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LNJ Logo 〔週刊 本の発見〕ディディエ・エリボン著『ランスへの帰郷』
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毎木曜掲載・第260回(2022/6/30)

底辺労働者がなぜ極右支持者になったのか

ディディエ・エリボン著『ランスへの帰郷』(塚原史訳、みすず書房、2020) 評者:菊池恵介

 本書は『ミシェル・フーコー伝』の著者であり、フランスのLGBT研究の先駆者として知られるディディエ・エリボンの自伝的な著作である。1953年、地方都市ランスで生まれた著者は、底辺労働者の息子として奇跡的にリセに進学し、社会的上昇を果たしていく。彼にとって学業は貧困を抜け出す手段だけでなく、ゲイとして生き延びるための手段でもあった。だが、洗練された教養を身につけ、やがてフーコーやブルデューとの交友を経てパリの知識人の世界に足を踏み入れることは、労働者階級としての出自を否認し、家族と離反するプロセスでもあった。そんな著者がみずからの出自と向き合い、家族との関係を見つめ直すきっかけとなったのは、長年絶縁してきた父の死だった。なぜこれほど出自を恥じ、家族から遠ざからなければならなかったのか。本書では、自分史と家族史を交差させつつ、労働者階級と性的マイノリティという二重のアイデンティティについて省察を巡らせていく。

 とりわけ印象に残るエピソードの一つは、底辺労働者にとどまった兄弟との岐路が綴られる箇所だ。特に小卒で肉屋の見習いとなった兄は、長年の肉体労働で体を壊し、今は生活保護で暮らしている。歳の離れた弟たちは、義務教育の延長によって10代半ばまで職業訓練校に通った後、一人は自動車の整備工、もう一人は職業軍人となった。学業に成功し、階級離脱を果たした著者は「例外」にすぎず、労働者の子どもの大半が学歴競争から排除され、低賃金・不安定雇用を余儀なくされる宿命は反復される。なぜなら、読書や芸術観賞の喜び、学業への意欲は誰にでも自然に備わるものではなく、生まれ育った社会環境や家族から継承した「文化資本」に深く規定されるからだ。実力主義の神話とは裏腹に、現実の教育制度は「庶民の子どもたちを切り捨て、階級による支配と職業や社会的地位への接近の格差を永続的に正当化する」役割を果たしているのである。

 もう一つの衝撃的なエピソードは、35年ぶりに帰郷すると、家族全員が極右支持者に変貌していたことである。「私の母は、最近ようやく国民戦線に投票するようになったことを認めたが、長い間その反対のことをいつも私に強調していた(「一度だけだよ」と母は念を押したが、この点で母の言葉を信じられるとは思えない。「世の中が良くならないから、一度叱ってやろうと思ったのさ」と、気まずい告白を乗り越えて、母は自分を正当化した)」。かつて共産党の支持者だった家族がなぜ極右に投票するようになったのか。その背景として指摘されるのが、労働者階級を見捨てた左派政党への幻滅である。

 ミッテラン政権以来、フランスでは四期にわたって左派の連立政権が成立したが、主導権を握った社会党のテクノクラートたちは「階級対立の終焉」を唱え、容赦なく構造改革を推進した。その結果、戦後の福祉国家体制のもとで形成された中間層は解体し、階層格差が拡大していった。こうして政治的オルタナティブが消滅し、階級意識が崩壊すると、その空隙を縫うかのように「国民戦線」が躍進を始めた。彼らは「労働者」対「資本家」の階級対立を、「フランス人」対「外国人」の対立にすげ替え、「置き去りされた人々」の不満をすくい上げることに成功したのである。そんな極右に投票してしまう底辺労働者を非難するのはたやすい。だが、そのような投票行動に彼らを追い込んだ責任は誰にあるのか。フランス労働者階級を取り巻く「社会的暴力」を痛切な家族史を通じて描き出す本書は、問題の所在を鋭く浮かび上がらせる。

*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人、志水博子、志真秀弘、菊池恵介、佐々木有美、根岸恵子、黒鉄好、加藤直樹、わたなべ・みおき、ほかです。


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