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LNJ Logo WTO「連行闘争」の報告(by小倉)
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News Item 20051222m1
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小倉です。支援してくださったみなさん、ありがとう、ほんとに感謝です。もし お気づきの点あればよろしく。ぼくの記憶に基づいたメモです。連行当日だけで なくその前から書いてあります。

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WTO閣僚会議
12/15
午前 NGOセンターに14日の各国閣僚によるステートメントが配布されている ことを発見。日本は麻生外務大臣のステートメント。(外務省のウエッブには英 語と日本語の仮訳が掲載された) 午後、このステートメントを反WTO行動に参加している団体、個人に配布し、反 対声明を出す準備を始める。草稿を作成し、午後6時から最終声明作成の会議を 開く。さしあたり、ATTAC Japan,脱WTO草の根キャンペーン、ピープルズ・プラ ン研究所の三団体と声明作成の会議に参加できた個人などの連名の声明を作成 し、夜9時の日本政府のブリーフィングの際に、政府側に渡すと同時に、集まっ たNGOや市民団体にも賛同を呼びかけた。

同時に、ATTACjapanのAさんが、徹夜で英文のステートメントを作成し た。同時に、翌日にかけてさらに賛同団体、個人を募ることにした。 12/16  早朝、反対声明の英訳が完成する。日消連のYさんと手分けしてNGOセンター のコピー機を使って、200部作成する。これらをNGOセンターの各団体の資料 配布デスク、プレスセンターの資料配布デスク、NHKと共同通信、ビクトリア パークやBoys and Girls Clubの集会などで配布。

午後、韓国の進歩ネットなどが運営しているメディアセンターにでかけて声明を 読み上げる。インターネットのテレビで放映されたはずだ。メディアセンター は、ワンチャイの駅から徒歩数分のところにあるHKPAのフロアの一角にある。テ レビ用のスタジオが部屋の片隅にあり、持ち運びができるビデオ編集用の機材 (手作りだそうだ)などもあり、かなり広いスペースだ。韓国のメディアアク ティビストたちは数ヵ月前から釜山のAPECと香港WTOに焦点をあてて準備を進め てきたという。マスメディアを明らかに凌駕するスタッフとスペースの規模であ ることはまちがいない。(NHKがコンベンションセンターに設置したブースはこ のメディアセンターの十分の一くらいしかないし、スタッフの数も圧倒的にメ ディアセンターの方充実している)

声明の反応はなかなかよいものだった。PP研の事務局が日本国内の団体にも呼び かけて、賛同を募る。この結果、賛同団体、個人が大幅に増える。

夜。WSFの会議に途中から参加する。(詳しい報告はここでは省略)

夜9時から 日本政府のブリーフィング。この日のブリーフィングで、日本政府 は「100億ドル」のLDCへの援助が、日本政府やG10の政策を受け入れさせるた めの「ニンジン」であることを自ら認める。また農水省の担当者は、「途上国か らの農産物の日本への輸出が、日本の農業にとってどのようなメリットがあるの か」とか「地元向けの農業生産が輸出向けに転換することで、途上国の貧困が深 刻化する問題をどのように考えているのか」「日本政府がこれまでに提出したす べての文書を公開せよ」などさまざまな疑問、要求が出される(まともに解答で きたものはなく、「落第」であった)と同時に、参加していた農民団体の人々か らは、政府による農業切捨てへの厳しい批判が相ついだ。(日本政府の対応の問 題点は別途きちんと批判する必要がある)

12/17 午前中にさらに反対声明を配布。昨日の日本政府の「にんじん」政策の肯定など のひどい対応について、秋本さんが英文でレポートを書き、いくつかのMLなどに 流された。この前日の日本政府の対応のレポートも含めて、午前から午後にさら に反対声明をビクトリアパークなどで配布。

NGOセンターの広報デスクに、15日に行われた二階経済産業相のステートメン トが配布される。経産省は、二階大臣のステートメントという重要なできごとが ありながら前日のNGOブリーフィングを欠席している。これは、日本政府不正実 な対応を象徴する事態といえる。(ちなみに農水大臣もステートメントを出して いる)

午後からデモがワンチャイ周辺で散発的にあちこちで起こる。

夜6時、イラク戦争についてのワークショップのためにBoys and Girls Clubに出 かけるが、建物はセキュリティを理由に閉鎖されている。建物の担当者に閉鎖理 由を問い質すと、ワンチャイ一帯のでは建物の閉鎖が指示されているとのこと だった。しかし、特にワンチャイからの退去命令がでているとか立入が禁止され ているといったことは聞かなかった。7時ころまで、事情を知らないでやってく る参加者に事情を説明するために会場前の路上に立つ。警察の動きがあわただし い。通りは封鎖され、車は通っていないが、カフェなどは営業している。という ことでこの日のワークショップは中止を余儀なくされた。

