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LNJ Logo 〔週刊 本の発見〕『嘘と正典』(小川 哲 著)
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毎木曜掲載・第333回(2024/2/1)

本当なのか、フィクションなのか

『嘘と正典』(小川 哲 著、ハヤカワ文庫JA、840円)評者:大西赤人

 大西は、子供の頃からたしかに本好きではあったけれども、たとえば年間に数百冊を読破するというような猖椶涼遶瓩△襪い詫霪媛箸任呂覆った。そんな中で最も本に没頭した時期といえば、小学校高学年から中学生にかけてだったと思う。特に、中学校に進んで社会部というクラブに入ったところ、三年生にSF=サイエンス・フィクション好きの人が居たもので、この先輩・Nさんから一年間に受けた影響は大きかった。それまでにもSFは読んでいたとはいえ、スペース・オペラと呼ばれるような活劇ものが多かったのだが、Nさんからは星新一や筒井康隆、あるいはA・アシモフやR・ブラッドベリの作品を教えられ、ハマり込んだ。ちょうど刊行が始まっていた「世界SF全集」(早川書房)を通じて、A・ハックスリイの『すばらしい新世界』やG・オーウェル『1984年』などの著名な作品を読むことにもなった。

 この時期の読書体験が明らかな下地となり、中学二年生の夏休みにあくまでも国語の宿題としてSF的なショートショートを書いたことから大西の執筆生活がスタートするに至ったわけだが、実際に読む本に関してはSFに対する執着は薄れて行く。その後はミステリへの傾斜が一気に深まり、特にE・クイーンだのD・カーだのS・S・ヴァン・ダインだのの作品を読み漁るようになった。どうしてSFに対する執着が薄れて行ったのかと言えば、あえて単純化すれば、SF本来の空想による自由さがむしろ子供心にも牴燭任皀▲雖瓩旅單睫儀里亡兇犬蕕譴討靴泙ぁ△修譴箸梁佝罎箸靴董△爐靴躓膓な論理性を重視する本格ミステリに惹かれたということだったように思う。

 本書の著者・小川哲は、『ゲームの王国』で日本SF大賞、山本周五郎賞、2023年に『地図と拳』で直木賞、『君のクイズ』で日本推理作家協会賞など、SFとミステリとを股にかける作家として注目を集めている。今までその作品を読んだことはなかったのだが、今回、やはり評判の一冊――小川にとって初の短編集であるという本書を手にしてみた。単行本(写真右)も文庫版も(今どきに)表紙がマルクスということ、「CIA工作員が共産主義の消滅を企む『嘘と正典』」なる惹句に誘われたことなどもある。

 収められた作品は、短編五編と中編(書き下ろし表題作)一編。それぞれのテーマは多岐に渡っており、マジック、競馬、音楽、歴史と様々である。現実あるいは史実に則った知的な流れが設けられ、リアルでありながら実は作者によって創られた結構がいつの間にか入り込んでくる。この人物、この出来事は本当なのか、それともフィクションなのか、一瞬立ち止まり、ネットで調べて確認したくなってしまう。

 その意味で、大西にとって最も巧みに感じられた作品は、『ひとすじの光』だった。この物語は、作家である語り手の長らく疎遠に過ごしていた父親が亡くなり、その遺品の中にテンペストと名づけられた所有馬――地方競馬でも勝利したことがない凡馬――の権利書と、実在の1998年度日本ダービー馬・スペシャルウィークと二十世紀初めに狢減澂瓩靴唇貽の牝馬・レティシアについての書きかけ原稿とを見出すところから始まる。競馬はブラッド・スポーツと呼ばれる通り、血統によって成立している。もちろん、遺伝子検査など無縁な長い歴史の中では改竄や捏造が皆無であったとは言えないだろうが、総ては血統という絶対の前提の下に動く。スペシャルウィークをはじめとする日本の名競走馬を遡れば、多くが1907年に英国から輸入された牝馬・フロリースカツプに辿り着く。父親の原稿は、このフロリースカップの妹に当たるミスカノンの娘・レティシアを日本に連れてきた一牧場主の足跡を描こうとしていた。

 競走馬=サラブレッドの生産においては、父馬と母馬とに伝わる遺伝子の濃淡を巧みに配合することが重要になり、四代前の祖先と三代前の祖先とが共通である場合に名馬が多く誕生したため、特に「奇跡の血量」と呼ばれる。大西が競馬を知って間もない1976年、トウショウボーイ、テンポイント、グリーングラスという後世に残る三頭が競馬界を賑わしたが、この時、コーヨーチカラという馬が「関西の秘密兵器」と呼ばれ、実際、三冠競争最後の『菊花賞』でも三頭に次いで微差の四着に食い込んだ。このコーヨーチカラの血統には「奇跡の血量」に当たる世界的種牡馬が三頭も含まれており、当時の大西は、爐海寮茵△發辰閥くなる! そして、きっと名種牡馬になる!瓩般かに期待していた。しかし、その後の彼は故障したのか一度もレースに出ず、しばらくして登録抹消・引退、使途は「農耕馬」と記され、以降の消息は不明となった……。

 閑話休題。『ひとすじの光』には、そんな昔話をも想い起こさせるリアリティがあり、そこに競馬という補助線を用いた父親と息子との微妙な関係性が盛り込まれ、読みやすい一編となっている。

 六編の中ではボリュームのある『嘘と正典』は――
「クック・アンド・ホイートストン式電信機の技師だったサミュエル・ストークスは、暴行事件で逮捕された叔父の裁判を傍聴したとき以来、二十年ぶりにマンチェスター巡回裁判所にやってきた」

――という簡潔かつ興味をそそる一文から始まる。ストークスは、紡績工場の暴動に参加したとして訴追されているフリードリヒ・エンゲルスのために証言をしようとしている。そして彼は、《正典の守護者》の《アンカー》であり、《歴史戦争》を終結させる任務を帯びているとされる。

 ここで舞台は一転、ソビエト連邦崩壊前――一九七〇年代なかばのモスクワに移り、CIA工作員であるホワイトが登場する。彼は共産主義を憎み、共産主義を潰すことを願っている。一方、祖国に絶望しているソ連の上級研究者・ペトロフは、米国に機密情報を提供しようと願い、CIAとの接触を試みる。このような結構の中で、いかにもSFらしいタイムマシン=時間を遡るという要素が加わり、冒頭の裁判との関連が次第に浮かび上がってくる。話の流れからは、単純な共産主義嫌悪に収斂するのであろうかとも危惧したが、そういう結末ではなかった。《正典の守護者》《因果の詰まり》《中継者》《アンカー》というような問答無用に提示される言葉は必ずしもスッキリ得心されるところではないが――

「彼は『当然だ』と言うように、毅然とした表情で陪審員を見つめていた」

――という一文が、論理を超えて全体を整える結びとなっている。
 他の作品も読んでみたいと感じさせる一冊であったことは、間違いない。


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