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LNJ Logo 〔週刊 本の発見〕『うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間』
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毎木曜掲載・第86回(2018/12/6)

死の淵を覗き込んだ人間の闘病記録

●『うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間』(先崎学 著、文藝春秋、1250円)/評者:大西赤人

 誰かに言われた・勧められたわけでもないのだが、いつの頃からか、本を読んでいる時に難しい漢字に出くわすと、一旦ページから離れて頭の中で三回書けるまで先に進まないという習慣があった。そのおかげで、珸薇って書ける? 醤油って書ける?瓩箸いΓ達佑里茲Δ法△燭箸┐偃蹙とか魑魅魍魎とか、結構面倒な漢字も覚えることになった。そんな一つが「鬱」。これは正字の形で頭に入ったから、俗字の「欝」は大西は未だに書けない。本旨とは全く関係ないものの、この見るからに「ウツーッ!!」と感じさせる文字に慣れた身には、「うつ」や「うつ病」という表記はどうにも据わりが悪い。

 本書の筆者・先崎学は、現役棋士(九段/写真右)として活躍するばかりでなく、将棋に留まらぬ様々なテーマのエッセイストであり、実写映画化もされた大ヒット漫画『3月のライオン』(作・羽海野チカ)の監修を務めるなど、多彩な才能の持ち主として知られる。その先崎が、2017年初夏、突然、異常に見舞われる。

「いったいに、本書の内容のようなことは、はじまりの日を具体的に記すことは難しいのだろうが、私ははっきりとその日を書くことができる。それがはじまったのは、六月二十三日のことだった」

 その日は、彼の47歳の誕生日だったのである。「元気で、楽しく、なにより生活に余裕があった」先崎の日常が、その日を境に一変する。疲れが取れない、頭が重い、気分が暗い、寝起きが苦しい、将棋の対局に集中できない、家に居ると不安、家から出るのも不安、頭に浮かぶ死のイメージ……。ここから一年弱に及ぶ先崎の鬱病との日々が綴られて行くのだが、とりわけ強い印象を残すところは、発病から一ヵ月ほどが過ぎた頃、焦燥感を紛らわせるために将棋会館へ行こうと駅へ向かった時の場面である。電車に乗ることが無性に怖くなったという。

「正確にいうと、電車に乗るのが怖いのではなく、ホームに立つのが怖かったのだ。なにせ毎日何十回も電車に飛び込むイメージが頭の中を駆け巡っているのである。(中略)健康な人間は生きるために最善を選ぶが、うつ病の人間は時として、死ぬために瞬間的に最善を選ぶ」

 現代人は、むしろ気軽に「鬱」を口にする。犧廼瓠⊥気辰櫃てさあ瓩箸。爐△い帖⊥吃造もね瓩箸。たしかにその程度の言い方で合っている場合もあるだろうが、先崎は、本当の「鬱」とは、「死に向かって一歩を踏み出すハードルが極端に低い」ものだという。幸運なことに、彼の兄(先崎章)はプロの精神科医であり、発病の当初から、様々なアドヴァイスを行なった。「精神科の入院というのは、とにかく自殺防止だ」と入院の手配をし、「軽うつ状態とか精神的不調なんかじゃなくて、立派なうつ病なんだ」と断言する一方、棋戦を半年間休場するという大きな決断を下した弟に対して、「うつ病は辛い病気だが死ななければ必ず治るんだ」と激励しつづける。

 朝、起き上がることさえ大変な苦痛だった先崎は、兄や妻、仲間の棋士たちに支えられながら、翌2018年4月の将棋界復帰を大目標として、少しずつ回復への道を歩みはじめる。もちろんそれは容易なものではなく、好調と不調との波のある日々だ。終盤で明らかになるように、この本は、彼曰く「うつ病回復期末期(と心から信じたい)の患者が、リハビリも兼ねて書いたという世にも珍しい本」なのである。従って、そこにことさら波乱万丈のエピソードはなく、言わば退屈な一進一退の病状・日常が綴られるわけだが、その代わり、鬱病に襲われた患者のリアルな姿が描き出されていることにもなる。

 そして、そんな本書は、最後の章に至って不意に色彩を変える。回復しても世間から白眼視されるのではないか、偏見に出遭うのではないかと惧れる先崎は、不意に、自らが中学生時代にイジメにあっていたこと、将棋を拠りどころに学校から逃げていたこと、どもりだったことなどを迸るように書き記す。そして、「もしうつ病に対する偏見にあっても、将棋の力によって必ず切り抜けられるはずだ」と力強く宣言する。彼の短期間の回復を、一流棋士という職業、親身に見てくれた兄の存在などが複合した特異な例と見做すことも出来よう(引いては、狄燭塁吃造呂修鵑覆亡蔽韻砲麓らないはず瓩箸いΔ茲Δ僻歡蠹評言も見かけた)。しかし、言わば精神的に死の淵を覗き込んだ人間の現在進行形に近い闘病の記録として、興味深い一冊である。

*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・渡辺照子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美・佐藤灯・金塚荒夫ほかです。


Created by staff01. Last modified on 2018-12-06 16:35:03 Copyright: Default

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