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一番先に失われるのが人権〜北村小夜さんに聞く「道徳」教科化

    佐々木有美

 2018年から小学校で、2019年からは中学校で、道徳の教科化が始まる。教科化と言ってもピンとくる人は少ないのではないか。道徳の授業は、戦後1958年から続いていて、ほとんどの人が体験しているはずだ。それが学級会やTV鑑賞であっても、道徳の時間はあった。それでは教科化とはどういうことなのか。つきつめると教科書ができて、子どもたちが評価されるということ。『戦争は教室から始まる』の著者であり、戦後、小・中学校教員を長く勤めた北村小夜さん(91歳/写真)に、教科化についてお話を伺った。

 北村さんは今回の教科化の具体的な動機を、2011年に起きた滋賀県大津市のイジメ事件だと指摘する。中学2年の男子生徒がイジメを苦に自殺した事件は当時大きく報道され、社会問題化した。それをチャンスとばかりに、文科省などは今まで現場で抵抗のあった道徳教科化を一気におしすすめようとした。2014年には、中教審が教科化の答申を出し、2015年には「特別の教科である道徳」の新設が決まった。

<道徳は戦前の修身そっくり>

 道徳は、戦前の修身とよく似ていると北村さんは言う。たとえば修身は、教育勅語の12の徳目を目標にしていて、親孝行、家族愛、友情、努力、勤労などが上げられていたが、その一番の要は愛国心だった。

 「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」(国に危機が迫ったなら国のため力を尽くし、それにより永遠の皇国を支えましょう)の徳目は、まさに国への滅私奉公を要求している。現在の道徳も、修身とほとんどの徳目が一致する。1958年の道徳開始のときから、指導要領には「日本人としての自覚を持って国を愛し、国際社会の一環として国家の発展に尽くす」という内容が堂々と載っていた。「いきなり憲法や教基法を変えるのはたいへんだから、下から変える。学習指導要領のような文科省の内部でなんとかなるものから変えていくのがむこうの手だ」。

 といっても、戦前の修身と戦後の道徳は、形の上では一直線でつながっていたわけではない。1945年の敗戦で、教育勅語は失効する。1948年には国会で失効決議が出された。しかし、3年後の1950年には、文相が国旗掲揚、「君が代」斉唱をすすめる通達を出し、修身復活を表明。53年には、教育課程審議会が道徳教育を強調した社会科改定を答申している。こうした過程を経て、1958年の道徳の時間の特設となる。当時の日教組は、「修身の復活は、戦前の天皇制の復活。民主主義に基づく教育基本法とは相いれない」として、戦後最大の闘争を展開した。道徳の「伝達講習会阻止闘争」と呼ばれた闘いに北村さんも参加した。固く警護された会場に入ろうと、板塀をよじ登り、腕に深い傷を負った。57年後の今でもその跡がのこっている。

<小学1年生で「テンノウヘイカ バンザイ」>

 北村さんに、修身の教科書を見せてもらった。小学校1年生前半は文字がまだ読めないので絵だけ。1課から15課までは絵のページがつづく。16課で初めて文字が出てくる。それが「テンノウヘイカ バンザイ」だ。そして17課には、死んでもラッパを口から離さなかったというキグチコヘイの話。さらに18課は、毬で隣の障子を破ったトラキチがすぐに謝った話とつづく。「天皇陛下のいるありがたい国に生まれた。だから忠義でなくてはいけない。親孝行より先に忠義がくる。忠義な兵隊になるためには良い子でなければいけない」。この三課のみごとな連携プレーには驚かされる。 

<他の教科の上に立つ修身>

 修身は、「首位教科」と呼ばれた。戦前の教育は1890年に出された教育勅語を根本原理としている。修身はその解説、算数や国語など各科目はその実践編と位置づけられた。つまり、修身はすべての教科の上に立ってその他の教科を指導する一番「エライ」教科だったわけだ。この「首位教科」と現在の「特別の教科としての道徳」は同じ意味だと北村さんは言う。たとえば2002年の福岡市の通知表(写真)だ。社会科の評価の観点の一つに「我が国の歴史や伝統を大切にし国を愛する心情をもつとともに、平和を願う世界の中の日本人として自覚をもとうとする」という項目がある。在日コリアンの団体がこれに反発し社会問題化した。社会科の評価に道徳的観点がおしつけられる。国を愛する心、日本人としての自覚がないと社会科に悪い点がつく。あまりにも理不尽だ。学問(科学)が道徳に支配される事態が進行している。

 道徳新学習指導要領には、「道徳教育は道徳の時間を要として、教育活動全体で行う」とあり、教科書会社は、各教科と道徳との関連を示そうとやっきだ。たとえば、日本文教出版社の「小学校算数」教師用参考解説では、「正多角形と円」という単元があり、その内容は「円周率の歴史にふれ、日本や世界の数学者の業績を知る」とある。これが道徳の内容とどうつながるのかというと、なんと「畏敬の念、愛国心」が上げられていた。「外国の長さの単位」では「外国の長さの単位にふれ、異なる単位系や文化への関心を高める」として、これも「愛国心」だ。こんな調子で、郷土愛やら公徳心、家族愛まで、算数で教えられることになっている。笑い話ではなく、これが現実なのだから驚く。

<権利より義務への誘導>

 それでは、人類の普遍的価値としての基本的人権について、道徳はどのように教えているのか。現在の道徳の副読本『わたしたちの道徳』(小学校五・六年)では、<法やきまりを守って>という単元の中に、「権利とは義務とは何だろう」という項がある。権利については、「だれかが一方的に自分の権利ばかり主張して義務を果たさなかったり、義務だけをおし付けられたりするようなことがあったら、どうなるでしょう」と、義務を持ち出して、権利を行使しない方へと子どもたちを誘導している。

 そのあとに続く、「日本国憲法が定める国民の権利と義務」という項では、一応、「基本的人権の尊重」を上げているが、一番大切な、その定義がない。<人間が人間である限りもっている権利。国家や憲法に先立って存在するもの。政府の権力でも、法律や憲法改正によっても侵害されない>。こんな定義を教えれば、何ものも恐れず権利を主張する人間を作り、危なくて教えられないというのが文科省の本音だろう。

 道徳の教科化で起こるのは人間の評価だ。北村さんは、「子どもの学習を評価すること自体問題だが、それを人格にかかわるところまでやろうとしている。道徳の評価の低い人は、『悪い人』になってしまう。勉強ができないより『悪い人』は、人間の評価として決定的だ。これは、絶対に認められない」。そして「文科省は評価させることで、道徳を徹底させようとしている」と話した。

 なぜ、国家はこんなにも道徳教育に熱心なのか。「八紘一宇(※)をまたやって、世界を制覇したいから。個人より公益を大切にし、国のために尽くす人間をつくるのが第一のねらい」というのが北村さんの答えだった。そして最後に、こうしめくくった。「愛国心と評価によって一番さきに失われるのが人権だ」と。

※八紘一宇(はっこういちう) 世界を一つの家のようにすること。第二次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた。


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