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LNJ Logo 太田昌国のコラム : 鈴木邦男氏の死
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 ●第76回 2023年2月10日(毎月10日)

 鈴木邦男氏の死

 「新右翼」一水会顧問の鈴木邦男氏が亡くなった。氏は、私が関わっている死刑廃止のための集会によく来ていたから、しばらく前までは、年に数回は顔を合わせていた。数年前、体調を崩し、療養に努めているという話を聞いていた。或る雑誌での連載も止まり、どうしているかな、と時々思い出したりしていた。

 議論をする機会はほとんどなかった。あるいは、お互い、それを敢えて求めなかった、と言おうか。敬して、遠ざかる、または遠ざける、という関係だったか。私は、反天皇制を掲げる集会やデモへの常時の参加者であり、それに対する右翼の妨害活動は目に余るものがあるから、〈右翼一般〉に対して心穏やかならぬものがあった。

 議論し得た唯一の可能性は、2008年「アトミックサンシャインの中へ――日本国平和憲法第九条下における戦後美術」と題する美術展にともなってシンポジウムが企画され、美術評論家・中原佑介氏、鈴木氏、私が討論者として招かれたときだった。昭和天皇裕仁の頭上でそれこそ「アトミックサンシャイン』が燃えさかる図像など、天皇をモチーフにした作品を大浦信行氏は出品していたし、森村泰晶氏の作品は、市ヶ谷陸上自衛隊東部総監部に乗り込んだ三島由紀夫が、バルコニーから自衛隊員に向けて憲法改正とクーデタを呼びかけた様子を「再現」したものであったから、論議がそこに焦点化されたら、真っ向からぶつかり合うものになり得たかも知れない。事実わたしは、三島が自衛隊での演説の最後に「天皇陛下万歳!」と3度も叫んだが、それは、彼の1966年の作品『英霊の時』で、2・26事件の青年将校や特攻隊員たちが天皇裕仁に対して持つ怨念を「などてすめらぎはひととなりたまいし」と表現し、それは三島の心情を仮託したものに違いないのだから、大きな矛盾である、と指摘した。だが、この展覧会の若い企画者兼司会者は、各人に個別の質問をする進め方を選んだので、鈴木氏と私の間での「対論」になることはなかった。いま思えば残念にも、貴重な機会を逸した、ということになる。

 長いこと同席した機会は、もう一度あった。新潟県新発田市は、アナキスト・大杉栄が子ども時代を過ごした土地だ。その事実に思いを馳せてか、彼が虐殺された9月になると、「大杉栄メモリアル」と題した記念の集会なり映画会なりを開く地元のひとがいる。2014年、私が講演者として呼ばれた。その場に、東京からわざわざ鈴木氏が来ていた。鈴木氏も、以前講演者として招かれたことがあったといい、その後は自分に発言の機会がなくても、その会に出席し、ひとの講演を聞くこと、参会者と話し合うことを楽しみとしているようだった。その夜は一泊し、翌日、主催者が市内を案内してくれたのだが、鈴木氏も同行し、半日をともに過ごした。ここが、よど号をハイジャックして北朝鮮へ行った田宮高麿の実家跡です、ここからわずかしか離れていないあそこが、皇太子妃・雅子さんの父親である小和田氏の生家があった場所です、この寺に田宮氏が眠っています――などという、実に摩訶不思議な「名所旧跡」案内を受けた。天皇家を尊重し、かつ新左翼の人びととの交流を深める中で、北朝鮮へ行って生前の田宮氏に会ったこともある鈴木氏は、私よりはるかに興味深げに聞いているようだった。

 この新発田での、鈴木氏の立ち居振る舞いと物言いに、私ははじめて好感をもった。「右翼」的な立場に頑迷に拘ることなく、自由に考え、ふるまう人物が、そこにはいた。天皇論をめぐっては折り合いがつくことはないだろうが、左翼にあっても右翼にあっても、「自己の絶対化」と「他者への不寛容」が積み重ねてきた〈負〉の遺産を思い起こせば、鈴木氏がとっている立場は貴重なものにちがいない、と思った。

 〈気づき〉は、たいていの場合遅くやってくるので、後悔することが多い。


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