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「労組を嫌悪する資本との戦い、最後まで行く」

[今日、われわれの闘争]金属労組コルテック支会イ・イングン支会長インタビュー

シン・スニョン(全国不安定労働撤廃連帯) 2014.07.07 17:49

[編集者注]とても多くの労働者たちがとても長い間戦っている。 ますます長期闘争事業場が増え、やっとつかんだ勝利の知らせを聞いたのはずいぶん前のことだ。 以心伝心で連帯の気持ちを分けあって頑張るが、難しい戦いは主体の役割になり、孤独に続く。 絶えず自らを慰め、新たに決意して、今日も明日も戦うが、時には忘れられ、時には無視される労働者たちの話。 全国不安定労働撤廃連帯が[今日、私たちの闘争]で読者と分けあおう。共に戦い、共に勝利する日まで、人間らしく生きたいわれわれすべての連帯を望んで伝える。

▲大法院前24時間1人デモをするイ・イングン支会長[出処:コルトコルテック・ギター労働者共同行動]

コルテック大田工場は、朴栄浩(パク・ヨンホ)が「夢の工場」と呼んだという。 働いている時の経験はどのようだったか。

98年8月から働いた。 初め入った時は300人から350人程度いたが、外国為替危機の時に稼いだ金で中国に工場を作った。 物量を移転し、自然に仕事が減り強制辞職で十年間でとても人員が減った。 整理解雇した時には事務職まで入れて総人員は97人だった。

初めはトギョン楽器という元からあった工場を買収合併して使っていたが、 外国為替危機の時に稼いだ金で土地を買い、2000年になって新しく工場を建てた。 ギターを作る仕事は毎日ペーパーがけをするので、木のホコリが多い。 私は包装班で働いていたので工程の一番最後で、現場とちょっと離れていたので大丈夫だったが、 研磨班や切削班、機械班といったところは完全にホコリまみれだ。 それでも前に働いてた時は、本来あった窓をすべて塞ぎ、 新しく建てた工場は密閉型の建物だった。

労働条件も良くないが、賃金も低く男女差別も激しかった。 賃上げが定額制や定律制でなく、個人別に違った。 誰かは500ウォン、誰かは1500ウォン。 管理者の言うことをよく聞けば上がり、嫌われるとあまり上がらない。 10年働いた女性の賃金が、最近入社した男性と同じだったり低いほどだった。 最低賃金にかからない程度だった。 女性たちは1年に二回賃金が上がった。 3月に一度、最低賃金が決定すると9月にはそれに届かなくなるので少し上回るようにまた上がった。 女性労働者への性暴力もよくあった。 尻を触って文句を言えばあまり上がらず、何も言わなければたくさん上がる。 そんな形で現場を管理した。

労働組合ができた後の会社の反応と現場の状況はどうだったのか。

2006年4月3日に労働組合設立申告をして4月4日に組合員と食堂で設立報告大会を開き、 加入申込書を受け、それと共に現場では主任まで合計67人が加入した。 初めは雰囲気も良く、労組ができたことを皆喜んでいた。 会社に交渉を要請して工場長が社長の委任状受けて出てきて交渉をしたが、そのままみんなOKだった。 そして本社が介入し、すでに合意した事項がすべて無効になり、本社が労務士を雇ってまた交渉をした。 その時の交渉で、コルト楽器の水準で団体協約を終わらせ、賃上げも9%だったか、そんなところだった。

交渉で一番重要だったのが、男女の賃金差別の問題だった。 それに合意して6か月以内に労使共同職務委員会を構成し、 2007年から段階的に差を減らしていくことに別途合意をしていた。 ところが全く履行されず、労使間で若干の衝突があった。 われわれは高品質運動をして、物量を下げる怠業をすると、 会社は廃業すると組合員を威した。 団体協約を有利に持っていくための方便だった。

2007年4月、突然廃業が公示された。事前に感知される部分はあったのか。

まさか本当に廃業するとは思わなかった。 どうしてかというと、 以前から言われていたのが半製品をできる限りたくさん中国の工場から持ってきて、 韓国で組み立ててメイド・イン・コリアで売ることで、 海外と国内の工場が両方とも生きる道だということだった。 それなのに工場を閉めるというのは、商売をしないということと同じで、 工場も新築していくらも経っていなかった。

