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〔レイバーネット国際部・I〕

先日、梁振英・行政長官が、普通選挙を導入すれば、低所得者層のための政治に偏ってし まう、という問題発言をして香港の人々の怒りを買いましたが、同じく親中派の葉國謙・ 立法議員は、民主派議員が反中国のメディア「苹果日報」の会長から巨額の献金を受けて いることを批判して「選挙は結局はカネだ」と述べています。   かたや普通選挙は貧者に有利に働くという主張、かたや普通選挙は金持ちに有利という主 張のどちらもが、実は同じ穴のムジナであるという區龍宇さんの論考を紹介します。香港 紙「明報」日曜版(2014年10月26日)に掲載されました。   原文  http://premium.mingpao.com/pda/ppc/HotNews2.cfm?cat=ja&File=vze2.cfm&token=b218b c260b89c0&online=0     ===================−   梁振英と葉國謙:相反する主張で補充しあう 區龍宇   「明報」2014年10月26日 日曜版     われわれは、貧乏人には普通選挙権を与えるべきではないという趣旨の発言をした梁振英 ・行政長官には感謝しないといけない。彼の発言は白書以上に明白にその意図を吐露して おり、香港はこれまでも貧乏人を無視した政治を行ってきたことを語る反面教師の役割を 果たしたからだ。     ◆アリストテレスと梁振英は同類か?   民主主義は貧困層に偏った政治を行うという考えは、なにも梁が言い始めたことではない 。2000年以上前に、かのアリストテレスが「政治学」の中で述べていることでもある 。彼はその著書の第三巻第八章のなかで、民主主義が多数者の権力掌握に等しいと考える のは間違いである、と述べている。「寡頭政治と民主主義政治体制の主要な違いは、人数 の多い少ないにあるのではない。両者の原則上の違いは、その貧富の区別にあるのだ。い かなる政治体制でも、その支配者の人数如何にかかわらず、もしその富に依拠する体制で あれば、それは寡頭(財閥)政治体制となるのである。おなじくもし貧者を主体とするの であれば、それは民主主義政治体制なのである。」   これが、西側のブルジョアジーが王権・貴族と権力争いを演じているときに、民主主義と いう言葉を忌み嫌った理由でもある。貧者の権力である民主主義に、ブルジョアジーがど うして賛成することができたであろうか。だからブルジョアジーは貧者の圧力に抵抗する ために、王権を根本的に排除しようとはしなかったし、選挙権においても最初から一定の 資産を条件とすることで、普通選挙に反対してきたのだ。   民主主義という用語は、19世紀には民主主義者だけが使っていた言葉で、周囲からは普 通選挙権の要求は過激思想だと考えられた。だが資本主義による工業化が一般化するまで は、これらの民主主義者の大衆的基礎は、プチブルと自立的な職人たちだったので、ブル ジョアジーと貴族に譲歩を迫るほどの力はなかった。ヨーロッパで産業労働者が政治的舞 台に登場して、普通選挙権運動を引きついだことによって(たとえば英国1838年のチ ャーチスト運動)、この状況に変化が生まれた。     ◆真の普通選挙にも限界がある   しかし普通選挙権運動が後の世に成功したが、それは貧者の権力、つまり梁振英の警告す るような事態を招いたであろうか? 普通選挙がおこなわれ、国家行政の長を選ぶ選挙で の選挙権、被選挙権が与えられている世界中の国家において、貧者が権力を握った国家が いったいどれだけあっただろうか? 権力を握るといわないまでも、貧者のための政治が 実現されたケースはほとんどなかった。だから、梁振英の主張は実は間違いなのだ。だが 、それは事実において間違いということであり、結論についていえば、梁が真の普通選挙 に反対したことは、全く正確無比である。つまり中国・香港の権力エリート財閥にとって 、真の普通選挙に反対することは正確無比なのである。事実と結論は分けて考えなければ なら ない。   梁振英は間違っていたが、アリストテレスは間違ってはいなかった。古代ギリシャとブル ジョア代議制には大きな違いがあるからだ。前者の人民議会では、政治と経済の権力が結 合されており、艦隊の建造や公共工事、あるいは貧者が政治に参加するための手当の支給 などで国家が資金が必要な時には、富裕者に対して資金の提供を要求することができた。 