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韓国:響きと震えの現場 | ||||||
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人権映画、世の中を動かす力[感じて〜人権映画祭](3)響きと震えの現場
人権オルム/ 2009年06月05日10時05分
世の中を変える力、響きと震え 社会運動は人間らしく生きる世の中に社会を変えると同時に、人を変えるのだ。 制度と政策がいくら変わっても、人が変わらなくては、また人々の熱望が集まっ て変えなければ長く続けるのは難しい。人々の熱望が集まって変わっても、そ れが内面化され、文化化され、その社会の伝統になるまでにはかなり長い時間 がかかるだろう。 最近、韓国社会がまさにそんな姿をよく見せている。この社会の非主流市民の 熱望で実現した参与政府、しかし熱望で続けるには既存の秩序におぼれた社会 的な風土は甘くなく(もちろんこの他にも多くの理由があるが!)、結局は多くの 失望を残したままで終わってしまった。後に続いた政府は民主化の歴史を逆転 させ、人々に独裁時代の順応的姿勢を要求して、これまで拡張してきた民主主 義的な伝統を初戦撲殺の姿勢ではね除けている。その結果はみじめだ。 権威主義に反対して地域主義と市場主義で国民を巧妙に組み分けることに抵抗 する踏み石を、私たちの内面まで、日常の文化まで、丹念に固められたわけで はない。90年代中後半では人々が「人権という言葉はなんだ?」と質問をするよ うになり、その前には人権という言葉も思い出さなかったことに較べれば歳月 も良くなって人々も変わった。 さらに努力と時間が必要なのだろう。「ウッシャ、ウッシャ」と戦えば、制度 は変わるというが、人は簡単に変わるか! それでも人々は時代の水を飲んで、 文化の影響の下に少しずつ変わるんじゃないか? こんな時、さらに必要なのは 何か? スローガン、集会、デモ? そうだ。そうしたことは、いつも必要な民主 主義の酸素のようなものだから。だが人を変えるには、さらに直接的に現実の 問題を経験したり、変化のためにうごく人々と直接対面したり、小さいけれど 大切な勝利を得る人々の経験から、震えを得ることではないだろうか!
人権映画祭はまさにそんな響きと震えをあたえる場だ。13回目になる間、弾圧 と多くの困難があったが、人々はここに来て映画を見て、人権を感じ、飲んで、 自分たちの日常に持っていった。どんなスローガンより、不当に抵抗する力は 結局、人々がからだの中から人権意識をぎっしり満たすことだから。人権映画 祭は、まさに人々の皮膚の中、心臓の中をひっかき散らして入った。文化とは まさにそんなことだ。徐々に自身も知らない間に生活のパターンを変えて他の パラダイムを生の中に移して植え付けること。 これまでにさまざまな人権映画を見たし、映画の中の人権解説という文も何本 か書いたが、特に二編の映画が記憶に残る。3回の時にみた『戦闘地帯(War Zone)』と、9回の時にみた『イエスマン』。この二つの映画は私に抵抗運動の 新しい想像力と日常的な実践の重要性をわからせてくれた映画だった。 女性、日常の暴力に抵抗する 「何年か前の夏、この中古カメラを買った時には、私は何も考えていかった。 そのうちにある日の朝、私に武器ができたことを知った。家の外に出るたびに 失った力を取り戻してくれる武器」という監督のコメントで始まるこの映画は、 女性に向けられる男性の暴力がいかに日常的かを見せる。女性なら誰もが経験 するかもしれない男性の視線。われわれはマネキンではない。しかし、なぜ? 彼らはまるで自分たちの目の保養のために準備されたように、女性のからだを むかむかするような欲望の視線で見るのか。監督は今、その男たちに自分の武 器、カメラを突きつける。市街戦を始めたのだ。映画の中の男たちの反応がお もしろい。ある人はなぜ女が怒るのかいぶかしがり、ある人は不愉快に思って、 ある人たちは本当に怒る。 女性運動の出発は80年代から、長い旅程を駆け抜けたが、90年代初中盤までは 女性への暴力はせいぜい強姦という、とても極端な形態だけが社会的に指弾さ れてきた。その前は強姦さえ女性が自分を管理できない責任として非難された のだから、これも別の見方をすれば女性の闘争の成果だった。強姦罪に対する 女性団体の立場は『女性の人権』に基づくものだったが、これが社会的に受け 入れられ、法制化されたのは、家父長的な秩序である男性に所有された女性の 貞節を保護する観念が内在したのだ。