<「人を殺せない」 日本に来たウクライナの19歳 逃げたと言われても>と題した記事が朝日新聞デジタル(23日付)に載った(以下抜粋、写真も)。
< 2年前にウクライナを出国した時、ロベルトさんはまだ17歳だった。
徴兵や総動員令による出国禁止の対象となる18歳に満たない。だが、国外避難を「逃げた」と見る人は、少なくなかった。「国に残って戦え」と責めてくる大人がたくさんいた。避難先のポーランドやリトアニアでも、何度も「戦いたくなくて、逃げたな」と言われた。
「僕は17歳です。なんで戦争に行かなければいけないんですか」
反論すると、殴られたり、ナイフや銃を向けられたりしたこともあった。
身寄りの無い日本に来て1年半がたち、19歳になった。
「ウクライナにいま、僕の居場所はない。友人はただの『知り合い』に変わってしまいました。帰国しても、自分のことを外国人のように感じると思います」
選択に後悔は無い。けれど、独り暮らす都営住宅で、どうしようもなく寂しくなる時がある。
「ただ一緒にいるだけでいい。誰かがここにいてくれればよいのにと、思ってしまいます」
侵攻の前後で、ロベルトさんの周囲の人間関係はすっかり変わってしまった。
SNSで「死ね」「裏切り者」と送ってきたのは、習い事で仲良くなった幼なじみだった。
今は戦争中で、非常時だということは理解している。兵士として戦っている親戚もいるし、戦死した知人もいる。
「だけど、自分は人を殺すことはできない。出国時、たとえ大人だったとしても、やっぱり戦争には行けなかったと思います。戦争のない国に避難するという決断が、なぜこんなに責められるのでしょう?」>
「人を殺したくない、戦いたくない、だから逃げた」。なんと素晴らしいことだろう。
ロベルトさんの孤独と寂寥が悲しいけれど、その叡智と勇気に心から拍手をおくりたい。
人類は第2次世界大戦の教訓から、「世界人権宣言」を採択した(1948年12月10日)。その前文の冒頭はこううたっている。
「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎である」
人間の「固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利」、その筆頭は「命を守る」ことではないだろうか。「殺されたくない」だから「人を殺したくない」。それは人間のもっとも根源的で崇高な不可侵の権利ではないだろうか。
にもかかわらず、その権利を守ろうとする人間が迫害される。ロベルトさんのように。迫害の論理は、「国を守るため」だ。
いま、我々はあらためて突き付けられている。「命を守る」ことと「国を守る」こととどちらが大切なのか。「国」とは何なのか。人の命より大切な「国家」なるものがあっていいのか―。