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LNJ Logo 黒鉄好のレイバーコラム : 追悼・種村直樹さん〜日本最初のレイルウェイ・ライター
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 第21回(2014.12.23)

追悼・種村直樹さん〜日本最初のレイルウェイ・ライター

 すでに1か月以上前のことになるが、11月6日、種村直樹さんが転移性肺がんのため死去した。78歳。葬儀・告別式はすでに11月12日、都内で執り行われた。謹んで哀悼の意を表する。

 この間、追悼記事を書かなければと思いながら、総選挙・原発問題の講演などの政治的日程が立て込み、この時期にずれ込んでしまった。だが、種村さんは単なる趣味的鉄道ライターとしての枠にとどまらず、広く鉄道を取り巻く社会情勢も含めて世に問うことのできた貴重な社会派ライターでもあった。あまり知られていないが、旧国鉄労使双方に深く食い込み、JR不採用問題=国鉄闘争にも関心を抱いていた人だった。長く国鉄闘争を追ってきた者のひとりとして、種村さんのそうした一面をぜひ、記録に残しておかなければならない(そして当然のことながら、趣味的鉄道ライターとしての種村さんの追悼記事はすでにいくつか見られるが、労使問題まで食い込んで発言した社会派ライターとしての種村さんの追悼記事は今のところ見当たらない)。
 *写真=1998年1月18日付「しんぶん赤旗」日曜版「今週のひと」コーナーに登場した種村氏

 ●新聞記者からの転身

 種村直樹さんは、1936年、滋賀県大津市生まれ。地元の県立高校から京都大学法学部に入学し、1959年3月の卒業後は毎日新聞社入社。新人記者の宿命でもある警察での事件取材(いわゆる「サツ回り」)を経て、転勤先の名古屋で1966年8月から交通担当となった。国鉄中部支社、名古屋鉄道管理局、名鉄、近鉄などを担当。同時に郵政、電電公社、労働担当も兼務したため、労働問題にも一定の知見を持つようになった。毎日新聞中部本社版に「お盆列車は走る〜急行「阿蘇」同乗記」が掲載され、事実上の鉄道記事デビュー。同年12月、テレビ出演して通勤列車の問題点や名鉄事故などについて論評したのがきっかけに、鉄道に知見を持つ記者として知られることになった。

 1973年3月、交通担当から国会担当への異動を打診されたことに対し、「自分はこれからも鉄道を見ていたい」として毎日新聞社を退社。日本初の鉄道専門のフリーライターである「レイルウェイ・ライター」として新たな一歩を踏み出した。

 日本の論壇・文壇において「レイルウェイ・ライター」の肩書を名乗る人は、この時点では種村さんが初めてであり、前人未到の分野だった。作家・小説家として鉄道「も」書くというスタイルの人であれば、それまでにも存在した。古くは、明治生まれで夏目漱石の門下生であった内田百もそうだし、阿川弘之や宮脇俊三もそうしたスタイルの作家だった。だが、鉄道ファンにおなじみだった宮脇俊三も、作家となる以前は「中央公論」編集部で仕事をしており、作家ではあってもライターやジャーナリストには分類できない人だった。当コラム筆者と同世代か、それより上の世代の鉄道ファンにはおなじみの宮脇・種村の「両雄」は、活動分野が重なっていなかったからこそ並び立つことができたといえる。

 種村さんは、その後、現在でも著名な鉄道趣味雑誌のひとつである「鉄道ジャーナル」誌の竹島紀元編集長の目に留まり、同誌と専属契約を結んで本格的にレイルウェイ・ライターの仕事に乗り出す。「鉄道ジャーナル」誌の発行元・鉄道ジャーナル社はかつて鉄道記録映画社を名乗り、鉄道の記録映画を制作販売する地味な企業だったが、鉄道雑誌の編集発行が本業となった結果、鉄道ジャーナル社に社名を変更。季刊としてスタートした同誌はやがて月刊誌化した。特に、ひとつの列車に乗車して徹底的にルポする「列車追跡」シリーズは鉄道ジャーナルの看板企画として読者の好評を博した。この過程で種村さんが果たした功績は計り知れない。

