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あそこで倒れた一点の花びら-貧民闘争で亡くなった仲間たち

[チェ・インギの生きていれば]パク・フンス、イ・チホ、イ・ジェシクを思い出しながら

チェ・インギ(編集委員)/ 2009年01月30日2時46分

薄暗い明け方の2-3時、光州市東区庁撤去班の職員7人が俗称、無等山増心寺渓 谷徳山ゴル周辺のある無許可の家を撤去した。この家は無許可だとはいえ、一 人の青年と彼のお母さん、そして妹が仲良く暮す家だった。自分が住んでいた 家が撤去で火に焼かれ、青年は撤去班員の職員呉某氏を人質にしたその以後、 捕まった呉氏を救出するために同僚の職員4人が次々に近付いた。青年は凶器を 振り回した。凶器に合たった撤去班職員の4人が亡くなり、くぼみで投げられた。

この青年は小学校を卒業して、一時光州市のヤンドン金物工場で働いていた。 工場で働きながら鉄パイプで私製銃と弾丸の作り方を覚えたという。彼は敏捷 でがっしりした体で、『無等山のターザン』というニックネームを持っていた。 彼は事件直後に逃走してソウルで検挙され、死刑を宣告された。そして1980年、 刑場のつゆに消えた。映画ような人の話は1977年に実際に起きた事件で、無等 山のターザンの名はパク・フンスだ。

パク・フンスの最終陳述を見よう。

「当局は何の対策もせず、寒い冬に戒告状を出して、これに応じなかったと村 人たちを犬扱いした。家を壊すまでは良かったのに、行き場のない私たちに火 までつけた。金も、天井にあった春に撒く種もすっかり焼けた。これほど当局 まで馬鹿にして蔑視される私たちだが、誰が喜んで部屋をあけ渡せるか?」

最後陳述は今また見ても心を打つ。

「昔話にもあるように、泰山はひと握りの土も拒まず、大河もまた一粒の水も 拒まなかったというではないか? 世の中で金を持つ裕福な人だけがこの国の国 民で、罪もなく貧困に震える人はこの国の国民ではないというのか?......」

80年代に入り、あちこちで都市貧民の犠牲があった。全斗煥軍部独裁は政権の 恥部を隠すために多くの国際的なイベントを開催した。87年のアジア競技大会 と88年のオリンピックを前に、全国的な撤去と再開発ブームが起きた。

上渓洞撤去闘争は、特に多くのエピソードを残した。もう1人紹介すれば、 撤去民のイ・チホ氏だ。

1986年6月26日、当時59歳だったイ・チホ氏は死亡当時、撤去対象の家の陰で休 んでいた。「下に人がいる」と叫ぶ隣りのおばさんの言葉も意に介さず、撤去 チンピラたちは建物の屋根からむちゃくちゃに壊し始めた。壁が崩れ、レンガ とセメントが落ち、下敷になったイ・チホ氏は腕と足が折れ、鼓膜が裂け、顔 が潰れ、血まみれになって消えうせた。

撤去班員は人が死のうがどうしようが、隣りに移して作業を続けた。住民たち は彼を慶煕医療院に運び入院させようとしたが受け入れられなかった。患者を 東部医院に移した。しかしそこでも無依託者だという理由で受け入れられなかっ た。市立病院に運ばれ、病院を転々としたイ・チホ氏は結局落命してしまった。

この国の都市貧民たちは、社会の底辺で最低の生存権も認められず、厳しい時 期を過ごしてきた。彼らは犠牲により始めて一時的に社会的な覚醒と関心を呼 びさますことができた。そして彼らの犠牲は闘争の峠ごとに希望と勇気を与え、 団結と連帯の求心を作った。このような闘争が基礎になり、翌1987年、撤去民 で構成された自然発生的な組織『ソウル市撤去民協議会』が誕生した。

次は露天商の胸に深く刻まれれているイ・ジェシク氏を紹介しよう。

イ・ジェシク氏は37歳の1985年にソンフン社に入社して『労働組合推進委員会』 を構成した。労組副委員長を歴任し、労働運動を始めた。誰もが憶えているよ うに1987年は労働者闘争が火のように燃え上がった。その年の9月、韓国艤装に 再就職したイ・ジェシク氏は翌1988年5月に労組結成を推進した。

しかし組合活動の監視と解雇の威嚇で現場労働者生活を終えるほかはなかった。 明け方にはハンギョレ新聞の巨済支局総務を。昼間には露店生活をして生計を たてた。このように忙しい中でも彼の活動は終わらなかった。近くの大宇造船 労働者のストライキが起き、仲間たちを集めて座り込みを支援することもした。

イ・ジェシク氏は故郷忠北に暮しの場を求め、巨済に入って誠実に暮そうと努 力した。困難な暮らしだったが、それでも明るく笑いながら貧困を表に出さな かった。周辺の人間関係も円満で、常に人がいっぱいだった。彼は持って生ま れた活動家で、労働者であり、露天商だった。

だが何十万ウォンもの元手をかけて整えた露店の屋台は、わずかなかせぎもあ げずにひっくり返されるのが常であった。

1989年10月16日、新県邑開発課長を班長とする巨済市露店摘発班が農村指導所 前の屋台を引っ張っていってしまった。夫人のファン・クィナム氏がこれに抗 議をした。粉をこねた物をバイクに積んできた夫のイ・ジェシク氏は切に哀願 した。村長は一足遅れて現れ、屁をひり無責任な態度であざ笑った。

死の始まりは、別の見方をすれば、とてもささいなことから出発するのかもし れない。そして人にはそれぞれ自尊心がある。家族の生計の責任を全うできず に蹂躙される悲しみ、それはやられたことがない人にはわからない。12時40分 頃、イ・ジェシク氏は静かにガソリンをかぶり火をつけた。これを見た職員が ぼうぜんとしている間に3度に達する致命的な火傷をした。

巨済基督病院、馬山高麗病院、釜山大病院などに行ったが、すべて診療を拒否 された。ヤンドのヘドン病院で生死をさ迷い12月12日午前12時40分に落命した。 ソウルから、京畿から、そして地方から、その知らせを聞いて露天商たちが駆 け付けた。80年代、多くの露天商の闘争があったが、露天商の最も成功した連 帯と闘争の瞬間だった。

すべては遥か昔の話だ。2009年新年早々... 通りはすっかり工事現場から乱闘 場になった。ソウルの再開発再建築、そしてこれら全てを圧倒するニュータウ ン事業がきらびやかだ。私たちが走り、遊んだ路地は、寝て起きれてみると取 り壊され、寝て起きてみると新しいビルとアパートで一杯になった。誰かは入 り、また誰かどこかに行くしかない。ソウルの人は故郷がないという。

一時、ソウルのどこかに家一軒持っていた人々はこれが良いと思った。再開発 は家を持つ人や、家を持たずに借りて暮す人もかまわず、生活の基礎を脅かし た。

李明博政権の本質がわかるまでに、それほど長い時間はかからなかった。彼が 就任して1年になった。悪夢のような時間だ。うんざりするほど長い。天人共怒 する暴力的な殺人蛮行を見て、過去のパク・フンス、イ・チホ、イ・ジェシク、 そして都市貧民闘争で亡くなった多くの仲間たちの顔がよぎる。そうだ。彼ら の闘争はまだ終わらないんだ。

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原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳)に従います。


Created byStaff. Created on 2009-01-31 02:35:56 / Last modified on 2009-01-31 02:35:59 Copyright: Default

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