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侵略者あるいは鬼の末裔として(2)―日本人は中国・朝鮮で何をしたのか〈その1〉
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侵略者あるいは鬼の末裔として(2)
―日本人は中国・朝鮮で何をしたのか〈その1〉

小泉雅英

<二つの著作の衝撃>

今春4月から8月まで、立川の市民活動団体シビルで「自伝から読む歴史�� 『新編・石光真清の手記』を読む」連続講座(全5回)に参加した。講師はブランキ『革命論集』編訳者でもある加藤晴康氏(横浜市立大学名誉教授)。石光真清の生涯(1868〜1942)は、近代日本の帝国としての拡大から崩壊へと向かう過程と重なり、「明治維新」以来の戦争と侵略の歴史をたどり直すことができた。また最終回では、機会を戴いて「課題としての「満洲」―悪夢は清算されたのか」と題し、小さな報告をした。

なぜ「満洲」だったのか。それは、石光の行動の舞台が、主に中国東北部とその周辺、つまり旧「満洲」とシベリアだということと、日本人の中では、「満洲」について、平和な「楽土」の日常が、1945年8月9日に暗転したという物語や、悲惨な「引揚げ」体験が繰り返し強調され、ノスタルジックな言説や、曖昧なイメージが未だ広く抱かれていると感じていて、この機会に自分なりに整理しておきたいと思ったからだ。時間の制限があり、ほんの一部でしかなかったが、「満洲国」成立以前から、この地がどのように侵略され、激しい抵抗を受けていたのかについて報告できた。

この報告の準備過程で、多くの資料(文献、映像、図像、音楽)に接し、日本の侵略と戦争犯罪について再認識したが、とりわけ、本多勝一『中国の旅』と、キㇺ チョンミ(金靜美)『中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史序説』から、大きな衝撃を受けた。キㇺ チョンミのものは、以前、『故郷の世界史―解放のインターナショナル』を読んでいたが、今回、この『中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史序説』を精読した。本書と、本多勝一のルポルタージュを読みながら、日本人(軍隊・警察・企業、民間人など)のあまりの暴力性と残虐さに、驚きと憤りが収まらなかった。中国人が誰に向けるのでもなく「日本鬼子」 (リーベングイズrìběn guǐzi) と言うのを、何度か耳にしたことがあるが、それは「鬼(guǐ =悪魔)のような日本人」という侮蔑(憎悪)を表す言葉で、「鬼」は比喩でしかなかった。しかし、この両書を読むと、それが決して比喩ではなく、日本人は文字通り「鬼」だったのだ、と感得させられる。その「鬼」が既に死滅したのか、今なお日本人の意識の深部に棲んでいるのか、それが問題なのではないかと思う。

キㇺ チョンミ(金靜美)『中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史序説』

「自分はなぜ日本で生まれたのか、自分はどのような朝鮮人であるのか、自分のオモニたち、アボジたちはどのように生きてきたのかを知ろうとして、20年近くまえに歴史研究をはじめた」(以下、引用は頁数のみ記す。p.4)キㇺ チョンミ氏は、1970年頃に朴寿南氏に宛てた李珍宇氏の言葉に出会い、「研究を持続する根拠のひとつ」(同前)として来たと言う。本書は、そんなキㇺ チョンミ氏が、日本帝国主義者への昂る怒りを抑えながら、実証的歴史研究として、1行1行、刻むように書いた論文集であり、「19世紀末から1945年8月にいたる間の朝鮮民衆の生活とたたかいの歴史をたどろうとする(略)数年間の作業の報告書である」(p.3)。

「1860年代以降に日本人がアジアで何をやってきたのか(略)1876年および1895年以後に台湾で日本人が何をしたか、“日清戦争”“日ロ戦争”時に朝鮮、中国で何をしたか、1918〜1925年にシベリア、朝鮮、間島、サハリンで何をしたか」(p.7)について、私たち(日本人)は正確に学び、何度も復習しなければならないだろう。なぜなら、「誰が、何を、どのようにしておこなったのか、ということを明らかにされなければ」(p.7)、そしてそれを深く認識しなければ、「おこなったことの責任の大きさも、責任の質も、責任のなかみもわからなくなってしまう」(同前)からだし、加害者(侵略者=鬼)の末裔として、記憶し続ける必要があるからだ。