その後、ワンチャイ駅方面へ向かう。ワンチャイ付近で、何人かに電話し、日本 から来ている人達のなかで連絡のつく人とワンチャイ駅付近で合流した。あちこ ちでデモが起きている。歩道から香港市民がデモ隊に大きな拍手を送るだけでは なく、デモ隊の隊列の後ろについてデモをする市民たちがどんどん増えてくる。 デモ隊が見事に市民の共感を得ていることがよくわかる瞬間だった。デモ隊は 「抗議世貿!we love Hong Kong!」を叫びながら、徐々にコンベンション・セン ターに近付く。コンベンションセンターの噴水手前あたりで、デモ隊の一部が、 機動隊を一瞬の隙をついて、機動隊の隊列を突破して、中庭に突入する。中庭に 設置されていたベニヤの塀が倒されてさらにデモ隊の一部が中に入ろうとした瞬 間に、催涙弾が数発打ち込まれ、デモ隊は後退した。催涙ガスで動けなくなる人 達が多数でてくる。デモ隊が風下だったこともあって、逃げてもガスが追いかけ てくる。ガスはワンチャイ駅あたりまで流れてきた。

ワンチャイ駅の金融センター前でデモ隊は隊列を組み直して、路上に座り込む。 その数は、千数百名。その回りや歩道橋を多くの市民が取り囲み、さらにその背 後に機動隊が道路を封鎖するようにして見守る。デモ隊は、ここで座り込んで集 会を開始。団体や個人のアピール(ジョゼ・ボヴェも挨拶した)、歌や踊りもあ り、ある種の宴会の雰囲気になる。

インドから来たというビアカンペシーナのはち巻きをしている50ー60歳くら いのおじさんが、「トイレはないか」と僕に聞くので、「店がしまっているとこ ろが多いので、立ちしょんするしかない。」と言って、暗めの路地を教えてあげ る。「立ちしょんで捕まることはないか?」と言うので「だいじょうぶだろう」 と言ったのだが、やがて暗い路地は文字どおりのトイレと化すことになる。

夜8時ころだろうか、皆空腹になり、歩道にいる人達もテイクアウトの弁当を食 べたりしている。ぼくたちも、弁当を買いにいく。座り込みをしている大通りに 通じる脇道のレストランが営業していて、そこでテイクアウトの五目ヤキゾバと 炒飯を注文。これ以降翌日夕方までろくに食事もあたえられない状態になるとは おもっていなかったが、この弁当はかなり助かった。

徐々に機動隊の包囲網が縮まり始めた。韓国のデモ隊の関係者から、これから包 囲網からでられなくなる可能性があるので、外に出たい人は今のうちにでたほう がいいというアドバイスを受ける。僕たちの中には、体調が悪くなる人も出てき たので、残るかどうかみんなで相談した。体調をくずした人とその付き添いをま ず外に出す。いったん出たら戻ることはできない。体調をくずした彼は外に出ら れたものの、機動隊に荷物を調べられている。「彼は病人だから早く返してく れ」と叫ぶが、しきりに荷物を調べている。(後でわかったことだが、どうも身 分証明になるものを探していたらしい。他の仲間も外に出て、日本人だとわかっ て、彼も解放されたようだ)

そして、今後出られなくなる可能性もあるので、最後までこの場に残るつもりの ない人は出た方がいいということになり、4名が残ることになる。座り込みの後 方をブロックしている機動隊の周辺には外に出ようとしている人達が数十人待機 している。この時点では、なんとか外に出してもらえた。これが機動隊の包囲網 から外に出る最後のチャンスだった。その後はいくら交渉しても外にはだしても らえず、「逮捕されたくなければ、金融センターの入口の踊り場のあたりにい ろ」というので、かなりの人達、百数十名がこの付近で座り込んでいた。かなり 寒い。香港は日本の冬よりかなり温かいのだが、この日は風が強く、かなり冷え た。持っていた新聞紙を体にまいて寒さをしのぐ。

このころだっただろうか。座り込み部隊の前方に陣どっている機動隊から数発の 催涙ガス弾が投げ込まれた。しかし強い横風のためにガスはデモ隊をかすめて横 に流れるだけで、効果はまったくない。

