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News Item 20170902
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スペックは一生積むものだという

[ワーカーズ イシュー] 1997.1121.20000.982

キム・ハンジュ、パク・タソル、ユン・ジヨン記者 2017.08.30 16:28

不動産仲介業者ソン・ユンスク

不動産不敗神話に力づけられて公認仲介士になった。 不動産業を開業した後、それなりにいい暮らしをしていた。 率直に言えばこれまで経験した業種と職種の中で一番良かった。 財政的にも、精神的にも、肉体的にも。

ソン・ユンスク(58)氏に不動産を推薦した人は姉だった。 初めはまったく感服できなかった。 他人の金を掠め取るようなものじゃないか。 ソン氏の反応に姉は面と向かって非難した。 今はご飯が冷たいか熱いかを考えている時かと。 その通りだった。 がめつく暮らさないわけではないが、ソン氏の人生はいつも綱渡りのように不安だった。 毎日のように大きくなる三人の子供も目に浮かんだ。 気持ちをぐっと引き締めて塾と家を行き来して公認仲介士試験の準備をした。 その時、彼女の年齢は四十七だった。 思春期に入った子供たちに悪いようで苦しかった。 本との戦いよりも罪悪感との戦いの方が大変だった。 時間をはやく短縮しなければならなかった。

結局一年で資格証明試験に合格した。 もう10年も前の話だ。 事実、ソン氏が成人になった後、一番長く身を置いていたのは韓国通信(現KT)だった。 彼女は本来、声で暮らす人だった。 20代の始めから40代の半ばまで、23年間ずっと韓国通信で交換員の仕事をした。 初めは一生ここで暮らすと思った。 だが時間が経つほど、会社は彼女の素朴な望みを「欲」だと非難した。

穏やかだったソン氏の人生を揺るがしたのは、IMF外国為替危機が吹き荒れてからだった。 経済危機の陰が濃厚に垂れこめていた1998年。 韓国通信はあくらつな構造調整で名を馳せた。 その年、1千人を削減して、3年で1万人の労働者を退出させた。 ソン氏は社内カップルだった。 会社で夫と会って、恋愛をして、結婚までした。 夫婦社員は退出の標的だった。 特に会社は夫婦社員のあち女性労働者を追い出すために血眼になっていた。 「二人のうち1人はやめなければならない」という脅迫が始まり、 それでもだめなら夫の昇進をエサに女子社員の退職を勧めた。

ソン氏は粘ることにした。 会社に屈服した人々は心が弱い人々だと考えることにした。 そうするには過激にならなければならなかった。 さまざまな会社の嫌がらせと激しく戦って対立し。 対立が繰り返されると嫌がらせも消えていった。 初めは会社が諦めたと思っていた。 だが会社はもっと洗練された体系的な嫌がらせを準備していた。 会社はソン氏の業務をアウトソーシングし始めた。 交換員だった同僚がアウトソーシング業者に追い出された。 ソン氏は今度も粘った。 絶対に出て行かないと約束した。 それだけ排除され、疎外される時間に耐えなければならなかった。 残った人々は一人で食事をして、他人と言葉もかわせなかった。

ソン氏の業務はいつも変わった。 決まった業務なく、与えられた通りに仕事をしなければならなかった。 構造調整3年目の2003年。 ソン氏は会社で頑張るのが嫌になった。 民営化以後、首切りに血眼になっている会社に何のビジョンがあるのかと思った。 結局、会社が勝った。 「あなたは最後まで頑張って」。 夫を残してソン氏は会社を辞めた。 何の準備もないままだった。

三人の子供を育てるには、どうしても共稼ぎをしなければならなかった。 だが再就職は事実上不可能だった。 それで商売することを決心した。 コプチャンチョンゴルの食堂をすることにした。 自営業者はあふれていたし、町には食堂があふれていた。 ある程度のノウハウではうまくいくのは難しかった。 売れた食べ物より捨てる食べ物の方が多かった。 ごみ箱に食べ物を入れるたびに、必死に粘った23年の歳月を考えて、気持ちを引き締めた。 だが赤字幅が増えるのはどうしようもなかった。 結局、損を抱えたまま、2年で食堂をたたんだ。

ソン氏はそれでも自分は運が良いケースだと考えた。 さまざまな迂余曲折を体験したし、諦めたものも多かったが、 それでも今はそれなりに安定した生活をしているからだ。 一緒に働いていた交換員の中には女性家長もいて、 夫の事業の借金を返すために退職金を受け取った人もいた。 彼らが今どのように暮らしているのかを考えれば、途方に暮れる。

