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コロナ19時代の集会禁止

[質問]集会は私たちを危険に陥れるか

ランヒ(人権運動空間弓) 2020.09.23 09:27

コロナ19ウイルスは皆の人生を取り巻き、馴染みのない状況を繰り広げている。 われわれは一度も解いたことがない問題に手探りで答えを探そうとするが、 問題はずっと続く。当惑して紛らわしい。 コロナ19自体だけでも難しいのに、 コロナ19から派生する問題は、生活の全方向にわたってもうひとつの質問を投げる。 だから人権活動家はコロナ19の危機は生命と安全の危機を越え、 社会・経済的危機であり、人権の危機だと話す。 だから感染病の対応は生命と安全をはじめ、 人権を基盤とし、人権を尊重する対応にならなければならないと主張する。

さまざまな人権問題の中でも私が悩む主題は集会だ。 事実、コロナ以前にも集会の自由はあまり保障されていなかった。 だがコロナ時代の集会は、今では違う次元の問題になった。 集会が市民の安全を威嚇することになり、 防疫のために集会禁止が当然だと受け止められる。 そうするうちにコロナで生活の危機にある人々は 「この時局に集会だなんて」という非難に萎縮して、 まともに集会ができない状況になった。 それでコロナで経営が難しいとして解雇された労働者たちにも、 用役に家を撤去されて家にいることができない撤去民にも、 一度でも集会をすることはとても難しい問題になった。

しかし集会の自由を保障しろと叫ぶ人々が現れた。 9月11日、自由民主国民運動などの保守団体は、 ソウル地方警察庁長官と鍾路警察署長、鍾路警察署警備課長が 「光化門一帯すべての集会を禁止して国民の集会結社の自由を抑圧した」と告発するという記者会見をした。 果たして彼らは本当に集会の自由のための闘争をしようとしているのか? 人々は、私が主張する集会の自由と彼らの主張を同じだと考えるだろうか? 私の悩みはさらに難しい問題の中に陥った。

[出処:チャムセサン資料写真]

集会は私たちを危険に陥れるのか

コロナ19の初期から集会は禁止された。 2月21日、ソウル市が光化門広場、ソウル広場、清渓広場と周辺車道と歩道に集会禁止を通知したのを始め、 全国の各地方自治体に拡張されて禁止場所がますます増えた。 地方自治体の集会禁止告示は主な集会場所や地域全体を対象に出され、 例外なくすべての集会を禁止して、禁止期間はほとんど終了日が明示されないまま、 現在まで続いている。

政府のこれらの措置は集会が公衆の保健を威嚇するという認識を持たせるのに充分だった。 こうした渦中で8月15日の光化門集会は、コロナ19の全国的拡散の主犯と指定された。 市民は青瓦台の国民請願掲示板に8・15光化門集会を許可した判事の解任を請願し、 与党は判事の名前を付けた法を発議した。 コロナ19が続く限り、集会はしてはいけない行動なのだろうか? 集会がわれわれを危険に陥れるのだろうか?

まず8月15日前後の時間を調べよう。 2月から教会からの小規模な感染は続いており、 8月に入ると教会で2週間に193人の患者が発生した。 ところが教会を主軸とする集会が光化門一帯で予定され、 ソウル市と警察が集会を禁止したが、集会は開かれた。 集会がコロナ19を全国的に拡散するために影響したのは事実だが、 集会自体が原因であることと、集会での行為が原因であることは別の問題だ。

感染病の特徴上、接触と密集、密閉が伝播の原因だ。 教会で感染が発生したのは、密閉された場所でマスクを使わずに歌い、祈祷をする行為が伝播を容易にした。 光化門集会は野外だったが、マスクを使わず、密接な接触があった。 最大の問題は、彼らがコロナ19そのものを否定して防疫を拒否した点だ。 政府に反対する政治的入場文で事実と異なる内容を伝播して、 参加者だけでなく他の市民までを危険に落としいれた。 彼らの行為は批判されなければならないが、 その行動が集会という方式で表出されたからといって、 集会自体が危険だということはできない。 同日、民主労総の2千人が集まって記者会見を開いたが、 この集会でコロナ19に感染した人はいない。 民主労総は現場で参加者にマスクとブラインドなどを配布して発熱チェックをするなど、 安全な集会のための措置を取った。

防疫と集会は共存できるだろうか

それでもこうした質問があるかもしれない。 感染の危険がある人々が参加する集会は禁止しなければならないのではないか? ソウル市はそうした憂慮により、8月15日に開催が予定されたすべての集会を禁止したが、 ソウル行政法院はこのうち2つの集会を認めることを決定した。 裁判所の判断の重要な基準は、集会の自由という基本権の侵害を最小化して、 防疫を両立させることだった。

