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韓国:GM大宇闘争の成果 | ||||||
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非正規闘争、成果一つもなかった?GM大宇を振り返りながら、 「主体として立つことができなかった...外部の声に萎縮」 オドヨプ記者 odol@jinbo.net 5月29日、GM大宇非正規職支会のクォンスンマン支会長など4人が警察に出頭す るという知らせが飛びこんできた。あわてて荷物をまとめて昌原に向かった。 5月11日、クォンスンマン支会長は涙で代理交渉の合意書を受け入れた。 5月11日は地域のストが予告されていた日だった。その日も昌原に行った。合 意書だけをもらい、そのままソウルに戻った。合意書を見た瞬間、インタビュー はできないと感じたからだ。1か月ほどたたなければ、胸の内の本音は出てこ ないと考えたからだ。
チャムセサン資料写真 だが30日の夕方、クォンスンマン支会長と争議部長が拘束された。アンビョン ウク職務代行とチナン組合員は不拘束で釈放された。今春、レンギョウ、つつじ とともに咲いた非正規闘争の一つの軸は、こうして私たちの記憶から消えてい こうとしている。 記憶から消えるのか アンビョンウク職務代行は、民主労総慶南本部そばのコンテナボックスいた。 ここで生活しているという。 「留置場でみんなと一緒だった時は気楽でした。鉄格子の向こうに手を振りあっ て笑っていたのですが。実際、二人の同志を残したまま不拘束で出てきたので、 つらいです。私が拘束されたほうが、いっそ気楽だったと思います」。 合意はしても、まだ誰も現場に帰った人はいない。工場より先に、彼らを待ち かまえていたのは警察と刑務所だった。 GM大宇非正規労働者問題を理解するには、IMF以後の大宇自動車の没落を理解 しなければならない。また、GM大宇に生まれ変わって、工場の正常化まで体験 した労働者の苦痛も知らなければならない。
アンビョンウク職務代行 しばらく前にGM大宇正規職は、強制解職者が全員復職した。これでつらい思い は拭われたように見られる。労働者の痛みはきれいに拭われたのか? アンビョ ンウク職務代行の話を聞くと、首を横に振るほかはなかった。 正規職復職...非正規は? アンビョンウク職務代行がGM大宇の下請け業者であるテジョンに入社したのは、 2001年だ。工場の経営がとても苦しい時だった。6か月の短期職を要求した アン職務代行は、会社の誘いで1年契約職として入社する。 「なぜ、1年契約職をしろと言ったのかわかりませんでした。しかし給料日に なっても、月給が支払われません。事前に何の話もなく、です。事情を聞くと、 短期契約職以外は月給が三、四月滞っていたのです」。 当時働いていた非正規労働者は、GM大宇の正常化まで基本給が削られ、給与の 遅配という苦しみを甘受しながら過ごした。工場が正常化すれば良くなるだろ うと言いながら、非正規労働者も工場の立て直しに協力した。 「その時に受け取った金は、50万ウォンぐらいになりました。その金も支給さ れず、死ぬ思いです。当時の苦痛分担がなければ、GM大宇は消えていたでしょ う。会社を生かせばみんなで笑える日がくると思っていました。でも、まだ泣 いている人がいます」。 工場正常化、非正規の苦痛分担 泣いている人は非正規労働者だ。泣いてばかりはいられなかった。2004年に給 与が引き上げられたが、長期契約者は小幅の引き上げで、最近入社した者の引 き上げ幅は大きかった。「ちゃんと調べれば、最近入社した人の幅が大きいわ けでもありません。低すぎたので、一定の水準に上げたのでしょう。結局、 工場が正常化しても非正規労働者には恩恵がなかったのです」。 不満が積もった。それで選んだのが労使協議会だ。労使協議会を作っても強制 力がないため、対話以上のことはなかった。テジョン、セジョンなどの下請企 業が集まって会を作ったが、時間がたつほどに労働組合の必要性を痛感するよ うになる。 2005年4月10日に労働組合を設立する。元請社と団体交渉を試みたが、元請は 使用者ではないという理由で参加しなかった。下請け業者の代表には、形式的 に会ったが解決能力がなかった。9月30日、労組の核心幹部がいたテジョンを 廃業し、下請け労働者を工場の外に追い出した。
チャムセサン資料写真 一時、下請け労働者の組合加入は600人に達した。GM大宇昌原工場の1000人ほ どの組合員は、60%が組合に加入した。下請け労働者の数は増えつづけ、現在 は正規職より多い1300人に達する。 「会社は困難な時期を共に勝ち抜いた非正規労働者との対話どころか、廃業な どで工場から追い出しました。労組を認めるよりは弾圧をするんです。結局、 GM大宇労働組合に交渉権を委任して代理交渉をしました」。 交渉権委任の結果 2006年2月27日、代理交渉による口頭合意が出てきた。「とても認められない 内容です。20人の復職は組合が要求した人ではなく、会社が選別するというこ とで、労組幹部と組合員8人は段階的に入社させるという内容でした」。 生計のために組合から抜け、別の仕事を探す人々がでてきた。工場の中には正 規職化の幻想と元請の弾圧により、下請け労働者は萎縮して働くするしかなかっ た。これ以上、非正規問題を正規職にはまかせられないという考えも強まった。 