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高空上の看護師、民主労総初の女性副委員長

[イシュー:女性は労組委員長してはいけませんか?]パク・ムンジン嶺南大医療院解雇労働者インタビュー

ユン・ジヨン、ウン・ヘジン記者 2020.01.02 10:49

クリスマスの2日前の去る12月23日。 坑ガン闘病中のキム・ジンスク民主労総釜山本部指導委員が、長い歩みを始めた。 キム指導委員は自分のSNSに 「私の友人、パク・ムンジンが、私の古くからの友人、パク・ムンジンが 嶺南大医療院の屋上で176日間いるので、 病んでいるのも贅沢なので歩いてパク・ムンジンのところに行きます」 という文を残した。 釜山市の湖浦から大邱の嶺南大医療院まで、 100kmを軽く越える道を歩いてパク・ムンジンに会いに行くということだった。

彼女の古い友人、パク・ムンジンは、嶺南大医療院解雇労働者だ。 2019年7月1日、労組弾圧の真相調査と解雇者復職などを要求して嶺南大医療院の屋上に上がった。 高さ70mの病院の屋上にテントを張って、その年の夏と冬を越えた。 12月23日は彼女が高空籠城に突入してから176日目になる日だった。

[出処:キム・ハンジュ記者]

言う事がまっとうすぎる看護師、入社2年で労組委員長に

「それなりに耐えています。 冬になったので肩と腰が少し痛いぐらいですか」。 半年を越える高空籠城で、からだがかなり痛んだろうに、 パク・ムンジン保健医療労組指導委員はたいしたことでないかのように 大丈夫だとだけ言った。 ぶつぶつ切れる電話の向こう側の声は快活だ。 今年で労働運動31年目の女性労働者、パク・ムンジンは 変わることなく熱く、しっかりしていた。

ナイチンゲールの伝記を読んで看護師を夢見た青年パク・ムンジンは、 1988年代に嶺南大医療院の看護師になった。 アフリカに奉仕活動に行こうとして毎日心が浮き立っていた。 だが20代後半の彼女がぶつかった病院の現場は、考えていたよりも はるかに苛酷で不当だった。 33年前にも病院内に存在していた「ヤキ」文化、 先後輩間の軍隊式位階秩序と、医師や管理者の横暴、 それら全ては耐え難かった。 先輩の言葉は法であり、真理であり、後輩の看護師はいつも臆していた。 看護師パク・ムンジンはあえて耐えることも、臆することもなかった。 いつも言う事がまっとうすぎる話をし、 早々と「生意気な後輩」だとされた。 先輩には「生意気」な存在だったが、 同期や年下にとっては「労組委員長」級だった。 だから労組委員長に推戴され、1990年、突然嶺南大医療院労組の委員長になった。 入社してたった2年のことだった。 その時、パク・ムンジン氏は知らなかった。 アフリカでの医療奉仕活動に行こうとしていた彼女の夢が、 何と30年以上延期されるとは。

「悪法は破って破る」

1995年、労組は病院労連(現保健医療労組)の共同交渉要求案を持って 病院と賃金および団体協約交渉を始めた。 人員補充と医療民主化、賃上げ、ナイト(夜勤務)制限などの要求条件を掲げた。 だが交渉はいつも混乱し、結局労組はストライキに突入した。 病院は労働委員会に職権仲裁を要請して対抗した。 当時は、労使のどちらかが職権仲裁を要請すれば、争議行為が禁止された。 また、労働委員会が出した仲裁案は団体協約と同じ水準の効力を発揮した。 職権仲裁制度は労働者のストライキを阻止する政府と資本の巨大な武器であった。 だが労働委の仲裁案は使用者側に偏向的で、 労組としては受け入れられない案だった。 パク・ムンジン委員長は仲裁案を省みることもなかった。 熱くなっているストライキに冷水を浴びせることはできなかった。 特に彼女には「悪法は破って破る」という覇気と意地があった。 仲裁案が出てきた以上、ストライキはもはや「合法」ではなかったが、 彼らは「正当なストライキ」を続けることにした。ストライキは何と50日間続いた。

その年の8月18日未明、警察公権力が投入された。 病院でストライキ座り込みを続けていた300余人の女性労働者たちは、 公権力の投入を防がなければと考えた。 それだけ彼女らは自身満々で、また透徹していた。 警察は彼女らの髪をつかみ、服を破り、投げつけ、タバコの火を押し付けた。 無慈悲な鎮圧にも彼女らは揺れなかった。 公権力投入以後、またストライキを組織し、実際に20日間の再ストライキを成功させた。