 新聞記者出身だけあって、種村さんは筆まめな人でもあった。鉄道ジャーナル読者から寄せられた手紙にはほとんど返信するなど、読者との交流を大切にした。鉄道ジャーナルの姉妹誌「旅と鉄道」誌上での連載「種村直樹の汽車旅相談室」は乗車券など切符のルールに関する質問を読者から受け付け、答える誌上問答形式で読者には好評だった。国鉄〜JRの切符のルールである「旅客営業規則」と、その運用通達に当たる「旅客営業取扱基準規程」を読者にとって身近な存在にしたのも種村さんだ。この他、郵便局の窓口で貯金をし、貯金通帳に郵便局長名の印(取扱主務者印)を押してもらう「旅行貯金」をメジャーな存在にするなどの功績もあった。

 このような、読者との交流を大切にする種村さんのスタイルは「信者」と呼ばれるほど熱烈な種村ファンを生み出したが、一方で、大勢の「信者」を伴っての旅先での集団行動や、「〜である由」「ぞっとしない」「〜に対して苦言を呈しておく」など、新聞記者出身とは思えない独特な文体・表現には鉄道ファンからの批判もついて回った。

 2000年11月、くも膜下出血で倒れ入院。奇跡的に一命をとりとめた後は、好きだった煙草も絶ち、レイルウェイ・ライター業にも復帰したが、退院後の文章が以前と比べて精彩を欠いていることは種村さん本人も認めていた。2010年12月に再び脳出血で倒れ、公の場から姿を消して以降は完全な療養生活だった。

 種村さんがレイルウェイ・ライター業に踏み出した1970年代は、日本の鉄道、とりわけ在来線にとって最後の黄金時代であり、この頃を境目として自動車に旅客・貨物を奪われた鉄道は衰退期に入っていった。種村さんの鉄道人生は、そのまま戦後日本の鉄道の衰退史でもあった。だが、鉄道の現場取材という意味では最後の良き時代といえた。運転士が乗務中に煙草を吸ったり携帯電話を使用したりするだけで不祥事として乗客に通報され、やれ解雇だ処分だと大騒ぎになる現在からは想像ができないが、当時は鉄道雑誌の記者・カメラマンらが運転士とともに運転席に乗車して取材を行う「添乗取材」が広く行われていた。添乗取材は、国鉄本社に許可を求めなくても地元の国鉄支社・鉄道管理局レベルでの許可で可能だったし、当局が許可を渋り、なかなか出さないときは国労・動労などの労働組合に相談し、当局に働きかけてもらえば許可が下りることが多かったとする証言もある。先頭に機関車が連結されているため、今日の常識では撮影不可能であるはずの寝台特急列車(ブルートレイン)や貨物列車の「前面展望」写真などは、この添乗取材の賜物である。

 当時は、国鉄の労使関係もまだ悪くなかった。鉄道雑誌の記者やカメラマンも添乗取材などで国鉄の労使双方に世話になっていたし、現場の国鉄職員も鉄道ファンに優しかった。当コラム筆者が中継信号機や車両称号の意味などを教えてもらったのも現場の駅員からである。現在であれば「癒着」と批判されかねないが、当時は鉄道雑誌の記者・カメラマンや鉄道ファンまでもが自分自身を「鉄道ムラ」の一員と認識していた時代だった。

 原子力ムラに象徴されるように、現在では「ムラ」は閉鎖的な地域社会や利権集団に対する否定的な意味でしか用いられないが、そうした「ムラ」の是非はともかく、国鉄分割民営化により「鉄道ムラ」の解体が進んだ結果、従来では考えられないようなお粗末な事故やトラブルが多発するようになったことは指摘しておく必要がある(国鉄時代も事故・トラブルは起きていたから、「ムラ」解体の結果、それまでのように過去の事故から学び、類似の事故を起こさないようにしようとする職業意識が失われたと表現するほうがより正確かもしれない)。現在でも、40〜50歳代より上の古い鉄道ファンの中には、鉄道の現場の職員に食い込んでいることを自慢する者が時折、見受けられるが、これはこうした「ムラ」時代の名残である。

 ●国鉄の栄光と挫折の中で

 1980年代に入ると、累積赤字の拡大する国鉄の再建が重要な政治日程に上ってきた。80年には日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)が成立。国鉄運賃を幹線・地方交通線の2本立てとした上で、地方交通線運賃を1割増しとすること、輸送密度(1日1キロメートル当たり輸送人員)4000人未満の路線は特定地方交通線として、原則廃止かバス転換することが決まった。