座り込みを続けている人達は、韓国からの参加者だけではない。ぼくの知合いの タイなど他の国の人達もいる。寒いので、踊ったり歌ったりとかなり騒がしい。 踊りがはじまりシュプレヒコールがあがるたびに機動隊は緊張するのだろう。盾 を路面にぶつけてドンドンという音を一斉にたてて威嚇する。なかなか動物的な 反応だ。機動隊には女性も多い。防毒マスクや消化器などももっている。ゴム弾 用のライフル銃をもつものもいる。

深夜12時を過ぎ、膠着状態が続く。これ以降は、寒さと睡魔との戦い。僕達は まだ歩道脇でやや風もよけられるが座り込み本体は車道上で風をよけるものがな い。かなり辛いだろう。金融センターの通用口が歩道から数メートルひっこんだ ところにあり、ここが便所がわりになる。女性は大変だった。女性たちが横断幕 などで覆い作り、外から見えないようにしてトイレを作る。機動隊にはトイレに いけるようにすべきだと何度も要求がだされるが一切ききいれない。香港のHKPA のメンバーも腹を立てている。

こうして、外にでることのできなくなったぼくたちのなかには、海外からの活動 家やHKPAや香港の人権団体の警察監視のメンバーの他に一般の香港市民もまじっ ている。子どももいる。みな同じように袋の鼠状態。また、一部のビアカンペ シーナのメンバーなども本隊とは別に金融センターの踊り場で体を休める人達が 出てくる。他方で、元気な若者は金融センターの正面に飾られていた大きなクリ スマスツリーのサッカーボールほどの大きさの銀のプラスチック製のボールの飾 りでサッカーを始める。なんて元気なんだ。ボールが機動隊側に逸れると機動隊 が盾を鳴らして威嚇する。ぼくはひたすら寒い。金融センター前に座り込み仮眠 をとるひとが増え、ぎゅう詰め状態だ。

3時半ころから、警察は座り込んでいるデモ隊の本隊からひとりずつ連行しはじ める。機動隊が、デモ隊前に陣どり、機動隊員が壁となって一人が通れる通路を つくり護送車まで連行する。周りを機動隊だ取り囲むので、暴行やいやがらせを 一番うけやすい状態だ。しかし、みたところ特に大きな問題はおきていないよう に見える。

後方の機動隊部隊がぼくたちのいる金融センターの踊り場のところまで前進して きて、僕達を前の方に移動させる。こうして徐々に前方に追いやられる。歩道側 (歩道と車道の間には腰あたりの高さのあるフェンスで仕切られている)を遮断 している前方の機動隊にHKPAのメンバーが歩道側の人間を外に出すように要求す るが、聞き入れない。そのうち、機動隊は、「まず香港市民だけ外に出すので、 身分証明書を提示しろ」と言う。「次は外国人か」と思う。その結果あとでわか るのだが香港市民だけは逮捕されたものがいない。こうして、香港市民が多数支 援してたにもかかわらず、警察の作戦は、このデモをすべて外国人、とりわけ韓 国の農民だけが乱暴狼藉を働いたものであるというストーリーにでっちあげた がっているようだ。包囲網の中にのこっていた「香港市民」のなかに公安警察の 関係者もいた可能性がある。たまに機動隊の壁を出入りする人達がいたのだ。メ ディアを装って、公安警察が至近距離からデモ隊の写真を撮ったりもするという ことを後で聞いた。金融センター前にいた人達は、明らかに座り込みの支持者で あり、ぼくや何人かの者は座り込み部隊にいる友人と何度も話をしにいってい た。こうした行動は警察からすれば、金融センター前の集団も座り込み部隊と変 わらない存在とみなされることになったのかもしれない。

ぼくは座り込み部隊ほど確固たる連行逮捕を覚悟していたわけではなく、その可 能性は高いとは言え、最後は出られるだろうと思っていた。なんとも中途半端な はなしで、戦闘的かつ英雄的なはなしでもない。ただはっきり僕自身自覚的だっ たのは、座り込み部隊だけを機動隊の前に残してはいけないということ(機動隊 のテロを抑制しなければならない)と、何人もの知合いが「連行闘争」で座り込 むというWTO反対闘争でもっとも地味なメディア受けしないがもっとも魅力的な 非暴力直接行動の手本のような闘いをしているのに、その場を去るという決意が どうしてもできなかったということだった。こうした気分で残り、座り込んだひ とたちが多数いたにちがいない。こうして最終的には1200人ほどが残る。 (マスメディアは900名と報じているがこれは少なすぎる。後に、報道も、千名 を越えていることを認める。)

