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LNJ Logo フィールドワーク参加報告 : 足尾鉱毒事件の現場を訪ねる
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足尾鉱毒事件は今も続いている〜レイバーネットフィールドワークに参加して

志真 斗美恵

 5月31日、土砂降りの雨の中、集合場所の東京駅八重洲中央口に向かった。すでに乱鬼龍さんと笠原真弓さんが、案内プレートをもって歩いていた。集合時間の8時半前には参加者全員が集まる。半数以上が私には初めての方。レンタカーの到着を待って、運転手さんも含め13人で出発。1泊2日の行程の開始だ。

 まず佐野市郷土博物館に向かう。博物館前で、2日間ガイドをされる坂原辰男さんと合流。坂原さんは「谷中村の遺跡を守る会」等で長年活動されている方。地図・年表の付いた16ページのパンフレット「田中正造と足尾鉱毒事件を歩く」を作ってくださった。

 佐野市博物館前庭には袴をつけた田中正造の大きな像がある。入ると真正面は「田中正造展示室」。草鞋で村を回った等身大の正造の像(写真)、そして地図がある。天皇への直訴状(1901年)の巻物(レプリカ)や遺品も展示されている。数万人が集まったという1913年の葬儀の写真もある。

 午後には渡良瀬遊水地へ。ここでは坂原さんだけでなく、「谷中村の遺跡を守る会」の方々3人が待っておられ、説明を受けながら歩く。アシやヨシ、桑の大木から実をとって食べたり、小鳥の鳴き声を聞きながら谷中村の跡地をめぐる。役場や神社・寺院の跡、墓も並んでいる。私たちが歩いたのは、ほんの一部に過ぎない。土地収用法適用による強制執行で移転させられた谷中村の広さに改めて驚く。

 「足尾鉱毒事件展示資料室」は太田市の図書館も入った文化施設・学習センターの2階にあった。ここで丸木位里・俊夫妻が描いた「足尾鉱毒の図」を見られると私は期待していた。6枚(各180僉720僉砲垢戮討療玄┐あるとは思っていなかったが、行きの小型バスの中で、坂原さんから、展示が減り1枚になってしまったと話され、少々がっかりした。展示されていたのは、「第1部・足尾銅山」。「煙突から放出される亜硫酸ガス、渡良瀬川に排水される鉱毒、過酷な状態で働く坑夫、鉱害に苦しむ足尾銅山山元の農民の姿とその光景を目の当たりにする田中正造」。なぜ「足尾鉱毒の図」は太田市にあるのか? 栃木県岩舟町の篤志家・山中鹿之助が丸木夫妻に依頼・完成した図を渡良瀬川鉱毒根絶太田期成同盟会会長・板橋明治を介して太田市に寄贈された。

 小口一郎は足尾鉱毒事件の連作版画を描いた。そのうち1枚だけがここに展示されていた。「野に叫ぶ人々」(1969発表)、「鉱毒に追われて」(1974発表)、「盤圧に耐えて」(1976発表)の3つの連作がまとめて展示されたのは、昨年の栃木県立美術館が初めてだった。私は、丸木夫妻と小口一郎による足尾鉱毒事件を描いた全作品の展示を希望している。

 「足尾鉱毒事件展示資料室」で、渡良瀬川鉱毒根絶太田期成同盟会の仕事を見たあと、太田市毛里田にある「祈念鉱毒根絶碑」の場所に行った。100年にわたって鉱毒に苦しみ、根絶を願ってきた農民たちの運動によって1974年に初めて古河鉱業に加害を認めさせた。その運動のリーダーが板橋明治であった。個人の名前や像を残す事に私は賛成でない。田中正造の死後、鉱害の責任が古河鉱業にあることを認めさせたながい地道な闘いがあったことを、しかし、この碑(1977年建立)は知らせている。貴重なものだと思う。

 桐生にある、かつての「おきや」をそのままGEST HOUSEにした宿と駅前にあるビジネスホテルの2か所に宿泊先は分かれた。全員が〈おきや〉で夕食をとったあと、坂原さんの「鉱毒事件の歴史と堆積場の問題」のレクチャーをきいた。

 二日目は、足尾銅山を訪ねる。かつて繁栄した足尾の町だが、いまは店一軒なく、朝コンビニでそれぞれが用意した昼食を寺の境内で食べた。目の前は、精錬所の廃墟だ。

 精錬所は閉鎖されたが、その鉱毒は現在に至るまで続いている。鉱毒によってはげ山になったところに植樹を続けている人たちがいる。はげ山は緑によみがえりつつある。私たちも1人1本植樹した。

 だが、堆積場とその下部は、いまも草木1本生えていない。堆積場とは、炭鉱のボタヤマのようなもの。野ざらしで、そこからは、いまも鉱毒が出続けている。洪水の危険もある。足尾鉱毒は終ってはいない。現在も続いている。

 午後から行った「足尾古河記念館」は、足尾が繁栄していた時を懐かしんでいると思われる施設だった。かつてのトロッコも展示され、ガソリンで動く軽便鉄道にも乗れる。足尾に関連して澁澤栄一の写真もかかげられ、讃えられている。ちょっと怪訝に思った。

 クライマックスは、朝鮮人犠牲者慰霊碑と中国人犠牲者慰霊碑。朝鮮人犠牲者慰霊碑は、足尾鉱山に強制連行されてきた朝鮮人の慰霊碑。道端の森の一角に、一本の角材が建てられ文字が書かれている。塔婆もある。生花が供えられていた。中国人犠牲者慰霊碑は、石で作られた背丈の倍以上の大きく立派なものだった。日中国交回復直後に作られたという。

 このフィールドワークで、明治の初年に始まった足尾鉱毒事件の歴史がわかり、今も継続している問題であることがよくわかった。そして、現在も闘っている人びとがいる。足尾の鉱毒は、ひろがっている。貴重な体験ができたフィールドワークだった。下見までして準備・計画してくださった根岸恵子さんはじめ多くの方々にあらためて感謝します。


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