4月9日に出勤すると、何人かがいて、蛇腹の柵が閉まっていて、横に公告文が一枚ついていた。 4月9日から7月9日までの3か月間、廃業のために休業し、7月10日に廃業をする、 不法行為を行う労組や人は民事・刑事上の責任を問う、 希望退職する人に限り、団体協約にある退職慰労金を支払うが、 そうでなければ退職慰労金も払わず、休業手当ても支払われない、 そんな内容が書かれていた。あきれた。

それは何というか、朴栄浩(パク・ヨンホ)がカッとしてやったのではないかと思ったりもする。 年末に男女賃金差別問題で争いになったし、 2007年の初めに高品質運動のために納期に間に合わなかった。 朴栄浩がドイツのミュージックメッセでバイヤーから何かを聞いて、 たださっとやったのではないかと思う。 そうでなければ、あれほど不意にする理由がない。 これまで労組を相手してこなかった人でもないし、 団体協約に休業・廃業に関する規定があるし。 心から国内工場を廃業する計画で、その意思があったのなら、 労組と協議して手順を追ったはずなのに、そうもしなかった。 カッとして、下の人々に門を閉めろと言って、 週末に事務室から重要なものを持ちだして門を閉めたのではないかと思う。

廃業以後、闘争は8年目になった。コルト・コルテックが共同で闘争する前はどう闘争してきたのか。

コルテック大田工場の整理解雇対象者は合計67人で、希望退職したのは44人だった。 廃業後から工場の中にテントを張って、一緒に拠点座り込みを始めた。 会社はただ工場の門だけ閉めたのだから、交渉しようといっても交渉する理由はないと粘っていたが、 労働部がやれというので5月19日からか交渉が始まった。 交渉と言っても、韓国ではもうギターは作らないという話しかなかった。 コルトもその時に闘争をしていたので情報交換もして、共同で集会もして、 本社1人デモのような時はいつも上京できるわけではないので、 コルトが月火水、私たちが木金、そんな形で進めた。

会社は特に反応せず、工場から追い出そうとした。 建物明け渡し訴訟を出して執行官がきた、 しかしわれわれは労組事務室がその中にあるから、労組の事務室を使うと言って頑張って。 結局、建物を明け渡せという判決が出て、執行官がくるといえば地域の仲間たちをかき集めてガソリンスタンドに行ってガソリンを買って、 門の前に木のパレットをいっぱい積み上げて一緒に戦った。

工場拠点座り込みをしながら2008年10月に高空籠城をした。 交渉を引き出そうとすることもあったが、組合員が皆苦しんでいるので内部の結束を高める目的も大きかった。 どうしても大田よりソウルの方が良くて、単社の闘争で当時の政局を突破できそうもなく、 闘争事業場の仲間に共同闘争を提案して、ハイテクと上がることになった。 1か月間いたが、いつもでもそこにいらなず、早く交渉を引き出すために段階的に水位を高め、 11日目からの20日間は断食をした。 本来は高空ハンストをしながら本社占拠闘争までして、 交渉テーブルができたらその時に降りる計画だったが、うまくできず、成果なしで降りてきた。 少し後に本社占拠座り込みもしたが、すぐに鎮圧された。

▲2009年3月の海外遠征闘争、ドイツのフランクフルト[出処:コルトコルテック・ギター労働者共同行動]

国際的な楽器博覧会が開かれる時、海外遠征闘争も何回も行った。

ドイツのミュージックメッセと米国のアナハイムのザ・ナム・ショー、日本の横浜国際楽器博覧会などに六回行って、私はドイツと米国に行った。 米国の遠征闘争ではコルテックの最大の取引処で電気ギターで有名なフェンダー社の広報理事と法律理事などと会い、 私たちがナムショーに来た目的、宣伝物にフェンダーを入れた理由、フェンダーに要求する事項などを伝えた。 悪質な企業に発注するのは、そうした悪いことに同調するのと同じだから、これからは発注しないでほしいということで、 フェンダーでは自主的に調査して、明らかになれば別途の措置をするといっていた。 1年ほど後に調査の結果を送ってきたのが韓国裁判所の判断に従うということだった。 とても政治的だ。 私たちは英語などの条件のため、コミュニケーションをするには米国の労組を通さなければならないので、 調査結果についての反論や対応がきちんとできず、あいまいになってしまった。

