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サウジアラビアとその同盟国にとってイエメンは中東のベトナムになるのか

「われわれは侵略者との戦争で一度も退いたことはない」

チョン・ホヨン(国際フォーラム) 2015.05.26 18:37

サウジアラビアは3月25日、決意の嵐(decisive storm)という作戦名でイエメン空襲を始めた。 サウジアラビアだけでなく、エジプト、モロッコ、ヨルダン、スーダン、クウェート、アラブ首長国連邦、カタール、バーレーンもこの戦争に参加した。 サウジアラビア側は戦争を始めた大義名分を、シーア派のイランが裏で操縦するシーア派フーシ反乱軍を追い出し、中東の平和を取り戻すことだと掲げた。 戦争が起きた一日後にサウジアラビアに亡命したイエメンの前大統領ハーディの要請を受け、この戦争が始まったという。 国内外の主流マスコミ各社は、中東を分析する時に一番多く使われる「シーア派とスンニ派の対立」によりイエメンで起きた戦争を説明しているが、 この分析の枠組みはいつものように中東とイスラム地域でおきていることを明らかにするよりも、複雑な現実を覆い隠している。

サウジアラビアがイエメンを侵略した最大の理由は、インド洋のアデン湾と紅海をつなぐバブ・エル・マンデブ海峡での石油の安定的輸送のためだ。 フーシ反乱軍がバブ・エル・マンデブ海峡の統制権を持つとすぐに石油価格は暴騰し始めた。 サウジアラビアと戦争参加国がフーシ反乱軍に威嚇を感じているのは、 シーア派のイランが裏で操縦しているためではなく、こうした直接的な経済的な利益のためだ。

現在、イランの重要な関心事はイエメンではない。 イランとしては第1順位は核交渉を順調に終わらせ、20年間続いてきた経済封鎖を解決することだ。 イランの核交渉妥結の核心は、イランが中東で核兵器を開発する意思がないことを明らかにすることだ。 つまり中東での戦争の意志がないことを明らかにしなければならない。 イランとしては、10余か国が参加するこの戦争の一軸になることは、 核交渉の妥結には絶対的に不利だ。 昨年、イランはフーシ反乱軍にイエメンの首都サナを占領しないことを勧告した。 不必要な地域内紛争に拡大することを憂慮したためだ。 しかし昨年のイランによるフーシ反乱軍に対する勧告は、現在全く報道されていない。 イエメン侵略戦争の背後にはイランがあるという米国政府とサウジアラビアの主張だけが韓国国内でも反復再生産されている。

イランがフーシ反乱軍を支援してきたという主張も、 フーシ反乱軍とアルカイダのこれまでの戦闘の中で見る必要がある。 米国は、2002年からアルカイダ勢力をイエメンから追い出す努力してきたが、ほとんど成果はなかった。 イエメンでアルカイダ勢力を実際に弱化させたのはフーシ反乱軍だった。 この過程でフーシ反乱軍はよく訓練された軍事力を備えていることを見せた。 特にイランの支援がなくても首都サナを占領する程度の能力があることをフーシ反乱軍はすでに見せた。 今、サウジアラビアの武力侵略に対して戦うには、フーシ反乱軍の軍事力は弱い。 しかしイランとしては、核交渉を妥結しなければならない絶対絶命の課題があるため、 イエメンでの戦争の一軸になりたくはないだろう。

シーア派とスンニ派の対立として見るのは本当に無理があるということを示すもうひとつの事実は、 戦争参加国が国内外で味わっている困難だ。 国連は、公式の国際法上の手続きもなく戦争を起こしたことと、民間人虐殺に対して公式に批判した。 サウジアラビアでは4月29日、国王のサルマンが皇太子のムクリンの地位を剥奪し、ムハンマド・ビン・ナーイフを皇太子に冊封した。 ムクリンがイエメンへの介入に反対したためだというのが現在支配的な分析だ。 バーレーンでは、戦争参加に対する抗議デモが続いている。 クウェートでは、シーア派系列の政治家と法律家が戦争を猛烈に批判しており、 外相さえイエメン危機のたった一つの解決策は、政治的なことだと意見を表明した。 エジプトでは一番古く影響力がある政治勢力であるムスリム同胞団が反対デモを行っている。 エジプトがイエメンに対して持っている記憶は、米国がベトナムに対して持っている記憶と似ている。

1962年、新生国家だったイエメンでは、後で共和政派と呼ばれることになる世俗主義指向の軍人がクーデターを起こした。 その後、1970年まで王党派と共和党派の内戦が続いた。 共和政派はナセルのアラブ民族主義の影響を受けてクーデターを起こし、 ナセルもイエメンの内戦に介入した。 エジプトは1967年までの5年間で地上軍7万人を派兵した。 内戦は共和派の勝利で終わり、イエメンは共和国になったが、 エジプトはイエメン内戦に参加した代価を払わなければならなかった。 内戦の空間だった北イエメンは、その他の中東地域とは違い、山間地域で粘り強いゲリラ戦が行われれば、正規軍としては被害を受けるほかはなかった。 1967年、エジプトはイスラエルと6日戦争で敗北した後にイエメン派兵軍を撤収させた。 エジプトは中東の盟主としての地位を6日戦争以後に失ったが、 6日戦争に敗北した原因は無理なイエメン派兵だったという批判は今でも力を増している。

サウジアラビアとその同盟国によるイエメン侵略は、分裂していたイエメンの政治勢力を一つに集めさせた。 イエメンが内部的に分裂していた理由も、内部のシーア派、スンニ派の問題だけではなさそうだ。 宗教問題の他に、南北の地域問題がある。 1962年に共和政派がイエメンアラブ共和国(北イエメン)を建国し、南から分離した。 当時までは英国の植民地だったが、1967年に反英共産主義勢力が武装闘争により、イエメン人民共和国(南イエメン)を作った。 韓国のように理念が異なる体制で、分断国家だったイエメンが統一されたのは、 1980年代中盤に南北国境地域に油田が開発されたためだ。 国境地域で油田を共同で開発しなければならなかった南北は、 1990年に完全に統一してしまった。 しかし統一後も南側と北側の経済的成長の不均衡は、内部分裂を理念として分断された時代とは違う内部の亀裂の一因だった。 しかしこのすべての亀裂は現在、外勢の侵略により終わり、イエメンの内部は団結している。

イスラム諸国のサウジアラビアとその同盟軍の爆撃は、イエメンのイスラム寺院を破壊している。 数え切れない民間人が死んだが外部からの人道的な医療支援は封鎖された。 イスラム以前に建設され、今まで保存されてきた美しい古代の城郭も破壊されている。 アフガニスタンのタリバンがイスラム以前に作られたバーミヤンの仏像を破壊した時、 あれほど糾弾した主流マスコミはこれらの古代遺物の破壊については完全に口を閉じており、 スンニ派、シーア派が対立しているという話ばかりをオウムのように繰り返すだけだ。

▲空襲で破壊されたイスラム以前の古代遺跡. [出処:http://taizcity.net]

イエメンは北側の地域も、南側の地域も、外勢に対して決して退くことがなかった武装闘争の記憶がある。 フーシ反乱軍が「われわれは侵略者どもとの戦争で、一度も退いたことはない」という主張は、こうした歴史的事実に根拠をおいている。 サウジアラビアとその同盟国にとって、イエメンは中東のベトナムになっている。

▲バブ・エル・マンデブ海峡とイエメンの首都サナ.

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2015-05-27 04:48:34 / Last modified on 2015-05-27 04:52:13 Copyright: Default

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