こうして機動隊は香港市民を外に出し、HKPAのメンバーをのぞく香港市民がいな くなる。HKPAのサポートスタッフが、機動隊に対して外国人を外に出す交渉をし たが、「外に出たければ、座り込みの本隊のところに並べ」というばかり。座り 込み本隊の拘束は遅々としてすすまない。護送車が一台しかないらしい。もう二 時間くらいたつ。HKAPは必死で努力してくれた。HKPAのスタッフは韓国からの座 り込み本隊よりも先にぼくたち歩道側にいた者たちを外に出すということで交渉 してくれた。これは、座り込み部隊本隊と区別されたように見えたのだが、実は 他の座り込み本隊と一緒に外に出されることになる。この時点ではまだ明確にぼ くたちもまた、逮捕されるとはわからなかった。

護送車が到着するまでかなり待たされる。すでに空が明るくなり、7時を回る。 少し気温もあがってくる。やっと護送車が来る。護送車は中型バスくらいの大き さで、となりに警察官が座る。そして全員が手錠(荷作り用のプラスチックの紐 とおなじようなものなので金属性ではない)をさせられる。逮捕されたことが はっきりわかった瞬間だった。

車で運ばれた先は、警察犬の訓練センターなどがある警察の施設の大型車両用ガ レージ。ここに男女別々に集められ手錠をはめられたままコンクリートの地面に 座らされた。ぼくたちのあとに到着したビアカンペシーナの人達はなんと後ろ手 に手錠をはめれらている。冷たいコンクリートの上に、そのまま座らされ、数人 の警察官が見張る。寒いし、かなり苦痛だ。ぼくはパソコンの入ったリュックを しょったまま。重い。このガレージには全部で100名くらいの数が収容された と思う。この段階で、座り込み部隊も金融センターにいた人達も区別がつかなく なる。警察側はまったく区別していないこともはっきりする。

寒いのでトイレに行きたいという要求が次々でる。トイレも一回に一人しかいく ことができない。しかもトイレの往復に10分くらいもかかる。いったいトイ レってどこにあるんだ?あちこちでトイレに行きたいという者が出てきて、トイ レの順番を管理するのが面倒になった警察官は、トイレに行きたい者を一列に並 ばせるようになる。自分達の荷物はとりあげられるわけでもなく、そのまま手元 にある。携帯電話やタバコ、ビデオカメラもある。

ガレージに手を縛られ物のようにして放りこまれた状態は、屈辱的ではあるが、 皆なかなかしたたかだ。警察官たちは、ただ単に取り調べまでの中継ぎとして言 われたことをやっているだけのようで、ぼくたちがタバコを吸ったり、勝手に立 ち上がって柱のコンセントで携帯のバッテリーを充電したり、ビデオカメラを回 しても静止しなくなる。ぼくも携帯で場所を知らせようとするのだが施設の名前 を知るヒントになるものがあまりない。遠くに見える建物の名前や警察犬の訓練 センターがあることなどを伝える。プラスチック製の手錠はちょっと工夫すると 容易にはずれる。警察官にわからないようにみなはずしている。そのうち、警察 官が朝食のつもりだろうか、味気のないクラッカーを配り始めた。ほとんど腹の たしにはならない。

僕は、座っているのが苦痛になったので、20人位の長い列になっているトイレ の行列に並ぶ。あとから来た白人の男性と挨拶する。某先進国の大学の教授だと いう。シアトルから毎回参加していて、WTOの閣僚会議に対してNGOの運動がどの ような影響をあたえているかに関心をもっているらしい。グラムシのことや ANTIPODEというラディカル地理学のジャーナルのこととか話す。韓国の青年が米 軍基地のことを話してかなり盛り上がる。

ちょうどトイレから帰ってきて少し経ったころ、全員またバスに乗せられる。 15分ほど乗って到着した場所には、駐車場の一角に長机と椅子がいくつも出さ れている。ここで、ぼくたちはパスポートを提示させられ、右手親指だけの指紋 をとられた。かなりいい加減な指紋のとりかたで、ぼくのは単なる黒い楕円形に しか見えないが、それでも気にしていないようだ。警察官たちは大量の逮捕者を できるだけ早く処理することしか念頭にないようだった。英語が判るかを聞か れ、被逮捕者の権利が伝えられる。ここで初めて容疑を知る。ぼくの書類の逮捕 容疑にはunlawful assemblyとある。この容疑のとなりの欄に「証拠」という項 目がある。空白のままなので、警察官に「ここは空白なのか?」と聞くと「ここ はなにもない」と当然のように言う。証拠なく不法集会で逮捕か?現行犯でもな い。いったいなんなんだ?カフカの『審判』の主人公になった気分だ。