遠征闘争に行くと、とにかく問題になった。 有名ミュージシャンが闘争を支持してニュースになったり、 バイヤーも昨年見たのに今年も会った、まだ終わらないのか? そんな反応を見せた。 一番最初にドイツのミュージックメッセに行ったが、 次に米国に遠征闘争に行った時、そこで会ったバイヤーがまた私たちがきたのを見て、ドイツでも会って、 その翌年に行った時には昨年も会ったのにまた来た、 そんな関心を見せた。 一年間、忘れられた闘争をまた思い出す効果があったし、 米国と日本には国際ネットワークができた。

最後の遠征闘争は2011年1月の米国だったが、 当時は私たちが行けず、力になってくれる人がナムショーのイベント会場で1人デモぐらいしてくれるとうれしいと提案したところ、 それでも当該が来るのが一番効果的だと旅費を募金してくれて、行くことができた。 どうしてもたくさんお金がかかるので、その後はまた行くことができなかった。

解雇者数も多く、闘争も長く続いているが、生計と闘争基金などはどう解決しているのか。

整理解雇されて最初の6か月は失業給付を受けて、 それが終わると金属労組から1年間の生計費支援をもらって、 それが終わると大田地域で「涼風」というコチュジャン事業をする社会的企業を一つ作り、 コルテックの組合員を雇用する形式で支援した。 それと共に2年半、3年は、そんな調子であまり多くの金ではないが、およそ90万ウォンずつ受けることができた。 働いていた時、とても低賃金だったのが役に立つ面もあった。 闘争3年ほど経つと、組合員たちが生計闘争に出て行って、生計を稼ぎに出て行かない組合員3人は大田拠点に、またわれわれはコルト工場で戦いながら、 財政事業も進めた。うまくは行っていないが、「涼風」の事業も続いている。

文化芸術家の活発な連帯に劣らず労働者が直接バンド活動や演劇公演などに出て闘争している。特別な契機があったのか。

私たちが闘争した期間は長いが、事実上、あまり知られてはいない。 とても活動的に闘争をしてきたわけでもなく、人員がちょっといた時も延々と本社だけを追いかけていた。 連帯と言っても、金属労組の集会が決まれば行って、個別の単社連帯はあまりでかけなかった。 初めての闘争で、組合員たちは連帯についての部分をあまり認識できなかった。 ただわれわれは会社がコルテックがから、それだけやればいい、こうした認識が草創期にはあった。 そのためあまり闘争も知られず、そのうちに組合員も生計のために離れ行って、それと共にだんだん下火になって。

そんなとき「夢の工場」の試写会の時にキングストン・ルディスカのマネジャーが冗談で一言ぽんと言ったことをまた考えてみた。 その時は闘争5年ぐらいの時点だったが、 「先輩、5年間に何をしていたのか。闘争を始めて、ちょっと楽器でも一つずつ学んで、音楽をしながら宣伝して、そうすればずっとおもしろくて広報も易しかったはずなのに……」。 静かに考えてみると、それもそうだと思った。 ただ集会をして拳を振り上げてチラシを配るより、どうせギターを作っていた労働者だからギターを弾けないことは皆知っているから、 私が作ったものを自分で遊びながら闘争の広報にちょっと活用してみよう。 それでコルベンを作った。 それと共に練習して公演をしてみて、少しずつ公演の味を知ることになった。

そして偶然、振動ジェリーのチームの1人が文化祭で公演して、演劇の話をするので、どうせこっちに進路をつかんだのだから一度やってみようといってすることになった。 私たちの状況を知らせられるのだから、ためらうことなく快く受諾して練習を始めると、すごい不和が起きる。 バンドでもそうで、ずいぶんけんかをした。 する、しないと言って。 闘争でなければ、まだギターを弾いてといったことは考えもしなかっただろう。 闘争だから、もちろん歌ってギターを弾くことが良い時もあるが、ただ楽しむだけでなく仕事だ。 歌でも演奏でも演劇でも、当然全てが闘争の一環だ。