 赤字ローカル線問題が急速に政治問題化するのに伴い、種村さんにも国鉄再建に関する発言が次第に増える。ただ、種村さんは商業メディアが繰り広げた国鉄の「ヤミ・カラ攻撃」「労働者悪玉論」とは明確に距離を置き、日ごろ現場取材などで国鉄の労使双方に世話になっている自身の立ち位置を踏まえた公平な論調を貫いた。

 労働組合への言及が増えたのもこの時期の特徴だ。『国労のとり組みをみて』と題した「鉄道ジャーナル」1983年11月号「レイルウェイ・レビュー」では『二〇年近く国鉄とかかわりのある仕事をしているうち、国鉄当局はもとより、労働組合の国労にも親しみをもつようになっている』と、自身が国労に好感を持っていることを隠そうともしていない。種村さんの論調に対し、読者投稿欄で『当局べったり』と批判した読者に対しては『はなはだしい誤解』であり『鉄道が好きだから日本全国に路線網をのばしている国鉄に親近感を覚えるのは自然なこと』と反論している。

 このコラムでは、国労が全面バックアップする形で83年11月27日に開催された「国鉄を考える会」主催の「国民の足“国鉄”を考える」集会を取り上げ、国鉄建て直しのため「思い切った合理化」が必要なことは認めつつも、『目先の数字だけを尺度にした画一的な切り捨て策には反対』と、ローカル線廃止反対を明確にしている。『秋山謙祐企画部長は、「内側だけでものを言っているだけではダメだ、なんとか利用者に直接話しかけたい。それも朝日、毎日、読売の読者というより、スポーツ紙好みの人と接触したいと思ったのだが、具体的にどうやっていいか分からない。まず試みにプロダクションにまかせてみたが…」と、成りゆきが気がかりな様子』と、国労本部役員のコメントを取っているのは、毎日新聞時代から国鉄労使双方に食い込んでいた種村さんならではだ。世間の評価を気にする一方、一般市民に広く訴えなければ局面は打開できないと焦る当時の国労本部の様子が生々しく伝わってくる。その上で、『外へ出て語りかけるという姿勢は評価すべきだ。今後は「国鉄を考える会」などという名前より、堂々と国労を前面に押し出して語りかけ、対話の雰囲気を盛りあげるようつとめればよかろう。…そして外へ出る姿勢は、国鉄当局も大いに見習うべきであろう』と、国労の取り組みに一定の評価を与えている。

 『国労の国鉄再建提案』と題した「鉄道ジャーナル」1981年1月号「レイルウェイ・レビュー」では、81年1月27日、国労が当局に申し入れた「国民の国鉄をめざす国鉄の民主的再建に関する提言」を取り上げている。この提言は、(1)総合交通政策について縦割り行政を排するため運輸省を「総合交通省」に再編すること、(2)「総合交通政策審議会」の創設、(3)国鉄の組織について理事会を執行機関とし、意思決定機関を別に作る、(4)有識者、利用者、労働者代表からなる「国鉄経営委員会」の設置――などを提案している。

 それから30年後の今日、(1)は国土交通省として実現、(2)については審議会こそ設置されていないが、2013年に交通政策基本法が成立、その基礎が整えられた。(3)(4)に関しては、有識者、利用者、労働者代表こそ入っていないが、GHQ(連合国軍総司令部)の助言を受けた戦後の改革の中で、国に依存せず自主的に経営方針を決められるよう、意思決定機関として「管理委員会」を設けた帝都高速度交通営団(営団地下鉄、現・東京メトロ)にそのモデルがある。対して、当時の国鉄は意思決定をすべて政府・運輸省に委ね、また運賃は国有鉄道運賃法に基づき国会で決められていた。国鉄本社は、決定権のない執行機関として政府と労働組合の板挟みになり、何も決められず、拱手傍観しているうちに国鉄解体を招いた。

 「提言」はさらに、割引切符の拡大、新幹線での夜行列車の運転や小荷物輸送なども提案している。国労がそれまでの労働強化反対一辺倒ではなく、利用者の利便性向上につながるなら労働強化も受け入れる内容といえる。種村さんは『国鉄再建法と来年度政府予算案には反対の立場を貫きながら再建策を見直し、具体的な施策を盛り込んでいるところに耳を傾けさすものがある。これまでの国労の主張、当局施策の拡大、様々な国鉄部外からの意見などを集大成したようにみえ、それだけに直ちに実施できるものも多い』とこの提言にも一定の評価を与えている。

