〔週刊 本の発見〕『プリンス近衛殺人事件』 | |||||||
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毎木曜掲載・第116回(2019/7/4) シベリア抑留とは何だったのか『プリンス近衛殺人事件』(著者 V.A.アルハンゲリスキー、訳者 瀧澤一郎、新潮社、2000年)/評者:根岸恵子まるでミステリー小説のようなタイトルだが、ノンフィクションである。5月に中国のTV局の仕事でハバロフスク裁判の資料を集めていて、この本のことをひょいと思い出した。本棚の奥に埃を被って埋もれているのを引き摺りだして、必要なところを拾い読みしていたら面白くなって久しぶりに再読してしまった。 歴史書としても興味深いし、サスペンスのようで引き込まれるところもあるが、「プリンス」という言葉と日本礼賛的なところはちょっと抵抗がある。しかし、シベリア抑留に対する当時のソ連の思惑について扱った本としては貴重なものである。それに、作者のアルハンゲリスキーは決して日本を「よいしょ」したのではない。語られる話があまりにひどすぎる事実だから、彼は記録として残したかったのかもしれない。 「プリンス」とは近衛文隆のことである。近衛文麿の長男で、ヒロヒトの姪にあたる大谷正子と結婚し、アメリカのプリンストン大学に留学した経歴を持つ。ご存知のように父の近衛文麿は日本の総理大臣を3期務め、東京裁判でA級戦犯となり、服毒自殺をした。細川護煕は文隆の甥にあたる。 文隆は1940年に満州の砲兵連隊に入隊し、終戦後ソ連の捕虜となり、帰国することはかなわず56年にイヴァノヴォ収容所で亡くなった。この本は文隆が捕虜として生きた11年間について書かれたものである。そしてその背景にあるシベリア抑留について、作者は徹底的にソ連を批判している。 シベリアに抑留されたのは兵士だけではない。多くの民間人も送られている。ソ連政府は言い訳でごまかしの数を公表し、作者は「民間人という日本人奴隷がシベリアにはいたのだ」と述べている。1947年に予定より2か月も早くタイシェトとブラーツクを結ぶ区間距離310キロの鉄道が開通する。この作業に11万2千から18万の日本人抑留者を動員したという報告書が残っている。零下30度、40度の酷寒のなかで、夏靴にソックス、戦闘帽という軽装で敷いたレール。鉄道沿いにずらっと並んだ遺体。それから何年も過ぎてブラーツクに世界最大級の水力発電所ができ、日本人埋葬地が水没した。作者は「完工式には無数の赤旗は翻ったが、日本人の偉業をたたえて日の丸も掲揚すべきだった」と述べている。日の丸はロシア人として日本人に対する鎮魂への思いだろう。 シベリアではこうした過酷な奴隷労働が各地で行われていた。ロシアは抑留者の数を60万と公表しているが、作者は実数を100万以上といい、それは広島、長崎の被害者の何倍にもあたると述べている。そして「時は容赦なく過ぎ去り、抑留体験者は高齢化する。ロシア人は、シベリア抑留の問題は風化し、忘れられてしまうと高をくくっている。日本国内にいる仲間を使って『シベリア抑留は日本がやった』『シベリア抑留なんてたいしたものではなかった』という宣伝をやらせておけば、めでたい日本人は騙されて忘れてしまい風化は促進されるだろう。そして、嘘の涙を流し、ジェスチャーだけの謝罪をし、花輪を供えればいいのである」と自国民を批判している。1993年に来日したエリツィンは口頭で謝罪しているが、公式謝罪は突っぱねているから、単なる演技であったと見られている。2019年の今、ほとんどの抑留者も鬼籍に入り、口頭だけとはいえ謝罪もあり、日本国内でも風化されてしまった感がある。シベリアの大地にはいまだに不明となっている多くの遺体が残されている。ソ連はそれを故意に隠してきたのだ。 シベリア抑留者とはいったいなんだったのか。敗戦間際、1945年8月9日、ソ連軍は一気にソ満国境を越えてやってきた。長引いた戦争に多くの兵が疲弊し、731部隊などの秘密部隊はいち早く遁走し、関東軍はもはや闘う気力はなかっただろう。民間人を含め、多くのものがシベリアに送られた。捕虜として。だが彼らは実際にソ連兵と闘ったのだろうか。 文隆は諜報部隊であったスメルシ部隊の襲撃を受け捕虜となった。8月19日のことである。この日関東軍総司令官山田乙三は無条件降伏命令に署名し、ソ連に降伏した。 この本の書き出しは文隆への尋問から始まる。このミステリーもどきの導入の仕方はアルハンゲリスキーの集めた資料からの創作だと思うが、文隆は執拗に「知らぬ存ぜぬ」を通す。彼の機知のある捜査官との問答は、本当にそう答えたのかはわからないが、彼を凛とした芯の強い人間として浮かび上がらせている。ソ連は彼をスパイとして利用しようとするが、文隆は全く動じない。多くの日本人が本国に帰っていくなか、彼だけが残されたまま、ソ連国内を15か所も移動させられ、拷問や寒さや空腹に耐えていたのだろう。いったい文隆は何を守ろうとしていたのだろうか。日本の国か、家の名誉か。結局スパイとならずに文隆は暗殺されてしまう。彼の不可解な死に作者は暗殺だと証拠をあげる。多くの反逆者が脳溢血と診断され死んだように、彼も脳溢血だった。 ソ連は「文隆を日本に戻せば総理大臣になる」だろうと予測していた。そしてシベリア抑留を経験した彼の政策はソ連に有利には働かないだろうと。作者のアルハンゲリスキーはもし彼が総理大臣になっていたら、日本の国を素晴らしい国にしただろうと述べる。もしそうなったらどうなっていたかなど誰にもわからない。 本の表紙には軍服姿の文隆の写真がある。さわやかで精悍そうな感じから、人の良さがうかがえる。41歳という若さでなぜ死ななくてはならなかったのか。戦争はただただ悲惨なだけである。それ以外の何もない。 *「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・渡辺照子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美、ほかです。 Created by staff01. Last modified on 2019-07-04 08:45:24 Copyright: Default |