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第4回 さようなら、清志郎!〜戦後を歩き抜けた愛と反逆のロッカー

 大型連休も真っ盛りの去る5月2日、闘病中だったロックシンガー忌野清志郎さんが死去した。享年58歳。文字通り、短くも熱い人生だった。

 忌野さんの音楽活動の芽は15歳頃にはすでに出ていたと言われるが、本格化したのは高校時代からである。1970年、RCサクセションとしてデビューしたのは19歳の頃。意外なことに、RCサクセションは最初はフォークグループとしてのスタートで、「かぐや姫」にも楽曲を提供していた。一時期はあの三浦友和さんもサポートメンバーのひとりだったというから驚いてしまう。

その後しばらくはフォークグループとしての活動だったが、みずからの指向や音楽性もあり、次第にロックへと梶を切る。筆者の私見だが、RCサクセションが早い段階でフォークからロックへ移行したのは正解だったと思う。なぜなら1970年代はフォーク全盛期で、すでに多くのフォークの“大家”が地位を固めていた時代に、後発組のRCサクセションが入り込むのは困難だったと思えるからだ。

それに対し、当時、日本人で本格的にロックに取り組んだ人はまだいなかった。わずかに1972年デビューの「サディスティック・ミカ・バンド」が活動していたが、ほとんどヒットを出せないまま、1975年に加藤和彦・ミカ夫妻の離婚により瓦解している。ちなみに加藤和彦さんといえば、「帰ってきたヨッパライ」で有名な「ザ・フォーク・クルセダーズ」の元メンバーである。「帰ってきたヨッパライ」が大ヒットし、多額の印税が転がり込んできた加藤さんが渡英してロックを覚え、帰国後に結成したのが「サディスティック・ミカ・バンド」だといわれている。

そんな中で、1980年に発表した「トランジスタ・ラジオ」「雨上がりの夜空に」が相次いで大ヒットし、RCサクセションはロック界でステータスを確立する。ガムを噛みながらテレビ出演するなどの「奇行」は時として物議も醸したが、それ以前に日本人ロックミュージシャンで確固たる地位を確立した人がいなかったこともあり、彼らの振る舞いがそのままロックミュージシャンとしての有り様だとして世間に認知されていくという幸運にも恵まれた。

「ロックには毒がなければいけない」が忌野さんの信条だったといわれている。1988年、RCサクセションのアルバム「COVERS」は、反原発ソングが収録されていたため発売中止騒動が起きた。当時所属していた東芝EMIの親会社・東芝が原発の部品を納入していたため、親会社を刺激したことが発売中止の原因といわれている。1989年、友人のミュージシャンに提供した楽曲がFM東京によって放送中止になると、忌野さんはすぐ「反撃」に出た。約1ヶ月後、フジテレビの生放送歌番組に出演した忌野さんは、自分の曲をメドレーにし、その途中にFM東京を「政治家の手先」などと罵倒する歌詞を組み込み、生放送の途中で歌うという荒技をやってのけたのである。録画放送であれば、「穏当でない」表現にはカットなどの編集で臨むテレビ局も、生放送だった上、曲の途中にその歌詞が組み込まれていたため為す術もなく、表現規制を行った放送局を公然と罵倒する歌がテレビで全国放送されてしまったのである。

このように、愛と反逆を示す忌野さんのエピソードには枚挙にいとまがないが、なかでも「反逆の清志郎」の真骨頂は1989年に結成された覆面パンクバンド「ザ・タイマーズ」だろう。このバンドは結成当初から全国の学園祭に予告なくゲリラ出演し、学園祭を暴動ライブに変えるなど、数々の実績を残してきた。メンバー全員が土木作業員の格好をしていたが、ヘルメットをかぶり、目にはサングラス、口を手ぬぐいで覆うスタイルはどことなく新左翼活動家を彷彿とさせるスタイルで、もし角材(ゲバ棒)を持たせたらすぐにでも警察や敵対党派と乱闘が始まりそうな危ない雰囲気を醸し出していた。建前上、ボーカリストは「忌野清志郎の知人」と紹介されていたが、あの独特の声と歌い方は、決して聞き間違えることなどあるはずのない、忌野さん本人だった。

「ザ・タイマーズ」は政治色の強い歌を次から次へと繰り出した。「大人たちが言い争ってる/原発や米や税金で争ってる/その間に目的を持った奴が着々と準備をしてる」と歌う「争いの河」を初めとして、税制批判、反核など自由自在だったが、なかでも、もっとも世間を騒がせたのはこの歌だろう。