 この時の「提言」に含まれている新幹線の小荷物輸送が、後に「レールゴー・サービス」「ひかり直行便」として実現し、一部は現在まで続いている実態を見ると、この提言には先見性があったといえる。このコラムを書いている2014年12月23日の時点で、寝台特急は「カシオペア」「北斗星」「トワイライトエクスプレス」の3列車だけになっているが、朝晩の最も需要の多い時間帯が通勤ラッシュと重なるため、その時間帯を始発・終着とする列車を設定できないことも寝台特急の衰退理由であることは多くの識者が指摘していた。新幹線での夜行列車が実現していれば、通勤ラッシュ時間を気にせず、観光客やビジネスパーソンにとって最も便利な時間帯に列車を設定できたであろう。また、ダイヤに余裕のある新幹線では、途中駅で夜行列車を長時間停車させ、明け方に再び走り出すダイヤとすれば保線時間も確保できるばかりか、乗客もぐっすり眠れ、評判になったに違いなく、「提言」が実現しなかったのは残念だ。

 「提言」の中で、1975年の「スト権スト」に関する当局から国労への損害賠償請求訴訟について、国労が取り下げを要求したことに、当時、自民党の他、同盟・鉄労が反対を表明したことに対しても『自民党はともかく、同盟・鉄労が真正面から反対することになれば、労働者全体にとって好ましい結果を生むとは思えない』として、御用組合に「苦言を呈して」いる。

 当コラム筆者が、皆さんに最もお伝えしておかなければならないのは、「鉄道ジャーナル」1982年5月号「レイルウェイ・レビュー」掲載の「ある国鉄マンの手紙」であろう。国鉄を「分割民営化すべき」とした臨調第4部会報告を受け、種村さんあてに送られてきたある鉄道マンの手紙を紹介している。「ある鉄道マン」は次のように述べている。『(報告には)具体的な内容がまるでなく、…なによりも分割すれば、どのように、なぜ良くなるのかが分からないし、我々職員から見て、本当に臨調案で再建できるのかと疑わしくなります』。

 そして、飲酒運転などの悪慣行が臨調報告でようやく是正される国鉄内の状況を嘆かわしいとしながら、能力のない人をコネで次々と採用してきた当局の採用方針を批判。『ただし、組合の役員などは皆まじめで仕事好きな人ばかりです。ですから、国鉄をダメにしているのは国労ではなく組合運動にも参加せず、できるだけ仕事もせずに適当にしている人間だと思うのです』と綴られている。わけも分からず、突然のように始まった国労攻撃に対する、偽らざる現場の思いを代弁している。

 種村さんは、この鉄道マンに対しても丁寧に返信をしたためている。『当局、労働組合を問わず、組織の中にいる人たちが、第三者機関の半年ちょっとの審議で解体だ民営だと言われては反発するのが当然で、「はい、そうですか」と小さくなっているようでは、いよいよ国鉄はダメだと思っていましたから、(異論噴出の状況を見て)安心しました』と国鉄労働者の誇りをたたえている。

 『臨調部会の調査、審議の過程で、分割・民営という結論が最初からあり、とにかく一度国鉄をつぶしてから考え直せばいいという姿勢のように感じられ、加藤寛部会長のはしゃぎぶりも鼻につき、好感が持てません』。そこでは、私信という安心感もあってか、日ごろ新聞や雑誌の記事を書くときには決して見られないような強い表現も使われており、種村さんが国鉄「解体」に向けてうごめく者たちにいかがわしさを感じている様子が窺える。

 結局、国鉄は各界各層の反対運動にもかかわらず、解体が強行された。「鉄道の将来を考える専門情報誌」を標榜、政府の交通政策に批判的な意見を含め、自由な議論を認めていた「鉄道ジャーナル」も「今後は、国鉄改革の精神を活かした誌面作りをしていきます」と表明、事実上政府に「屈服」した。種村さんからも政治的発言はいつしか消えた。