裁判所は「感染病予防のために集会を制限する場合にも、 集会時間、規模などとは無関係に一定の地域内の集会を全面的に禁止することは過度な制限に該当し、許されない」と明らかにした。 また「制限地域の集会でも、集会の時間、規模、方法などを 個別的、具体的に見て感染病の予防および管理と調和を作り出しつつ、 必要最小限の範囲で集会を制限しなければならない」と付け加えた。 裁判所は禁止処分の執行停止を申請した100人の集会に対し、 空間的な距離をおくことが可能で、 参加者がマスクの着用と手洗浄など防疫規則遵守を遵守すれば 集会を認めるべきと決定した。 事実、この内容はこれまでコロナ19の状況でも集会の権利は保障すべきで、 防疫も集会も可能でなければならないという人権団体の主張と違わない。

問題は、約束した防疫指針を破り、100人ではなく集会を禁止された人たちが 認められた集会の場所に押しかけたことだが、 これをあらかじめ裁判所が判断しなければならないのかどうかだ。 判事は明確ではない未来の可能性だけで基本権を制限する権限は持っていない。 防疫の約束が嘘なのか、100人の集会が実は10万の集会を念頭に置いているのか、 単に疑いだけで集会を禁止することはできない。 もし実際の集会で公衆保健の危険になる状況が発生すれば、 集示法などによる警察の措置が可能なので判断をしなかったのだろう。 以前、警察が特定の集会に対して不法が予想されるからと言って禁止したり、 過去に不法集会の前歴があるという理由だけで禁止することを批判したのと同じだ。

9月21日に富川市が禁止した集会が仁川地方裁判所の判決で認められ、開かれた。 仁川地方裁判所は光復節集会の判決よりさらに具体的な防疫指針を提示し、 最近のソウルと仁川地域のコロナ状況を考慮して判断した。 この判決も 「行政当局は集会の規模と場所、方法などを制限する裁量を持つが、 その制限は感染病予防のために最低限の範囲内でなされなければならない」 という点を中心に置いた。 集会の主催側は裁判所が提示した防疫条件を遵守し、摩擦なく終えた。

集会をめぐる緊張と対立、本当の問題は何か

人権活動家たちは集会を禁止するソウル市庁を訪問し、 一緒に防疫と集会の権利を保障する方法を見つける努力をしようと提案したが、 一考の価値もないかのように断わられた。 多分、行政便宜的な方式は、集会に対する措置だけではなかった。 防疫措置に市民の協調を求めるというが、 政府の決定をただ受け入れろということと違わない。 強制性ある措置に対し、市民の受容性を高めようとするなら、 恐怖を高めることが効果的だ。 集会に対する恐怖を高めたように、 ソウル市はマスク着用義務を強調して公開した 「どのマスクを使いますか?」のポスターも同じだ。 マスクを着用しなければ19重症患者になるかもしれないという警告メッセージは、 感染の責任を個人に問い、患者を非難させる。

8・15集会の後に出てきた共に民主党の李元旭(イ・ウォノク)議員の 「パク・ヒョンスン禁止法」は、判事の名前を付けて判事に責任を問うと同時に 集会を禁止するという法案で、集会を問題の原因にする。 共に民主党の李秀真(イ・スジン)議員も三権分立に違反して 行政官庁の権限乱用に対抗さえできなくする改正案を出して、 やはり集会が問題であるかのようにした。 国民の怒りと恐怖を元肥にして政治的に利用し、 権力の権限を高めても基本権は眼中にもない。 批判すべき行動と守るべき価値の区分をなくした。

毎日発表されるコロナ19確診者の数を確認しながら、 感染病の危険がどの程度なのかが計られるが、 その数字の後に生活の危機にある人々はよく見えない。 コロナの危機は確診者の数だけにあるのではなく、 現在を生きている人々にどんな未来があるのかだ。 コロナ19によって危機にある人々が、 現在の問題に対して社会的な解決と改善を要求する声をあげる空間が消えた。 防疫が善で集会は悪であるかのように認識され、 集会は基本権なのに権利行使が切実に必要な人々が防疫を害する人と指定される。 彼らの声を削除して、われわれはどんな未来を作れるのだろうか? 政府はコロナ状況の長期化に備え、 経済と防疫をどちらも生かすバランスが取れた政策を推進すると明らかにした。 コロナが長期化すれば経済だけが問題ではないが、 なぜ人権と防疫が共に行く道を探すと言わないのか? 市民が互いに協力して、防疫と共に人間を尊重する生活の回復のために努力しようというメッセージを投げる政治はなぜないのか?

コロナ19による危機で見えた多様な問題の原因と解決を個人に転嫁するのではなく、 国家が責任を持って体制と制度で補完する時、 われわれはより良い社会を想像することができる。 この時期をともに暮らし、耐えているすべての人が物理的に距離をおいても、 互いの苦痛に社会的に連帯できてこそ、 互いが体験する不正に共に抵抗できてこそ、 コロナ19以後の人生は可能なのかもしれない。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2020-09-29 17:38:37 / Last modified on 2020-09-29 17:38:39 Copyright: Default

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