こうして政治権力を掌握した者は、経済的権力も相当ていど掌握することができたのであ る。エリート主義者のアリストテレスにとっては、民主主義はもちろん貧者の権力掌握と 同じに見えたことから、当然それには反対した。   ブルジョア代議制は、普通選挙改革を経たものであり、それは古代ギリシャの民主主義と は別物といえる。封建主義を打倒した資本主義においては、ブルジョアジーは自らの財産 権を「神聖不可侵」なものに変えることに成功し、経済を政治領域の外側に置いた。政治 的に代議制が存在するか否かに関わらず、普通選挙権があるか否かにかかわらず、政府の 政策は以前よりも小さな範疇に限定されてしまった。その後、大財閥が経済権力を通じて 政治に影響力を行使しだすのである。いわゆる金権政治だ。だから労働党が政権を取って も、労働者人民を真に代表することができないのである。   民主主義が貧者の政治になるという主張は、古代ギリシャのアリストテレスにおいては正 しかったが、21世紀の梁振英においては間違っているのだ。なぜなら資本主義において 、真の普通選挙が貧者の権力をもたらすことはあり得ないし、貧者の立場にたった政治を 実現することさえもありえないだろう。     ◆親中派は始皇帝の思考回路   おもしろいのは、梁振英と同じ穴のムジナである葉國謙[親中派の政党、民建聯の立法議 員]が、今年の8月4日に書いた文章で、民主派議員が黎智英[民主化支援のメディア経 営者]から献金を受けていたと指摘し、「民主主義とは金権ゲームである」ことの証明だ と主張したことだ。つまり選挙は結局のところカネに左右される、カネの多い者が勝利す るという。では誰がいちばんカネを持っているのだろうか。言うまでもなく財閥だ。つま り、梁振英とは逆のことを主張している。梁振英は真の普通選挙は貧者の権力をもたらす と主張し、葉國謙は選挙が財閥の権力をもたらすと主張しているのだ。   しかし両者は相反する主張で補充し合っている。事実について大まかに言うならば、梁の 主張は完全に間違っているが、葉の主張は大体において正しい。しかし事実と結論とは分 けて考えなければならない。葉の主張の趣旨は事実の表現に限定されているわけではなく 、次のような結論へ導くことを狙ったものである。「貧乏人が普通選挙などに関心をもっ ても意味がない。結局それで得をするのは君たちではなく財閥なんだから。」   しかしこの結論は問題である。普通選挙権が財閥の特権をはく奪するものでないにしても 、それが労働者民衆に何かしらの利益をもたらさないとは限らないからである。北京のメ ディア、いわゆるマルクス主義者、そして葉國謙などは、次のような公式を並べたてたが る。   代議制=西側民主主義=金権政治=ブルジョア独裁=労働者人民にとっての利益なし=絶 対的否定。   問題は、この等式の一つ一つの推論がすべて間違っている、ということにある。これは典 型的な秦の始皇帝の思考方法と同じである。自分は絶対に肯定し、他人は絶対に否定し、 その中間はあり得ないという考えである。しかし現代思想においては、いくつもの中間状 態が存在することを認めなければならない。労働者民衆が政治的権利を享受することは、 権力を掌握することではないにしろ、いくらかは財閥の専制をけん制することは可能であ る。   もし労働者民衆が政党を結成することが可能となり、労働運動の発展が可能ならば、議会 、政党政治、社会運動を通じて、自立した政治参加の能力を鍛えあげて、長期の展望に立 った労働解放の事業を達成することができるだろう。そもそもこれが社会民主主義の立場 であった。普通選挙権には積極的な意味があるし、それは勝ち取るべきものである。もち ろん普通選挙権だけでは不十分であり、それはより良いものにしていく論理が必要だが、 完全に否定すべきものではない。ましてや赤裸々な財閥独裁を支持するなどもってのほか である。   葉國謙の立論は、実際のところ梁振英の主張と同じである。違いがあるとすれば、訴えか ける対象が違う、ということだろう。葉は労働者民衆を欺くために発言し、梁は(NT紙 のインタビューを通じて)海外資本に警告するために発言しているのだ。「おやおや、注 意なさい。真の普通選挙を支持する側なんかに立ってはいけませんよ。真の普通選挙はみ なさんに不利なんですから」と。   2014年10月25日

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