3月22日、クォンスンマン支会長とオソンボム短期契約職組合員が昌原工場の 煙突に上がったのは、どうしようもない選択だったのかもしれない。会社に押 され、正規職労組に押され、煙突を選択したのかもしれない。 煙突に上り、正規職労働者は「座込み場侵奪時はゼネスト」という決意をする。 だが会社は甘くなかった。昌原工場を閉めるかもしれないという噂を工場に流 して労働者を萎縮させた。 最後の選択・高空籠城 座込み場の下のテント設置問題と、煙突の安全網設置問題をめぐり攻防が起き る。会社との攻防より、正規職と非正規職間の葛藤が前途を暗くした。結局、 分裂したすきに、会社は職員と外注を動員して煙突の下にいた座り込み組合員 を3月25日、工場外に追い出す。 「25日に追い出されて、悲痛な気分というよりは笑いが出てきました。笑いな がら出てきました。虚しい笑いです」。 夜、昌原の街角に追い出された組合員はすべてが終わったと思った。帰る交通 費もなかった。「もう終わったと思いました。日が昇れば高空籠城場も整理さ れるだろうと思いました。これで終りだと」。
しかし26日、全国から労働者が連帯にやってきた。正門を突き抜けて、高空籠 城者を守るために、放水銃を浴びながら狂ったように戦ったという。 「一人ではないということを知りました。労働者が一つになれば、何か新しい ものを作り出せるということを理解しました」。また力を得た。正門の前に座 込み場を作ってやり直すという気持ちで準備した。 一人ではなかった 話をさえぎった。テント設置の問題と安全網の問題で、正規職労組と摩擦があっ た。特にテント設置は会社に交渉回避の口実を与えなかったかと尋ねた。 「支会はきちんとした立場を堅持できませんでした。連帯しに来たいろんな組 織と上級団体に、きちんと支会の立場をいわなければならなかったのに、その たびに支会の立場を出せずに言いなりになった」。 非正規職の戦いの中心に浮上したので、それだけ連帯を伝える人も多く、声も 大きかった。アンビョンウク職務代行はその時、組織や単位が集まって、共に 評価する時間を持たなければならないと言う。必ずしなければならないという。 「最も重要なのは、組合員の声を引き出ことなのですが、それより外部の声に 萎縮しました。実践過程も組合員の意志と同意なく決定されることもあった。 私たちが主体的に行動していると見られず、引きずられて行くように見られる こともあった」。
チャムセサン資料写真 支会内部で強い主体性を確立できず、外部からの介入が初期の闘争の難題だっ たという。また地域運動と間で共感を形成できなかったとも指摘する。 組合員が主人に立ったか まだこの部分の評価をするのは早いという。金属労組慶南支部もまだ評価でき ず、草案を作っただけだという。また一歩を踏み出すためにも、ぜひ評価しい かなければという。 GM大宇が残した成果を金属労組幹部に尋ねると、「一つもない」という。また 尋ねると、頭を下げながら「本当にない」という。成果がないという点を尋ね ると、「当事者が直接交渉できなかったためだ」という。 労組認定と活動保障が合意書から抜けていることについて質問した。「非正規 職が自ら中心になって戦うしかない。認められようと、認められまいと、戦っ て克服する道しかない。労組が認められなければ退くのか? 非正規職は存在し てはならないのだから、なくすまで厳しい戦いを準備して戦わなければならな い」と答える。 今回の交渉で、GM大宇は徹底的に非正規職支会と金属労組を排斥した。この壁 を突き抜けなければ非正規職の火種は合意書とは無関係に残らざるをえないと いう。 2月の合意より良くなった点をアンビョンウク職務代行に尋ねた。 「28人から35人の復職。数字を見れば何の意味もない。だが2月に幹部8人を除 く20人は、支会の要求ではなく会社の選択だった。今回の35人は、段階的だが 支会が要求した組合員だ」という。 2月の合意よりは一歩前進 短期契約職と労組活動認定は、また戦うべき課題を投げている。「支会自体も 合意の足りない部分を知っている。苦しく疲れた状態だった。そのうえ支会は 孤立していた」。
チャムセサン資料写真 「工場に帰ってみると、一度に復元するのは難しいようだ。小規模の集会から やり直して、引き出せる力を集めなくては」。今工場に帰ってからやるべきこ とを悩んでいるという。 個人的な問題も多い。末期の肺ガンの父に申し訳ないという。座り込み期間の 間、申し訳なくて家に帰れなかったという。 「病気の父をおいて家を出る時、心が裂けるようです。」 GM大宇昌原工場の正門は低かった。高空籠城期間にはコンテナボックスと鉄条 網で遮られた。座り込みが終わった今は、低い正門の代わりに高くて丈夫な黒 い鉄の門に変わった。またその前を通りすぎながら、胸が痛む。さらに重い 鉄門が非正規労働者を遮るのではないだろうか? まだアンビョンウク職務代行は、民主労総慶南本部横のコンテナボックスで寝る。 2006年06月02日16時03分 翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2006-06-04 20:33:11 / Last modified on 2006-06-04 20:33:13 Copyright: Default このフォルダのファイル一覧 | 上の階層へ | ||||||