、韓進重工業と整理解雇に関心が 集まり希望バスが3回来た。しかし趙南鎬会長は整理解雇撤回への回答を回避し ている。戦いが長びき、家族は胸がからからに渇いていく。

「趙南鎬会長という人間も、パク・ソンホも、命は同じように一つです。たく さんお金を持っていれば、もっと命が必要でさらに価値があることでもなくて、 夫が子供にとって一人しかいないお父さんではないでしょうか。

キム指導委員のように戦う人を見ると涙が出ます。私たちにとって、とても大 切な人です。2003年のキム・ジュイク支会長の時、子供たちには拭えない傷を つけました。その時も趙南鎬会長が約束を破ったせいでキム・ジュイク支会長 がクレーンに上がったのに、今も全く同じです。

金持ちが生きやすいことは、豊かだというのではないと考えます。韓国社会が 労働者にとってとても暴力的でないですか。韓進は趙南鎬一人だけのものでは ないということを人々が認めてほしいです。本当に一生懸命働きました。私が 病気でも夫は働きにでかけました。清潔に暮らし、正しい道を行こうと努力し ました。労働者ではなくても世の中の人がそうして人々を尊重して共に守って くれる社会であるように願います。

家族のひとりが戦って命を失い、生き残った罪で苦しい生活をする家族、全国 でとてもたくさん見ました。あの人たちの生活はどれほど苦しいでしょうか。 家長を失い、兄弟を失って生きていく方々の人生を誰が代れますか。夫がクレー ンにいる今、私がその人生を担うこともできると考えます。

キム・ジンスク指導委員も同じだと考えます。組合員たちがキム指導委員には 家族で、だからこの戦いには必ず勝たなければなりません」。

▲蔚山韓進重工業から2010年7月影島造船所に配置転換を受け、2011年1月に整理解雇を通知されたシン・ドンスン組合員の妻チョ・ウンスン氏. [出処:蔚山労働ニュース]

韓進重工業蔚山工場から、昨年7月に釜山に転換配置され、1月に整理解雇され たシン・ドンスン組合員の妻、チョ・ウンスン氏は社宅から出て行けという 督促状を二回も受けた。

「昨年夏、夫が釜山に配置転換され私も12年通った職場をやめて韓進重工業の 社宅に引っ越しました。家族が一緒に引越さなければ社宅に入居できませんで した。それで蔚山の暮らしをみんな整理して行ったのに、6か月もたたず、整理 解雇通知書を受けました。

7月31日に社宅から出て行けという督促状を二回受け取りました。希望退職書を 書いた人は会社でさらに2年生きられるように延長したといいました。共に引っ 越してきた人なのに、こんな形で人を分ける会社にも腹が立ってくやしくて、 とうてい出て行けません」。

チョ・ウンスン氏はくやしい心情をみな話す前に夜の集会が終わり、急いで家に 戻った。軍隊にいる息子の休暇だからだ。

「お父さんと一緒にいられればどんなにいいでしょう、お父さんは動けないか ら息子が休暇になるとすぐ、ここ(85クレーン)にきて、挨拶して行きました。 息子が軍で苦労しているのですから、夕食でも自分の手で作りたい」。

シン・ドンスン組合員は腰ディスクがあって、クレーンに上がる前大きな病院 でMRI検査をした結果、手術を受けなければならないと診断された。鎮痛剤を1 か月分持って上がり何も心配そうな表情ではなかったと言うが、今頃薬がみな なくなっただろうと健康を心配する。

そのようにしてシン・ドンスン組合員の家族が席をはずしてしばらく後で、 死守隊のパク・ヨンジェ組合員の家族がきた。

6月27日の行政代執行の後、クレーン中間で50日、家族は何よりも死守隊の健康 が心配だ。死守隊の1人は真夏の暑さで服を着替えられなかったが、人権委がき た時には、2週間ぶりに服を着替え、体を洗えずウェットティシュで汗をぬぐっ た。時には食べ物もきちんと上がらず電気も供給されず、家族に心配をかけて いるが、最近、労使懇談会でそれでもご飯とおかずがちゃんと上がっていると いう。

