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侵略者あるいは鬼の末裔として(4) ―日本人は中国・朝鮮で何をしたのか<その3>
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侵略者あるいは鬼の末裔として(4)

――日本人は中国・朝鮮で何をしたのか<その3>――
小泉雅英

「日本人は中国・朝鮮で何をしたのか」と問う時、前回までの事項の他に、「万人坑」、「三光作戦」、「日本軍による性犯罪」、「731部隊」、「南京事件」など、絶対に外せない事項がいくつも残っている。それぞれ大きな問題であり、全てにふれることなどできないが、何回かに分けて、最小限のことだけは記しておきたい。今回は未だ広く知られていない「万人坑」について確認する。

 

万人坑(まんにんこう)

万人坑とは、「ヒト捨て場」である。人間を「廃棄物(ゴミ)」のように捨てる場とは、いったい何なのか。どういうプロセスを経て、そのようなことができるというのか。「犠牲者の多くは、炭鉱や鉄鉱などの鉱山や軍事要塞や巨大ダムなどの土建工事現場などで強制労働させられ、主に過労と飢えにより衰弱死(過労死)させられた中国人であり、主要な「犯人」は日本の民間企業だ」(*1)。軍隊による虐殺(「平頂山事件」など)の結果できた万人坑もあるが、民間企業によるものが圧倒的に多い。一つの穴に約1万人の身体が積み重ねられ、万人坑となった。日本軍による侵略の拡大に伴い、関連企業が各地で操業し、万人坑も増えていった。「沙山万人坑」(内蒙古自治区ハイラル)のように、野ざらしのまま放置されている所もあるし(*2)、土が堆積し、痕跡も見えなくなった「万人坑」もあるという。

 

■大石橋「虎石溝万人坑」(遼寧省)

「万人坑」が日本で広く知られるようになったのは、本多勝一『中国の旅』によってだろう。彼が1970年代初めに紹介した「万人坑」は、大石橋にあった「南満州鉱業株式会社」の作業所(耐火煉瓦製造所とマグネサイト採鉱場)のものである。そこは遼寧省中央部の鉄鋼都市・鞍山から、70キロほど南の営口市・大石橋(現、県級市)にあった。そこでは日本の敗戦までに三つの主要な「万人坑」ができたが、本多記者が訪れたのは、その内の一つ、「虎石溝万人坑」だ。その時の印象を、本多は次のように記している。

この万人坑のような恐ろしい光景は、生涯で初めてだった。「不忘階級苦」(階級の苦しみを忘れまい)と正面に書かれた入り口からその中にはいったときの衝撃は、私の脳裏に終生消えることのないであろう擦痕を残した。累々たる骸骨の丘だ。その断面は、骸骨で地層ができている。これが万人坑とよばれる「ヒト捨て場」であった。(『中国の旅』 p.147)

「南満州鉱業株式会社」は、1913年に同所を試掘し、1918年から本格的にマグネサイト採掘を開始した。「日本の敗戦までの30年近い間に、ここから略奪されたマグネサイト鉱は1000万トンを超えるものと推定されます。(略)当時の社長は「中国の苦力(クーリー)なしにはわが社もなく、苦力がわが社にはいれば、その肉も骨もわしのもの」と公言したという。肉も骨も「わが社のもの」として何万人もが鉱石に変えられて」ゆくこととなった(『中国の旅』p.155。本項の同書引用は頁数のみ記す)。そこでの「労働時間は、時計を無視して星が基準とされた。星の消える夜明けに出勤し、暗くなって星が出始めるころ仕事を終える。したがって冬でも12時間労働、夏だと15時間を超えるときがある。昼寝など思いもよらず、家畜以下の食事で、鉱山の重労働を毎日のようにつづけると、どんなたくましい青年でも常に過労状態となり、衰弱してゆく」(p.157)。こうして、「労働強化→疲労消耗→死者の増加という図式がくりかえされる。死者はまとめて、「ヒト捨て場」としての万人坑に放り込まれた」(同前)。しかも、万人坑に捨てられるのは、死体だけではなかった。「消耗して動けなくなり、なぐってもけっても働けなくなった者を、生きたまま捨てた。その場合は足を針金でしばって、万一にも逃げることのないようにして捨てることが多かった」(p.158)。だから、万人抗の骸骨の山の中には、「針金でしばられた状態のものがかなり目につく。二人いっしょにまとめてしばられ、捨てられた例もみられる」(同前)という。