 だが、種村さんの政治的発言は、突如「復活」する。屈辱的な「四党合意」が国労闘争団員などの奮闘で破たんした後の2004年3月のことだ。「今こそ政治解決を」と題する「レイルウェイ・レビュー」では「種村節」が久しぶりに聞かれた。『JRグループ各社は、東日本が完全民営化を果たしたのをはじめ、長年の不況と、他交通機関との競争にめげず、立派な輸送実績を残してきた。多角的な事業も軌道に乗りつつあるようにみえる。これから、日本を代表する企業として、ひとまわりもふたまわりも大きくなるには、この人の問題を、きちんと解決せねばならない』『JRグループは、いつまでも国鉄とは別法人で関わりはございません、国労等に対する不当労働行為はありませんでしたなどと、きれいごとを言わない方がいい。国鉄−公共企業体日本国有鉄道がなければJRグループが存在していないことは子供でもわかる』と、被解雇者の職場復帰に応じないJR各社を痛烈に批判したのだ。当時、種村さんはすでに一度、くも膜下出血で倒れ「職場復帰」した後だったが、復帰後の文章について、みずから「精彩を欠いている」と認めていたとは思えないほどの鋭い舌鋒だった。

 ●鉄道が好きだからこそ

 自慢するわけではないが、当コラム筆者は一度だけ、種村さんと旅先で出くわしたことがある。2002年7月1日、高知県の第三セクター・土佐くろしお鉄道阿佐線(通称「ごめん・なはり線」/写真)に出かけたときのことだ。阿佐線は、国鉄時代に計画線だったころの路線名称で、ごめん・なはり線の愛称はこの路線が御免〜奈半利間であることから付けられた。ちょうどこの日が開業初日。地元出身の漫画家・やなせたかし氏が描いた「アンパンマン」のキャラクターがデザインされた展望車が運転されるとあって沿線には多くの人が詰めかけており、乗客の乗降が困難で定時運行ができないほどの大混雑に見舞われていた。そんな中、種村さんは、事前に鉄道ジャーナル誌上で「ごめん・なはり線開業初日には僕も現地に立ちたいと考えている」と“予告”。種村さんは有言実行の人であり、本気でなければこんなことは書かない。必ず来るという予感があった。

 種村さんも私も、ここへの来訪目的は同じだった。阿佐線が、国鉄再建法施行に伴う旧国鉄「建設中止」路線の復活開業組としては事実上最後の新規開業路線だったからだ。国鉄再建法は、法施行時点で建設途中のものは建設中止、計画段階のものも計画中止としたが、鉄道を求める地元住民に配慮して、私鉄や第三セクターなど、国鉄以外の事業体が開業後の運営を引き受ける場合に限って工事再開を認めていた。阿佐線は、旧国鉄中村線を継承した土佐くろしお鉄道が引き受けを表明、着工された。建設は日本鉄道建設公団が行い、完成後、運行する事業体に引き渡す方式だった。

 梅雨明け間近の蒸し暑い、すし詰めの展望車で、何とか外の見える窓側の位置を確保し、外の景色を見ていた私の目に、途中の和食(わじき)駅でおなじみの顔が飛び込んできた。種村さんだった。ホームから列車を見ながらニコニコ笑い、コンパクトカメラを向けて写真を撮っている。この笑顔――やはり、生まれながらの鉄道好きなのだ。レイルウェイ・ライターは種村さんにとって天職だと改めて思った。本当は鉄道ジャーナルの読者として話がしたかったが、この笑顔を邪魔するのも忍びなく、なによりもすし詰めの列車から降りるとそのまま車内に戻れなくなる恐れもあって断念した。列車は私を乗せたまま、種村さんをホームに残して和食駅を発車した。私が種村さんを生で見た、まさに最初で最後だった。

 レイルウェイ・ライター晩年の種村さんは気の毒としか言いようがなかった。長年の「職場」だった鉄道ジャーナル誌で連載記事を次々と休載に追い込まれるなど、追放同然で同誌を追われた。創刊初期の鉄道ジャーナルにおける固定読者の獲得、拡大は種村さんを抜きにしてはあり得ず、まさに鉄道ジャーナル最大の功労者であった。その功労者に対する晩年のこの仕打ちはいったい何だったのだろうか? 私は種村「信者」ではなかったが、多くの鉄道ジャーナル読者と同様、今なおその仕打ちに全く納得していない。