これで長いバスの旅が終わったわけではなかった。20ー30名ほどの部屋に集 められる。サンドイッチ用の薄い食パン2枚とお茶が配られる。(これらの昼食 だかおやつ?すらもらえなかったグループもあったことを後で知る)この部屋で 取り調べを待つのだろうと思っていたら、ふたたびバスに乗せられる。

こうして最後に到着したのが、ある警察署の留置場だった。廊下に荷物を置きか なりずさんな身体検査のあと房に入れられる。房は4人部屋で、廊下に沿って6 つか7つ並ぶ。廊下がふたつ並行してあり、片方が男性用、もう一方が女性用で 分けて使われた。房のなかには4つの「ベッド」と仕切りがなく廊下からまる見 えの便器がある。ベッドは分厚いコンクリート製。あおむけで寝ると背中がじー んと冷たくなる。暖房はなく、窓は天井付近に小さな明り取り程度のものがある だけ。なにしろ寒い。身体検査もいい加減だったので、みな房に携帯電話を持ち 込む。僕も持ち込んだが、バッテリーがあまりない。

もう夕方近いのだがまだ朝からまともに食事もしておらずみな空腹だ。みな警察 官に「朝から何も食べていない、食事をよこせ」と言い出す。やがて食事が運ば れてきた。ごはんにハムとモヤシのあんかけ風のものがのっかっている。白湯が 紙コップでくばられるが、やたら薬臭い。寒いので「毛布をよこせ」と皆言い出 す。やがて薄い毛布が一人一枚づつ配られる。「弁護士に面会させろ」という要 求だ出される。「電話をかけたい」「電子メールを出したい」「携帯の充電をし たい」などなどさまざな要求が次々に出される。

警察官たちはなかなか言うことを聞かないが、要求の頻発でかなりうんざりして いるようだ。しつこく要求すると権利として認められていることはほぼ通った。 しかし、留置場の責任者が交替するたびに言うことがころころかわる。いちいち 交渉を最初からやり直す。彼らは基本的に自分の持ち時間にトラブルが起きるこ とを極端に恐れている。「メールを出したい」というと「ヤフーか?」とか聞 く。メールを出してもよいと許可したのにインターネットが使えないというトラ ブルでクレームをつけられるのを嫌がっている。ぼくが携帯の充電をしたいと 言ったときも、ぼくの持っているアダプターをコンセントに差し込むことを非常 に恐れている。爆発するとか思っているのだろうか。なにしろ自分達の知らない 物は恐いらしい。「おまえは、日本人か。空手とか柔道はできるか。できてもそ んなものをおれに使わないでくれ」とか言う。未知なものへの恐れと偏見(特に 韓国の逮捕者への偏見は酷い)はかなりなものだ。

勾留中にHKPAの派遣した弁護士と二回面会した。二人とも女性。HKAPのサポート メンバーも女性が多く、機動隊と交渉してくれたのも女性のスタッフだった。女 性がすごく活躍しているのが目立った。弁護士は、香港の法律では、令状なしの 逮捕勾留の期限は48時間であること、逮捕された時間は、全員18日早朝の3 時30分となっていること、取り調べに際してはかならず弁護士と通訳の付き添 いを要求することなどいくつかの基本的な心構えを教えてくれた。こちらは、外 の状況などを聞く。警察は、デモなどで撮った写真と逮捕されてから撮られた写 真を照合して警察車両を破壊したり機動隊に暴力を働いた者をわり出す作業をし ているらしい。18日にも大量逮捕に抗議してデモが続いていることを知る。韓 国の農民たちはほとんど獄中だ。それでも抗議のデモが起きている。香港の市民 もかなり抗議デモに参加しているという。