夫はさまざまな侮辱を受けながらも、会社で粘った。 技術職だった彼の業務は何度も変わり、生まれて初めて営業という仕事もした。 苦しむ彼に「私も孤軍奮闘している」と厳しい話をした。 この前退職をした夫に「ご苦労さま、もうそろそろ休んで」と言ってやりたかった。 だが私たちの人生は相変らず厳しく危険だった。 そしてまだ耐え忍ばなければならない時間はあまりにも長い。

大企業対外活動挑戦者、シン・ヒョンミン

すでに三回目の落第だった。 大学4年のシン・ヒョンミン(26、仮名)氏は深いため息をつく。 3人1組で行われた最終面接で佗びしく泣いたある志願者が何度も思い出された。 彼はこの前も落ちたのに、今度は何としても合格しなければならず、面接官に泣きながら訴えた。 私もそうしていれば良かったのか。 3回挑戦に失敗したシン氏も、明らかに余裕がある状況ではない。 シン氏の涙ぐましい挑戦記は、大企業や公企業採用のようなものではなかった。 企業対外活動の受験はいつもシン氏の足を引っ張った。

対外活動とは、趣味や就職活動などのために人々と、さまざまな分野の集まりを持つことを称する。 たとえば大学生記者団やサポーター、マーケット、広報大使などの活動が主軸になる。 趣旨や内容だけをみれば、悪くない趣味活動の一環のようだが、 シン氏をはじめとする別名「就職準備生」は対外活動に命をかける。 履歴書に一行を書き込むためだ。 こうした形の「履歴書一行」の戦いはかなり激しい。 「何かの対外活動の競争率が大企業入社の競争率になるんです」。 シン・ヒョンミン氏がむなしく笑った。

事実、シン氏は企業対外活動には特に興味がない。 ネズミ尻尾のようなおやつ代で菓子のかけらを買って食べながら、情熱を捧げることがとても不満だった。 だが対外活動が一つの就職コースになってしまった以上、理由もなく無視するのも容易ではなかった。 彼が最近落ちた対外活動は、有名公企業の対外活動だった。 流通業界に就職したい彼としては気乗りのしない活動だった。 だが企業は経歴職しか選ばないので、新入は何とかして経歴を積まなければならず、 経歴を積む所は対外活動しかなかった。 そして対外活動の履歴がある人だけ再び対外活動ができる機会を得た。

シン氏は大学で経営学科中国語を勉強している。 単位もかなり高いほうだ。 前の学期には成績優秀奨学金も受けた。 だがこの程度のスペックでは到底望めないということは誰でも知っている。 流通業界に就職するためにはTOEIC、TOEFLやHSK(漢語水平考試)程度はマスターしていなければならない。 そして、こうした種類の試験は「情報力」が勝負だ。 月30万ウォンを越える塾では受講生に出題傾向分析を通した体系的なデータを提供する。

シン氏は他の人より機会が少なかった。 彼は登録金を稼ぐためにデパートのアルバイトをした。 対外活動をするには時間が足りず、語学能力試験を受けるには金が足りなかった。 単位も、対外活動も、語学能力試験成績も、すべて金と時間に比例した。

シン氏は小さな時から自分の人生が他人より不利だということを悟った。 小学校に入学する頃、外国為替危機が起きて内部の事情が急激に苦しくなった。 自家所有だったヘンシン洞の家も、お父さん自慢の自動車も消えた。 お父さんはタクシーの運転を、お母さんは服を切り売りして離婚書類にはんこを押した。 お母さんの衣料品店はますます大型スーパーとデパートに押された。 結局お母さんはホームプラスとデパートの雇用を転々とした。

シン氏は高等学校を卒業する前に登録金を稼がなければならなかった。 できることは多くなかった。 その時からお母さんと一緒にデパートに出勤し始めた。 現在彼がデパートのアルバイトで稼ぐ収入は月47万ウォン程度だ。 高い登録金と低い就職率、それよりさらに低い最低賃金。 よほどのことがなければ困窮の耐性はできない。 彼に与えられた生活の苦しさはいつも我慢できないほどだ。

原文(ワーカーズ/チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2017-09-10 23:43:31 / Last modified on 2017-09-10 23:43:33 Copyright: Default

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