『カプリオーレ』(ザ・タイマーズ/1989年)

足の速いカプリオーレ さすがのお前も 今日は走れない
すべてのハイウェイ 閉ざされた
誰かが年老いて 死んだという
国を挙げてのお葬式の日は 彼女のトラックも 走れない

この歌は、昭和天皇死去の前後、日本全土を覆い尽くしたあの異様な「自粛ムード」と「大喪の礼」を揶揄した歌である。これらの曲を収録したアルバムは、発売中止騒動に巻き込まれることもなく予定通りに発表されたが、「ザ・タイマーズ」は単なるお騒がせソングの羅列ではなく、優れた音楽性をも兼ね備えたバンドだった。その証拠に、「ザ・タイマーズ」でほとんど唯一の非政治的なラブソングである「デイドリーム・ビリーバー」(モンキーズの「デイドリーム」を日本語でカバーした曲)はエースコック社の「スーパーカップ」(若い男性向けの大盛りカップラーメン)のCMソングにもなったほどである。忌野さんの絶頂期は、実はこの頃ではなかったかと筆者は思っている。

その後も、1999年に発表した「君が代ロック」が再び発売中止騒動に巻き込まれるなど、忌野さんの周囲にはいつも騒動がついて回った。1999年といえば国旗国歌法制定の年だが、これを単なる偶然と見るのはあまりにも忌野さんを理解していない。昭和天皇が死去した年に『カプリオーレ』を発表したように、彼は国旗国歌法制定の年を狙って、あえて論議を巻き起こすために仕掛けてきたのだ。

 2006年7月、忌野さんは、喉頭癌であることを発表し、音楽活動を休止する。摘出手術をすれば声が出なくなると医師に宣告されたことから、手術を拒否して放射線治療に当たってきた。声を失って生き延びるくらいなら生涯、現役でいたい――人生のほとんどを音楽に捧げてきた彼らしい、潔い生き様だった。

 愛と反逆の「キヨシロー」の歌を筆者が初めて聴いたのは、1991年に発表されたソロシングル「パパの歌」だった。確か、建設会社のCMソングだったと思う。その後、時代をさかのぼるように「ザ・タイマーズ」やRCサクセションの歌を聴き、筆者にとって「キヨシロー」は忘れられないアーティストになった。それだけに、癌との闘病の末の早すぎる最期には言葉もなく、謹んでご冥福をお祈りする。

 キヨシロー、大丈夫だ。ちゃんと僕らは愛し合ってる。目の前の大切な人はもちろん、世界中の労働者や民衆、戦争や飢餓や環境破壊に苦しむすべての人も、みんな愛し合ってるぜ。愛を知らないのは、金だけがすべてと信じ込んでいる一部の愚かな奴らだけだ。だから残った僕たちのことは心配しないでくれ。それよりそっちの世界でも新しい曲をどんどん作ってくれ。キヨシローの大嫌いな戦争と弱肉強食の世界に日本を変えた瀬島龍三などの大悪人がそっちにいるから、歌で説教してやってくれ。それから、何十年後か、僕がそっちの世界に行ったら僕にギターを教えてほしい。どれも厚かましいお願いばかりで申し訳ないが、もう一度キヨシローの曲をちゃんと聴いてみるから、それに免じて許してほしい。

 最後に、筆者がもっともキヨシローらしいと思う痛快な歌をご紹介しよう。きっと、皆さんの職場や地域、そして闘っている敵のなかにもこういう人がいるはずである。

 『偉人のうた』(ザ・タイマーズ)

 もしも僕が偉くなったなら 偉くない人の邪魔をしたりしないさ
 もしも僕が偉くなったなら 偉くない人をバカにしたりしないさ
 もしも僕が偉くなったなら 偉い人だけとつるんだりしないさ
 もしも僕が偉くなったなら 偉くない人たちや 冴えない人たちを忘れないさ
 もしも僕が偉くなったなら 君が歌う歌を 止めたりしないさ
 当たり前だろう そんな権利はないさ いくら偉い人でも
 当たり前だろう そんな権利はないさ いくら偉い人でも
 当たり前だろう どういうつもりなんだろう どこのどいつなんだろう
 当たり前のことすら よくわからない 偉い人

 (黒鉄好・2009年5月23日)


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