民主労総初の女性部委員長

1995年のストライキ当時、パク・ムンジン氏は嶺南大医療院労組委員長と 病院労連委員長を兼任していた。 病院労連は現保健医療労組の前身で、 90余りの病院事業場労働者たちが所属する労働団体であった。 嶺南大医療院に労組を結成してからせいぜい5年で、 病院労連の役員と中央執行委員はパク・ムンジン氏を病院労連委員長に推戴した。 35の年だった。

そして35の年齢で彼女は監獄に閉じ込められた。 ストライキ鎮圧当時、警察に連行された後、すぐに拘束された。 そして数か月後、彼女は監獄の中で民主労総が発足したという事実と、 彼女が民主労総初代副委員長に選出されたという知らせを聞いた。 民主労総の初の女性部委員長だった。

彼女が釈放されたのは1996年12月26日早朝。 新韓国党の議員が国会の本会議場に入って7分で労働法と安全企画部法をかっぱらい通過させたという知らせが伝えられた。 その日から翌年の97年1月18日まで。 民主労総は24日間の労改闘(労働法改正闘争)ストライキを行った。 1948年に大韓民国政府樹立してから50年目の初の政治ゼネストだった。

パク・ムンジン副委員長をはじめとする役員は、明洞聖堂で座り込みを始めた。 当時、ゼネストを主導したという理由で検察はパク・ムンジン副委員長をはじめ、 民主労総の指導部に拘束令状を請求した。 手配状態になったパク・ムンジン副委員長は2か月以上、 明洞聖堂の座込場から出られなかった。 ひとりで女性だった彼女が、男性幹部と狭いテントで一緒に座り込みをするというのは、 決して容易なことではなかった。 寒く不便な生活が再び続いた。 だが振り返ると二度と戻らない夢のような時間だった。 ゼネストの期間中、民主労総の組合員の81%が1回以上ストライキに参加した。 1日平均5万人がデモを行い、約30日間で150万人が集会に参加した。 パク・ムンジン指導委員はその時期を 「とても生命力があって、弾力的で、美しかった」と回想した。

高空籠城、そして最後の献身

90年代、病院の女性労働者たちは労組を結成して多くのことを変えた。 当時だけでも看護師の定年は28歳だった。 結婚と同時に職場を辞めなければならない「結婚退職制」は、 看護師も例外でなかった。 はなはだしくは秘密裏に結婚をする看護師もいた。 労組は結婚退職制をはじめとする定年問題を解決し、 生理休暇制争奪のためにも闘争した。 看護師を「ミスパク」、「ミスキム」と呼ぶような呼称を変えるためにも努力した。 今は看護師だけでなく、病院内のすべての労働者に「先生」という呼称が使われる。

医療公共性の争奪のための戦いにも熱情的だった。 組合員たちは、金がなくて患者が病院に行けない社会になってはいけないと考えた。 それで彼女にらは医療制度改革闘争をはじめ、 過剰診療を禁止して患者人権を保護するさまざまな措置を争奪した。 保護者ベッドとシャワー室までも実は労組が勝ち取ったものだった。

パク・ムンジン指導委員が今年の7月、再び高空籠城に上がった理由は、 30年間の青春を捧げた労組が破壊されたためだった。 2006年、嶺南大医療院は労組破壊専門労務法人の 「創造コンサルティング」と契約を結んだ。 当時、創造コンサルティングの労組破壊シナリオにより、 950人だった組合員が70人に減った。 パク・ムンジン指導委員をはじめ、 ソン・ヨンスク、クァク・スンボクの三人の労働者は解雇された。 年数にすれば15年間。 労組破壊をめぐる至難な戦いが続いている。 「今でも労組活動をしたければ、暴力と解雇、拘束を甘受しなければなりません。 これだけは本当になくさなければなりません。 解雇で労働者の人生が破綻する世の中をもうなくしたい」。 定年2年を控えて高空に上がった彼女は、30年の労働運動の最後の献身を尽くしている。

原文(チャムセサン/ワーカーズ)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2020-01-10 06:42:53 / Last modified on 2020-01-10 06:42:54 Copyright: Default

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