▲振動ジェリーチームと共にした演劇「彼らだけのハムレット」

労組結成から1年で始まった闘争が8年目になった。諦めずに戦いを続ける理由は何か。

私はこの闘争がいつかは一度ぶつからなければならない部分だと思う。 朴栄浩という人はとても労組を嫌っているから、いずれにしても労組があれば必ず一回はやらなければならない問題だった。 それを単にちょっと早く経験しただけだ。 見方を変えれば、もっと早く朴栄浩が選択したことかもしれない。 労組ができていくらも経たない時だから、破壊しやすいと考えるたのではないかと思う。 もちろんこんなに長くなるとは思わなかったし、大変だ。 しかし私たちも私たちだが、朴栄浩もお互い同じだろう。

もう一つ、重要な戦いだと思うのは、コルト・コルテックの整理解雇が今までの整理解雇と較べると、新しい形態だということだ。 これまでは工場が稼動していて、そこで一部を整理解雇する形だったが、 コルト・コルテックはそんな枠組みを完全に壊した。 生産基地を海外に完全に移転して、工場の扉を閉めて廃業し、 すべての労働者を一気に整理解雇した。 それと共に労組を無力化する意図があったのだろう。 こうしたことが、このまま裁判所で正当な整理解雇という判決が出るのなら、 これから主に中小企業から、もっと広く広がる。 私たちの問題としても重要だが、全労働者にとっても重要な問題だと考える。

昨年からコルト・ギター不買運動に力を入れている。目標にする闘争の勝利、仕上げの内容はどんなものか。

実際、工場に戻ることを望みながら不買をするというのは二律背反的だろう。 だから、できる限り不買は避けて闘争計画を立てて戦ってきた。 そのうち2012年の初めにコルト楽器の整理解雇は不当だという判決があった後に再解雇するのを見て、 これはもうこれ以上見ていても仕方がないと判断して不買を始めるようになった。 だが闘争の目標は工場に戻ることだ。 工場を正常化して、解雇者は現場に行くこと、これが最善の目標だ。 もしこれがだめなら、朴栄浩に韓国の土地ではギターを作れないようにすることが二番目の目標だ。

整理解雇に対する大法院の宣告を控えている。今後の闘争の構想はどうか。

組合員のほとんどが大法院の判決だけを期待している局面なので、もし敗訴することになれば、多くの組合員が闘争をやめてしまうのではないかと思う。 そうなれば再整備が必要で、整備できれば社会的闘争に転換し、 この間、曹渓寺で開かれた「心の声」が提案した社会的協議体構成の問題、そして今後も闘争していける踏み台を用意するための生活の問題を解決できる構想をまず重点的に進めて。 今までやってきた闘争をずっと続けていくしかない。

もちろん簡単ではないが、最後まで闘争したい。 その時点がいつかは分からないが、自分の力が及ぶところまではやりたい。 このまま諦めて退けば、朴栄浩はまた工場を運営し、これまでの損失を挽回するためにもっと執拗に搾取をするだろう。 だから最後まで闘争しなければと考えて、闘争したい。

▲振動ジェリーチームと共にした演劇「彼らだけのハムレット」

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インタビューの二日後、大法院はコルテック労働者の上告を棄却して、資本の主張を認めた。 なんとか続けてきた8年の戦いは、法廷では敗北した。 数年間、交錯する判決の中に朴栄浩の対応は終始一貫していた。 不利な判決に対しては履行の根拠をなくし、闘う労働者を窮地に追い立てて、さらに多くの金を稼ぐことだけに没頭してきた。 誰よりも彼をよく知っている労働者たちは、だからなおさら闘争を諦められないと話す。

労働者たちが疲れて倒れることだけを待って、工場をなくし、商標権を更新した資本の貪欲を誰よりもよく知っているから、 諦めることができず、戻った現場で作るギターは前とは違うものにしなければいけないから、諦めない。 差別と搾取の中で働かなければならなかったが、自分が作ったギターを自慢した労働者たちは、 もう生活になってしまった闘争を通じ、労働が誇らしい工場に戻るために戦う。

すべての長期闘争事業場には、そんな絶望と孤独も少なくない。 しかし時間が経つほどに拡散する連帯の力で、闘争の時間を固く、豊かに満たすだろう。 消えた工場で、道路で、弘大クラブで、どこかの集会の現場で、 コルト・コルテックの労働者たちと会った数え切れない人々の気持ちが、 この戦いを守って行くだろう。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2014-07-08 23:07:44 / Last modified on 2014-07-08 23:07:45 Copyright: Default

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