パク・ソンホ組合員の妻チョン・マンシム氏は気が焦る。

「夫の皮膚の状態が良くない。今回の整理解雇闘争で2009年から戦い、怒りが 皮膚に出てきました。きちんと体も洗えずクレーンにいるので激しくなったの ですが、何日か前に金属労組キム・ホギュ副委員長と医療陣が上がり、薬の処 方を受けた。皮膚の状態はその後良くなり、その時に水が五本上がって、10日 ぶりに髪を洗った。

少なくとも人間として基本的なことは解決できるようにしてほしい。監獄に行っ てもこれよりましだ。自分たちの気が向けばご飯を上げさせ、気がむかなけれ ば何日か飢えさせ、ご飯をかきまわして検査するなど有り得ない。韓進の用役 がクレーンにご飯を上げるときに行なわれることだが、これは韓進重工業会社 の立場と同じだろう。クレーンでも基本人権について話さないことがはがゆい」。

▲今は組合員ではないが長い間共に戦ってきた人々がクレーンを訪ねてきて力を貸す。[出処:蔚山労働ニュース]

コリアタコマを韓進が買収する過程で解雇されたナ・ヒョンギュン氏は現在、 漢方医師で、週末に85クレーンに来て組合員と家族の健康を見る。

彼は「労働者の生存権がいつでも捨てられる社会で暮らしていることが恥ずか しい。それに対抗して戦う労働者の闘争がすごい。金を稼ぐことだけが第一と いう思い、政権を取った人は金持ちの人だけ守れば良いという考えが残念だ。 慰労して、負担を分け合うためにくる」と言う。

まさに健康が心配になる会社の中のクレーンには入れず、85クレーンの向い側 や整闘委事務室で診療をする。

▲14日の日曜、夜の集会をしている韓進整理解雇闘争委員会と家族. [出処:蔚山労働ニュース]

▲85クレーンの反対側に蚊帳を張ってその前に並んで座っているパク・ソンホ組合員の家族、クレーンは電気供給が中断され、夜は真っ暗だ。[出処:蔚山労働ニュース]

2次希望バスの時、車壁の前でパク・ソンホ組合員の妻、チョン・マンシム氏と 娘イェスルさんが警察に連行された。お父さんが20年以上闘争して、その現場 に息子と娘がいる。

私たちよりさらに苦しい非正規職事業場に希望バスが行くべきなのに、韓進に 希望バスが3回もきてくれて有難くて申し訳ないという人々だ。

今は工場の出入が統制され、パク・ソンホ組合員と直接会えなかったが、取材 手帳には6月に工場の中でパク・ソンホ組合員から聞いた韓進重工業労働組合の 歴史がぎっしりと記されていた。

「民主労組を作って対共分室に引きずられて行ったキム・ジンスク指導委員は 解雇され、まだ復職できず、全労協ができてパク・チャンス烈士が疑問死した 時期でした。全労協、名前だけ聞いても苦しい時期がありました。キム・ジン スク、パク・ヨンジェが第1世代、故パク・チャンス烈士が第2世代、故キム・ ジュイク支会長が第3世代、LNG船上ストライキをしたチョ・キルピョ支会長が 第4世代、2003年にキム・ジュイク烈士闘争をしたチャ・ヘド、キム・インスが 第5世代、そして30代、若くして2011年整理解雇闘争している仲間が第6世代だ と言えます。それなのに今もクレーンの上に命をかけて上がらなければ声が出 せないのが残念です」。

行政代執行の前々日、年を取ったら故郷の南海に行って暮らしたいというパク・ ソンホ組合員は、その日も韓進重工業労働組合の歴史を説明しながら、クレーン と共に明け方を迎えていた。

8月15日、キム・ジンスク指導委員クレーン座り込み222日目、中間死守隊座り込み 50日目だ。(記事提携=蔚山労働ニュース)

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2011-08-18 09:47:53 / Last modified on 2011-08-18 09:47:57 Copyright: Default

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