外の仲間から衣服の差入れがある。寒かったのでこれはとても助かった。警察官 に友人との面会を何度も要求する。「上司に言ってある」とか「アレンジ中だ」 とかいろいろ言って会わせない。夜11時過ぎだろうか、「皆帰ったよ」とい う。このときは頭に来た。「なぜ会わせない?」と聞くが要領を得ない。警察官 に「いつごろ釈放されるのか」を聞くが「上が決めることで我々にはわからな い。」としか言わない。勾留されている皆は、それぞれの仲間や大使館、領事館 などと接触して情報を得る。これらの情報をお互いに交換する。ボリビアに左派 政権が誕生したこととかもすぐ伝わった。各国の大使館や領事館からも人が来た り連絡があったりするようになる。日本領事館からも担当者が訪問してきた。飛 行機の時間に間に合うことは難しい、釈放は19日いっぱいかかるかもしれない と伝えられる。逮捕の不当性やコンクリートの床に座らされて飲まず食わずで半 日以上引きまわされたことなど、不当な扱いを指摘する。搭乗予定の航空券を キャンセルし、20日の航空券の新規の予約を依頼する。

房の中は、意外とにぎやかだ。Down Down WTOとかシュプレヒコールをあげた り、やたら元気で、いれかわりたちかわり電話をかけに房を出たりする。他方 で、寒さで体調をこわす人達もかなり出る。僕の房でも一人体調を壊して深夜病 院へ行く。

ほとんどの人たちが19日に出発する便を予約している。皆必死でなんとか飛行 機に間に合うように外に出られないかと努力するが、結局この日は留置場で一晩 を過ごす。寒くてなかなか眠れない。

ぼくの居た警察署だけでも、韓国、スペイン、フランス、インドネシア、東チ モール、スコットランド、米国とかなり多彩だ。全体では逮捕者は1200名ほ どになると思う。右の他、台湾、バングラディッシュ、タイなどからの参加者の 逮捕されており、逮捕者の国籍は世界各国に及んでいる。決して韓国農民のみの 運動ではなかった。こうしてぼくたちが逮捕され、18日にも大きな抗議デモが 起きたおかげで、メディアもじぶしぶ逮捕者が多数の国、地域にまたがることを 認めることになる。

警察官たちは英語はなんとかわかるが、それ以外はまったくわからない。コミュ ニケーションのとれない人達は大変だ。弁護士も要求しなければ会わせてもらえ ないようなので、なんとか皆がHKPAの弁護士に会えるようにする。ぼくと同室の 韓国の青年はなかなかすばらしいく、弁護士をみんなに会わせたり、他の英語の 判らない韓国の仲間との臨時の通訳役をやったりと見事な活躍ぶりだった。あと で知ったことだが、留置場は十数ヶ所におよび、場所によってはかなり厳しい監 視があり、女性の逮捕者のなかには殴られるなどの暴力を受けた者もいた。

19日午後、仲間が3名弁護士の付き添いもなく面会にきてくれた。何度も強硬 に要求したら面会させてくれたという。外ではどこに勾留されているのかわから ず救援に活動でかなり大変だったこと、夜遅くまでミーティングをして対応を議 論していることなど伝えられた。僕たちの逮捕に至る経緯も知られていないよう だったので、簡単に逮捕までの経緯を説明した。今後の連絡方法などを打ち合わ せて、10分の面会を終える。面会にきてくれるとホッとする。

夕方、全員釈放という報告が入る。それから釈放までにさらに2ー3時間かかる がさらにみんな元気になる。ぼくたちは、夜7時過ぎくらいだろうか、領事館か ら迎えの車が来て釈放された。その後すぐ他の人達もみな次々に釈放された。取 り調べなんてなかった。ようするに、令状なしで一時拘束できるという警察の権 力をフルに活用したにすぎない。容疑もあるようでない(証拠はないのだ)。と んでもなく腹が立つが、房で一晩過ごした韓国やスコットランドの若者とはとて も面白い話ができ、得がたい友情をもつことができた。

ぼくは警察署のすぐ目の前の地下鉄の駅で領事館の車から降ろしてもらい、駅の 公衆電話で小銭のある分で日本の何人かの人達に釈放を伝える。このとき、ぼく はまだ釈放されていない人達のなかに日本人がいることを知らなかった。勾留さ れつづけた十数名は金曜日に公判があると聞く。アムネスティが今回の逮捕、弾 圧を抗議する声明をだすなど香港警察の対応への批判がひろがっている。警察か ら暴力を受けた台湾の活動家が記者会見し、その模様が地元のテレビでも流され た。ぼくの知っている女性だったのでびっくり。彼女はアクティブなセックス ワーカーの活動家だ。

以上がおおよその経緯である。今回のWTOの闘争全体を振り返っての反省点や今 後どのように取り組むかといった問題は別途きちんと議論する必要がある。とり あえずは、事実関係の報告まで。

小倉利丸


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