ここで働かされていた労働者は、� 崗�年工と女工」が最も多かった。賃金が大人(男)の半分以下だからだ。次いで�◆峅攅�」。これは「失業者や貧しい農民らを(略)だまし、募集してつれて来られた」。さらに��「臨時工」は、近在の「破産した農民たち(略)。餓死よりはいいと思って」応募して来た。また、�ぁ嵶す�」と呼ばれる大工や左官などの職人。以上は「有賃金組」で、わずかながら「賃金」が支払われる(pp.155-156)。

 この他に、「タダ働き組」がいた。それは、� 嵌蛤畤諭廖淵灰瓩糧咾鮨�ったから「経済犯」、3人かたまって話していたら「政治犯」とされた)、�◆嶇�工」(強制連行で狩り集められた者たちや、地主の命令で村の「割当て」として“寄付”されて連行されて来た者たち)、そして��「勤労奉仕隊」(兵役検査で不合格となり、徴用のかわりに服役させられた者たち)だった(p.156)。

 「万人坑に捨てられる者の率は、タダ働きさせられる「囚人」たちに圧倒的に多い」(p.160)という。「政治犯」とされた人は、「二人一組が針金でつながれ、互いに5メートルの距離を保って作業させられた。重い政治犯は足カセのまま働いた」(p.162)。大石橋刑務所に入れられ、「タタで強制労働をさせられていた中国人収容者数は、ほぼ1,000人前後だった」(p.160)という。「刑務所にまさるとも劣らぬ拷問が行われた「矯正院」も設立され、600人ほどが収容されていた。(略)両施設から少ない日で4〜5人、多いときだと40〜50人もの死者が、毎日毎日出る(略)。減った分だけまた補充されますから、収容者数は変わ」らない(pp.160-161)。こうして「強制労働で使い殺される中国人たちは、(略)一般労働者(常時約2,000人)の場合も加わるから、大変な数になる」(p.161)のだ。

「黄喜という農民出身の青年が、ゲリラの疑いで日本の警察につかまり、ここの刑務所に送られた。(略)黄さんは、毎日オカユだけで強制労働をさせられるので腹がへって耐えられない。石の粉をオカユに混ぜて食べた。あまりに石の粉を食べすぎて、ある日とうとう、作業中に腹が破れた。即死した黄さんは、万人坑に捨てられた。腸が破れることを知っても、空腹に耐えがたく、同じように石を食べて死ぬ者があとを絶たなかった」(pp.173-174)という。

 

◆その後の「虎石溝万人坑」

 青木茂は、この大石橋「虎口溝万人坑」を、2001年と2009年に訪れている。2001年の訪問時には、3名の僧侶(真宗大谷派)が同行し、「万人坑記念館」で犠牲者追悼法要を行っている。2009年には遺骨発掘現場で献花し、追悼と不再戦の誓いを、有志の一人が中国語で読み上げるなど、追悼式を行った」(*3)。「日本は、大石橋のマグネサイト採掘権を1917年2月に手に入れ、大石橋で採掘を始め(略)、1931年から1945年までにマグネサイト鉱石440万トンを略奪し、17,000 人以上の中国人労工を死亡させた。遺体の多くは虎石溝・馬蹄溝・高荘屯に埋められ、三つの主要な万人坑が形成された。このうち虎石溝は1960年代に発掘され、万人坑記念館が建てられた。しかし、馬蹄溝と高荘屯の万人坑はまだ発掘されていない」(*4)。

 

■撫順炭鉱万人坑

「石炭の都として有名な中国遼寧省の撫順に、巨大な露天掘りで知られる撫順炭鉱がある。その撫順炭鉱の石炭を略奪するため、1905年から1945年まで40年間にわたり日本が撫順を占領支配した。南満州鉄道株式会社(満鉄)が経営する撫順炭鉱の1936年の石炭産出量は962万トンに達し、これは、当時の東北(「満州国」)の産炭量の77パーセント、中国全体の産炭量の30パーセントに相当する」(*5)という大きな規模だった。「当時の炭鉱は採炭設備が貧弱なので、石炭を産出するため大量の労工(労働者)を確保することが必要となる。撫順炭鉱においても、大量の労工を確保するため、(略)関東軍は、東北(「満州国」)内で拘束し捕虜にした抗日組織の関係者らを1938年に初めて撫順炭鉱に連行し、特殊労働者(特殊労工)として労働させた。(略)これ以降、特殊労働者が撫順炭鉱に続々と送り込まれた。一方、1941年4月5日に関東軍と華北軍が協定を結び、華北で集めた中国人を東北に連行し、労工として労働させることになる。この協定に基づき、華北で拘束された一般民衆を含む多数の捕虜が特殊労働者として東北各地に連行された。そのうち撫順に連行された者は、1945年までに4万人余になる。(略) 「満州国」政府は、華北から連行してくる労工だけでは不足するため、「満州国」内での一般民衆の徴用を強化する。(略)1942年5月27日には国民勤労奉仕制創立要綱を可決し、21歳から23歳の男子で兵役に就かない者を国民勤労奉仕隊に入隊させることを決める。(略)監獄と矯正補導院に収監している服役者も労工として徴用した」のだった(*6)。