このように浅薄な韓国社会の女性人権の 認識は、90年代の女性運動の拡散し、これを通じた女性の自意識、自尊感回復 でずいぶん変化してきたが、まだ女性への暴力は具体的『性(sex)』に対する暴 力、あるいは殴打が中心だった。 90年代の中盤になり、女性への日常的な暴力に女性の人権が拡張されなければ ならないという主張が提起されたが、現実には男性はもちろん、女性の一部も これはひどすぎるのではないかと思う程、韓国の社会には、あまりにも女性と 男性の調和がとれた人生を強調する文化が強かった。それで日常的な敵対感と 戦争宣布を通じて越えなければならない日常的暴力に対しては、社会的に一部 の女性たちの叫びだけでしかなく、公論化されなかった。 90年代後半に接した戦闘地帯は『視線程度だ...何.. 日常的なことだし不快で も、どうするか』という一種の敗北意識に基づいた諦念を一瞬に吹き飛ばす映 画であった。当時、女性団体で働いていた私は、日常的暴力がさらに広く女性 を抑圧する機制だということをこの映画で教育すればいいと思い、それで女性 人権学校でこれを上映した。反応はすごかった。参加者は誰もがあまりにもよ く経験し、これよりひどいことも多く、いちいち問題にせずやり越ごしてきた 鬱憤が出てきた。しかも強い暴力は法で解決できるが、これは文化現象に散在 しており、女性への社会的認識の低評価に寄与することを切実に感じさせてく れた。 いつも欲望の視線で女性を見る人々が、いくら法で規制してもどれほど女性を 同等な人格体として見られるだろうか? 『戦闘地帯』は徐々に制度的闘争だけ では女性は人間になれないということを悟り、日常の闘争が必要な時に恵みの 雨のような映画として近付いてきた。日常的抵抗の想像力を開いてくれ、監督 のカメラの前で臆したり、口下手で抵抗する男性を見ながら、快感さえ感じさ せる映画だった。そしてその後この映画を見た女性の実践運動の変化に強い影 響を与えた。 新自由主義を嘲弄する
それからしばらく後に見た『イエスマン』。まずこの映画は、まじめでつまら ないのがドキュメンタリー映画だという固定観点を間違いなく吹き飛ばした愉 快な映画だった。新自由主義を動かす貿易秩序(WTO体制)を嘲弄する主人公の 「パフォーマンス」は、抱腹絶倒の笑いを与え、単なる制度の批判を越え、制 度の蜜の味を味わった人はいかに自身の価値から真実を見る目を隠せるかを見せた。 『罪を嫌っても人を嫌うな』という言葉をよく聞くが、この映画で実感した。 三つの続くパフォーマンスで、人々は各自の位置、貪欲によって世の中を違う 目で見る。おもしろいのは、最初と三つ目のパフォーマンスの人物で、彼らは 同じ新自由主義の信奉者だが、異なる態度を見せる。最初は貪欲に満ちた目で 人間を見るのではなく、人間が金になることだけを見て、最後では自分たちの 貪欲が世の中を亡ぼしてきたことを認める。真実が存在しないのではなく、彼 らの世界観が真実を見えないように分けたのだ。結局、なぜ私たちが何を指向 するのかが重要なのか、今一度わからせてくれる映画だった(それでも世界的に 自分たちの貪欲のために人間を搾取して抑圧した当事者としての責任を問わな いことはないだろう!!)。 結局、生活の権利のための、人権のための闘争は、制度に対抗すると同時に絶 え間ない省察を要求すること、私がある位置に立って、誰の側にいるのかを振 り返ることを怠らないことだと切実に感じさせてくれた。 今年もまた人権映画祭の日が近付いてきた。とんでもない規制を量産する政府 が、人権映画祭を街頭に追いやった。だが世の中は思うだけではできない。政 府の意図は、映画祭が出来ないように困らせることだったが、人権映画祭はお かげでつかつかと人権の主導者、まさに市民の場へと、さらに近く行くように なった。 今私たちがすることは「見ろ、お前らがしたことを! 野草は踏みつけられるほ ど、立ち上がるということを!!」という叫びを、検閲で防ごうとする彼らに一 喝することだけ。(ルート) 翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2009-06-07 15:37:11 / Last modified on 2009-06-07 15:37:12 Copyright: Default このフォルダのファイル一覧 | 上の階層へ | ||||||