 もともと鉄道記録映画社は竹島氏が創業した企業で、多くの創業者社長がそうであるような前近代的ワンマン経営だった。1926年の生まれで昭和ひとケタ世代の竹島氏は、80歳を過ぎるころから、朝鮮半島の鉄道を巡る記事で日本軍による慰安婦の強制連行について「その事実はない」と発言するなどして、読者からの厳しい批判を浴びるようになった。明らかに鉄道と無関係なところでの騒動は、鉄道ジャーナルの私物化であり、竹島氏の衰えを感じさせた。鉄道雑誌全体がインターネットの普及によってこの頃から加速度的に衰退していたが、種村さんのいなくなった鉄道ジャーナルの誌面を見て、離れる読者も相次いだ。2006年12月をもって、竹島氏は高齢を理由に編集長を退いたが、時すでに遅かった。2010年には鉄道ジャーナル社は雑誌の販売業務を成美堂出版に委託。ついに販売から手を引いた。今もインターネット上では時折、鉄道ジャーナル社の経営危機が噂されることがある。それがたとえ事実であったとしても、私に同情する気は全くない。編集長の独善的経営と不見識が招いた自業自得だからである。

 私自身、今年6月から1年間、鉄道ジャーナルの「抗議不買」を続けると決めており、今まさに不買運動期間中である。事故が多発するJR北海道の安全問題について、常連執筆者の佐藤信之・亜細亜大学講師が「私鉄ではこれくらい人員が少ないのは当たり前」と放言したからである。貨物列車など、私鉄にはない多くの種類の列車が走っているJRを私鉄と同列に論じてはならないことは、もう20年以上前に、私の「師」でもある立山学さんが「JRの光と影」で明らかにしており、手垢のついた合理化万能論にすぎない。

 佐藤氏がなぜこのような不見識極まりない論調を展開したか、その理由は多言を要しない。彼が教鞭を執る亜細亜大学の学長を、死去するまであの瀬島龍三氏が務めていたと指摘するだけで十分だろう。国労をすり潰し、地獄に送った張本人のもとで長年教鞭を執った佐藤氏に国鉄分割民営化に対する批判的見解を求めることは、八百屋で魚を求めるに等しい。

 ●今後の鉄道趣味界は?

 鉄道ファンに愛された宮脇俊三さんに続き、種村さんも鬼籍に入った。種村さんが初めて名乗ったレイルウェイ・ライターの肩書を持つ人は、岸田法眼さんなど何名か存在する。だがやはり種村さんに比肩する人はいない。かつて鉄道ファン仲間と数名で集まり、「宮脇、種村両氏がこの世を去る時が来たら、自分たちの時代にしたいよね」と居酒屋談義で話したことはある。好きなことを対象に、物書きで生計を立てた種村さんをうらやましく思う半面、自分の意思と無関係に「筆を折られた」晩年の種村さんの悔しさを思うと、同じ物書きとして胸が苦しくなる。新幹線を除いて鉄道自体にいい話題がない今、かつてのような輝きをもって鉄道ライターが迎えられる日はもう二度と来ないのではないか。そんな思いにもとらわれる。

 私が鉄道ファンとして日常的に交流している人も、気づけば片手の指で足りるほどの人数に減ってしまった。最近、自分は本当に鉄道ファンなのだろうか、と思うことがある。このコラムにしても、明らかに読者として意識しているのはファンではなく一般の人であり、一般の人に向けて鉄道を巡る様々な問題を解説するのが使命と思っている。

 先日、東京駅で起きた「限定スイカ」騒ぎを見ても、鉄道会社が作り出したブームに資本主義的に乗っかるような「ファン」とは何なのだろう、という感想以外のものは持ち得なかった。少なくとも、私たちの時代の鉄道ファンは、企業の作り出す一過性のブームなど見向きもせず、一般人が目を向けない機関車の部品の形に違いを見つけて楽しむような人たちだった。楽しみは自分で見つける。自分の頭で考え、自分の足で歩き、「発掘」する。その喜びを忘れ、鉄道会社に与えられた偽物の喜びに有頂天になっているような連中は真のファンにあらず、と今こそ「苦言を呈して」おきたい。

<参考文献・資料>
 本稿執筆に当たっては、「きしゃ汽車記者の30年―レイルウェイ・ライター種村直樹の軌跡―」(2003年、SiGnal)及び「種村直樹のレイルウェイ・レビュー〜国鉄激動の15年」(1986年、中央書院)を参考にした。

(黒鉄好・2014年12月23日)


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