青木は、李秉剛 『万人坑を知る』(東北大学出版社、瀋陽2005年)に拠りながら、次のようにまとめている。「1905年から日本の敗戦までの40年間にわたり日本は撫順炭鉱を占領支配し、2億トンの石炭を略奪した。(略)日本侵略下の40年間で死亡した中国人労工は25万人から30万人にもなる。(略)1971年に撫順市階級教育展覧館が半年がかりで実施した調査で、36ヵ所の万人坑遺跡を確認することができた」(*7)。同じ撫順の「平頂山事件」については立派な施設(平頂山惨案記念館)が建設され、資料の整備・保存も進められているが、事件の発端となった撫順炭鉱では、「25万人の中国人労工が死亡させられた撫順炭鉱の人捨て場・万人坑などが放置されたまま」になっている。こうした現実に、青木は「釈然としない違和感を覚える」と記している(*8)。

 

■海南島

海南島は中国最南端に位置し、台湾(36,200㎢)や九州(36,780㎢) より少し小さいが、ほぼ同じ大きさ(33,900㎢)の島だ。亜熱帯気候で冬も暖かく、美しい浜辺、温泉など豊かな観光資源に恵まれ、今では「中国のハワイ」とも呼ばれ、中国国内はもちろん、アジア各地から観光客が訪れる人気リゾートとなっている(*9)。しかし、この「楽園」が、かつて「惨劇の島」だったことは、観光案内にも掲載されず、あまり知られていない。 以下、海南島で日本人(軍と民間企業)が行った侵略の実態を確認しておきたい。

1939年2月、日本海軍はこの島に侵攻を開始し、抵抗を受けることなく上陸に成功、占領した。以来、1945年8月の敗戦に至るまで、この島をアジア侵略拡大の軍事拠点としたのだった。さらに、軍需物資・食料・鉱物資源の開発拠点として、綿密な「開発計画」により、日本企業と結託し、開発・収奪した(青木茂『華南と華中の万人坑』pp.15-18を要約。以下、頁数のみ示す)。その過程で連行された中国人・朝鮮人らの多くが、強制労働の果てに死亡し、廃棄処分された。その場所が万人坑となった。

 海軍省から諸事業を受命した企業は、石原産業海運(株)、日本窒素肥料(株)、(株)西松組、(株)清水組、三菱鉱業(株)などで、こうした軍需で利益を拡大し、敗戦後も何ら責任を問われることなく、企業として成長、発展を謳歌している(*10)。彼らは海南島で、鉄鉱石の採掘と日本への輸出、電力設備構築、鉱山開発、鉄道建設、港湾建設、農林系栽培事業などに従事した(pp.18-21)。

 海南島における強制労働と万人坑の現場は、次の5ヵ所である。��八所港万人坑、�∪倨馘換柬�年坑、�F鄰�千人坑、�づ墜塙杙核�年坑、�ノ与綛\仟舎�年坑。この他に、月塘村と北岸郷では、虐殺事件があった。この内の3ヵ所(� 銑�)について確認しておきたい。

 �“�所港万人坑は、海南島西部の石碌鉱山で産出する鉄鉱石を搬出する港(八所港)の建設と、鉱山と港を結ぶ鉄道の建設工事にともなう強制労働によるものである。「八所港の建設工事は、日本が海南島を占領した1939年の年末から1942年の年末にかけて行われた。この3年間に、各地でだまされ(略)連行されてきたりした中国人ら2万人余が労工として建設工事に強制的に従事させられ(略)劣悪な生活条件と過酷な労働により、多数の労工が過労と飢餓で衰弱し死亡する。(略)最初は焼却され、骨灰(遺骨)を骨箱(骨壺)に入れて保管することも行われていた。(略)死亡する労工が多くなると、死体を台車に直接乗せ、八所港の建設工事現場から1キロくらい離れたあたりの砂漠に運び、溝(穴)を掘って埋めた。(略)八所港の建設などが一段落する時点で生き残っていたのは6000人に過ぎず、合わせて2万2000人が死亡していた。犠牲者の多くは、八所港に近い砂漠に捨て(埋め)られ八所港万人坑が形成された」(pp.31-34)。

