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LNJ Logo 宮崎駿「風立ちぬ」〜「夢に忠実な人生」が、そんなに美しいのか?
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「夢に忠実な人生」が、そんなに美しいのか?

  宮崎 駿「風立ちぬ」を見て 湯本雅典


    (C)2013 二馬力・GNDHDDTK

 宮崎駿の「風立ちぬ」を見に行った。封切から1週間、日曜日ということもあって大型館有楽町スカラ座は、満席の大盛況であった。私は、「ゼロ戦設計者の半生を描く」話と聞いて、初めは見る気がなかった。しかし、ジブリが冊子「熱風」で「憲法改正」を特集を組み、宮崎駿が「憲法を変えるなどもってのほか」という長文のエッセイを自らの戦争体験と重ね合わせ書いているのを見て、少し映画も観たくなった。彼は、「改憲」反対の立場を明確にしたのだ。しかし結果は、完全に私の期待を裏切るものであった。

 映画の主人公の堀越二郎は、確かに夢を追い続けた。そして、戦争によりその技術が完全に利用されたことも「本意でなかった」ように描かれている。宮崎駿はその製作主旨を「自分の夢に忠実にまっすぐに進んだ人物を描きたいのである」(映画プログラム「企画書」より)と語っている。私は、自分の戦争体験者から改憲反対を語る人間から、このような台詞を聞きたくなかった。決して聞きたくなかった。

 私の母は、東京大空襲の被災者である。戦闘機に追われ、機銃掃射を受け、あと30センチ横にずれていたら母は死んでいた。そして、母と一緒に逃げ惑った母の友人は機銃掃射の弾丸に打ち抜かれ亡くなった。もし母が死んでいたら、私は生まれてこなかったのだ。

どう妥協しても、私は戦闘機を設計した人間を、たとえ国が違えども許すわけにはいかない。その設計者の「夢を追う人生」を「美しい」とは、絶対に思えない。だから、戦争を、戦争を起こした者たちを、そして今戦争を再び繰り返そうとしている者たちを決して許してはならないと思うし、そうでなければいかに改憲反対を声高にに叫んでみてもウソになると思う。

 宮崎は、この作品を自分の「遺書」だと言っている。また、宮崎が初めてこの作品を観たとき、涙が出たとも。宮崎は、現代社会の中で必要な「何か」をこの作品に込めたかったのだろうか。自分の人生、戦争体験とも重ね合わせて。しかし、この時代の空気を読む前に、自分はどうなのか。まずは自分自身がなぜ生きなければいけないのかではないのか。宮崎は、自分の夢が戦争の犠牲になり落ち込む主人公二郎に「生きろ」と語りかける。それは、まったく逆ではないのか。自らの誤りを正すことが、生きることへの必然性を呼び込むのではないか。

 この作品と長崎の被爆を描いた映画「爆心 長崎の空」(日向寺太郎監督、現在上映中)は、対称的だ。この作品は、60年以上たっても被曝の過去に不安を持ち続ける被爆者の人生を描く。そこに「夢」などあるのか?宮崎監督は、被爆者や空襲の被災者、福島の被災者(これは日本に住む人間全員だ)に、夢を持って生きろというのか。悲しみをしっかりうけとめ忘れず、その現実の中でどう生きるのかを考え、編み出す中でしか「夢」は、訪れないのではないのか。

 二郎が設計したゼロ戦は装甲が薄く(その設計シーンは映画の中でも描かれる)、その結果多くの兵士が米軍機の機銃に打ち抜かれ戦死した。そして最後にゼロ戦は特攻機に仕立て上げられる。その責任は、設計者にはまったくないのか。私は、震災から2年以上もたつのに、原発設計者から何ら謝罪の発言が公式にないことが、不思議でならない。恐ろしいとさえ思う。この映画の中では、東京大震災が描かれている。宮崎も多少は、3・11を意識したのではないのかとは思う。しかし、その後の軍事大国化を客観的に支え「生き抜いた」堀越二郎は、まさに原発開発の技術者と同じ立ち位置にあったのではないのか。この映画が、東京電力がかっての大株主であるKDDIに後押しされていることを考え合わせると、まっすぐに現実に向かい合えていない作品だとしか私には見えない。そして、そこに広い年齢層からの大量の観客(年配の方もかなり鑑賞していた)がなだれこんでいることに、私は大きな不安を感じざるをえなかった。


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