 �∪倨餽杙海蓮嵳ノ匹陛換杙海任△襦�1939年に日本が唱江を占領したあと石碌鉱山の開発を受命した日本窒素肥料は、大量の労工を石碌に集め鉄鉱資源の略奪を始める。(略)最初に動員されてきたのは、台湾で「募集」された労工だ。(略)朝鮮・インドネシア・インドなどから連行されてくる者もいる。地元の海南島からも、徴用されたり強制的に連行されてくる者がいた。こうして4万人余が石碌鉱山に労工として集められ、採鉱作業を強いられることになる。(略)労工が死亡する最大に原因は過労と飢えによる衰弱死(過労死)だが、病気も、労工が死亡する主要な原因の一つである。(略)1942年の夏にコレラが流行したとき、石碌鉱山の水尾作業所では(略)3000人余の労工の半数以上が死亡した。(略)こうして、石碌鉱山で労働を強制された4万人余の労工のうち(略)1945年に日本が降伏したときに生き残っていたのは5800人だけだ。(略)3万人余の労工を死亡させ、石碌鉄鉱万人坑が形成された」(pp.44-48)。

 �F鄰�千人坑は、次のように形成された。「海南島における鉱山での採掘作業あるいは飛行場や道路の建設工事に従事させる労働者の不足を補うため、(略)朝鮮総督府の刑務所から海南島に受刑者を派遣する計画を、(略)日本政府が策定し、(略)「南方派遣朝鮮報告隊」として編成され、1942年末から1944年3月ころまでに8回に分けて海南島に派遣され(略)飛行場建設などに従事させられたり、石碌鉱山や田独鉱山で鉱夫として働かされたり、八所で港湾建設の労働を強制されたりした。(略)アジア太平洋戦争の末期に鉱山の採鉱や飛行場建設が中断されると、(略)連行されてきた受刑者の多くは南丁に集められ、やがて「朝鮮村」と呼ばれる地域に作られた施設に収容される。そして「朝鮮村」周辺で、道路工事・井戸掘り・トンネル掘り・軍用施設建設などに従事させられた。(略)最後まで生き残っていた朝鮮人も、1945年の日本敗戦時に銃殺や撲殺により集団虐殺されてしまう。(略)南丁で命を落とした朝鮮人は1000人を超え、これらの犠牲者の遺体が集められ南丁千人坑(人捨て場)が形成された」(pp.53-57)。

 

■延辺朝鮮族自治州

「朝鮮人が間島と呼んだこの地域に朝鮮族の人口が増えはじめるのは、19世紀後半に朝鮮北部の農民を中心に移民が増加してからのことだ。日本と清国が間島条約を結んだ1909年には10万人程度になっていた。1910年の日本による「韓国併合」以後、本国での生活難を主な理由とする移住により、この地の朝鮮族の人口はさらに増加する。1931年に日本が「満州」本格侵略を始めると、朝鮮人の「満州」移住政策を日本は積極的に推進し、(略)30年代後半には50万人、1945年の日本敗戦時には200万人を遥かに超えていた。(略)中国人と共に激しい抗日闘争を(略)戦い死亡した人は抗日烈士と呼ばれるが、延辺の抗日烈士の多くは朝鮮族の人だ」(青木茂『偽満州国に日本侵略の跡を訪ねる』 p.119。以下、同書の引用・要約は頁数のみ記す)。

 

◆老頭溝万人坑

「老頭溝炭鉱の採炭が開始された1933年から日本が投降するまでに、1万人余りの中国炭鉱労働者が虐待され迫害され死に至らされ、長さ東西1000メートル・幅南北700メートルの斜面にぞんざいに葬られた。その正面に1974年、万人坑と刻まれた記念碑と遺骨陳列館2棟が併せて建てられ」(p.136)ている。碑の傍の銘板には、延辺朝鮮族自治州人民政府が公布した、次の言葉が記されている。「老頭溝炭鉱は1886年に開設された。1918年、日本侵略者は悪魔の手を炭鉱に伸ばす。1931年9・18事変の後、炭鉱の全てを日本は占領した。当時、日本の侵略者は、人の命を犠牲にして採炭するという野蛮なやり方を行なった。そして石炭164万トンを略奪する。万人坑に埋葬されている1万余の遺体は、侵略者が支配した14年間に殺された炭鉱労働者であり、日本帝国主義が中国人民に犯した犯罪の証拠である」(pp.137-138)。

 

■吉林省の万人坑

◆遼源炭鉱

「遼源炭鉱は「満州国」時代には西安炭鉱という名称だった。その時代に、(略)中国人売国奴と一握りの日本の軍国主義者が結託し、1931年から1945年の間に1,542万トンの石炭を略奪する。さらに、その時の石炭採掘の過酷な労働で8万人以上の労働者が殺された。そのうち1万人以上が、遼源鉱工文物館近辺の方家塚という地域に埋められている」(p.154)。

 

◆豊満ダム

「9・18事変を引き起こし中国侵略を続ける日本は、中国の富を支配するため動力資源の開発を始め、1937年に豊満ダムを着工する。長さ1000メートル・100メートルのダムで松花江を堰き止め、水力資源を手に入れる計画だ。(略)だましたり強制的に連行したり逃げる者を捕まえるなどいろんな手段を用い(略)各地から労働力を集めた。1937年から1945年の間に豊満ダム建設工事(*11)で15万人が働かせられた。(略)厳しい監視下で1日12時間、牛馬以上に働かされ、過労と栄養失調でたくさんの人が死んでいった。1937年から1945年の間に捨てられた人は1万人以上だ。空からはカラスが人肉を喰らい、地上からは野犬が人肉を喰らう」(pp.169-171)状況だった。「ダム建設工事で殺された1万人余の中国人らは、松花江右岸の飯場の近くに捨てられ埋められた。そのごく一部を発掘して遺骨館に保存し、資料館と併せ豊満万人坑・吉林市労工記念館として整備し、日本の侵略犯罪を事実で示し告発している」(p.172)。

 

以上、「万人坑」の実例の一部を抜粋して記した。このような「万人坑」が、中国全土でいくつあるのか、全貌は不明だ。急激な経済発展の中で、不動産開発業者によって、忘れられた「万人坑」に土が盛られ、すでに高層ビルとなった所もあるだろう。暗い土中で、厖大な数の死者たちが、今なお無念の時間に耐えているのだろうか。(了)

 

(注)

*1) 青木茂 『華南と華中の万人坑』 p.1

*2) 2000年5月に現地を訪れた青木によれば、「人骨が累々と散らばっている。地表の砂が風で吹き飛ばされれば、新たな遺骨がまた地表に露出してくる」という状況だった(青木茂『二十一世紀の中国の旅 p.33)。この風景は、王兵のドキュメンタリー映画 『死霊魂(DEAD SOULS)』(2018年)を想起させる。ゴビ砂漠の夾辺溝(明水収容所)近辺で、吹きすさぶ風の音の中に、人骨が散らばる荒涼たる風景が記録されている。

*3) 同上書pp.108-111、同 『万人坑を訪ねる』 pp.79-81

*4) 同 『万人坑を訪ねる』 p.82

*5) 万人坑を知る旅2021 (青木茂主管)⇒http://yaris9304.starfree.jp/da6.htm

*6) 同前

*7)青木茂『万人坑を訪ねる』 pp.107-108

*8) 同上書p.112

*9) 2018年は年間7,600万人。⇒https://www.global-marketing-labo.jp

*10) 日本窒素肥料株式会社は、後に熊本県水俣で「メチル水銀化合物(有機水銀)中毒」による甚大な被害をもたらした企業。1965年に、社名を「チッソ株式会社」に改称(現、JNC株式会社)。旭化成、積水化学、積水ハウス、信越化学などの母体企業でもある。国家と一体化して成長した「チッソ」の来歴については、後藤孝典『沈黙と爆発』などを参照。

*11) 豊満ダム建設工事を請負ったのは、日本の土建会社の飛鳥組、熊谷組、上組などであることが、佐藤正人の論考「植民地の「開発」は侵略の手段である」(p.17)にある。

 

参考文献

・青木茂 『二十一世紀の中国の旅―偽満州国に日本侵略の跡を訪ねる』(日本僑報社 2007年)

・同上 『万人坑を訪ねるー満州国の万人坑と中国人強制連行』(緑風出版 2013年)

・同上 『華北の万人坑と中国人強制連行―日本の侵略加害の現場を訪ねる』(花伝社 2017年)

・同上 『華南と華中の万人坑 中国人強制連行・強制労働を知る旅』(花伝社 2019年)

・佐藤正人「植民地の「開発」は侵略の手段である」(『アジア問題研究所報』第4号(アジア問題研究所1989年)

・本多勝一 『中国の旅』(朝日文庫1981年)

・後藤孝典 『ドキュメント「水俣病事件」 沈黙と爆発』 (集英社1995年)

 

Website

・万人坑を知る旅2021 (青木茂主管) http://yaris9304.starfree.jp/


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