本書には、�/¬叡賄監桟�設による侵略と朝中民衆の抵抗闘争、�⊃¬叡六拉曚諒�法として計画・建設された「安全農村」や「集団部落」、「無人区」、さらに「鉄路愛護村」や「鉄路自警村」、それらに伴う強制連行の実態などが詳述されている。ここでは、日本人が行った暴虐について、多くを記す余裕はないが、数例だけでも示しておきたい。

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帝国主義者にとって侵略の重要な手段である鉄道の建設が、中国東北部でも、満鉄を中心に、現地民衆の様々な形の抵抗を抑え、暴力的に進められた。例えば、「日ロ帝国主義戦争のさなかに、日本は、朝鮮を縦断する植民地鉄道(釜山―ソウルー新義州間、広軌)の建設を開始し、(略)朝鮮の東北部に、東海岸の清津から朝鮮・中国国境の会寧にいたる軍用鉄道を建設した。この清津―会寧間の鉄道の建設は、(略)朝鮮東北部と間島を貫通する植民地鉄道建設策動の一環をなすもの」(p.66)だった。

さらに、「1920年10月、日本政府と陸軍省は、(略)約2万人の正規軍(朝鮮駐屯日本軍、シベリア侵略軍、関東軍)を間島に侵入させた」(p.67)が、当時、「間島にはまだ鉄道が建設されておらず、日本は、侵略軍を、間島の内部に迅速に送りこむことができなかった」(同前)。そのため、「朝鮮総督斎藤実は(略)朝鮮の独立運動を「根絶」するために、豆満江沿岸から間島中央部にいたる天図軽便鉄道を急造することを提案した」(同前)。

「満鉄は、日本正規軍の暴力に依拠し、朝鮮人労働者と中国人労働者を酷使して、1933年8月に吉会鉄道を完成させた。(略)吉会鉄道全通の前後から、日本人が沿線の土地に侵入した。日本人植民者は、先住の朝中農民の農地をうばい、(略)先住の農民を小作農あるいは雇農として、その労働力を収奪した。/吉会鉄道は、朝中農民の土地と労働力(略)、森林資源、鉱山資源をうばうための手段であり、反日武装部隊と民衆のたたかいをおさえ(略)軍警と軍事物資を輸送する軍事手段でもあった」(p.68)のだ。

「1931年11月、満鉄は、(略)吉会鉄道の敦化以東部(敦図線)の建設に着手した」(p.214)。
「工区は八区に分割され、吉川組、岡組、清水組、大林組、高岡組、福昌公司、榊谷組、大倉土木が請負った。すべて日本の土建業者であった。(略)在郷軍人をあつめて自警団をつくった。自警団は敦化の関東軍から銃と弾丸を貸与され」(p.221)ていた。「第五工区の老頭溝附近の工事には、老頭溝炭鉱の朝鮮人坑夫が土工として働き、近くに住む朝鮮人女性も働いた」(p.223)という。

「吉川組は、抗日武装部隊と中国人労働者の接触を阻止するために、「苦力収容所」を大橋、大石頭など5か所に作った。これらの収容所は現役兵と在郷軍人の宿舎の間に設置され、周囲を塹壕、土堤、鉄条網で囲まれていた」(p.227)。「大林組でも、「組員中の在郷軍人」は自警団をつくって、朝鮮駐屯日本軍守備隊から銃を借りて訓練をやり、組員全員は工事現場ではつねに拳銃、木刀を携帯しており、工事事務所や宿舎の周囲には土提がきずかれ、その上に鉄条網がはられ、外側には壕がはられ、すみずみまで機関銃がすえられていた」(p.227)という。

「植民地鉄道は、�/¬叡呂鮖拉曄∨姫劼垢襪燭瓩侶鎧�的手段であるとともに、�⊃¬叡呂了餮擦鬚呂海喀个掘⊃¬叡呂膨觜饉腟噌颪旅�業生産物を導入するための経済的手段であるが、その建設過程において帝国主義本国の土建業を成長させ(略)本国の工業を発展させる。1929年の世界恐慌後において、中国東北部における吉会鉄道建設は、朝鮮北部における図們線、雄基―羅津港の建設等と結びついて、日本の土建業、工業、運送業に大きな利益をもたらした」(p.293)のである。

「「九・一八事変」以後、吉会鉄道は日本人移民を中国東北部にはこびこむ手段としても用いられた。日本人移民は、経済的意味だけではなく、軍事的意味をもっていた。(略)1932年10月から中国東北部に侵入しはじめた「武装移民」は、軍事的役割を最優先していた」(p.294)のだった。

「1937年7月、中国への全面的軍事侵略を開始したのち、日本帝国主義者は、中国東北部からの資源収奪をより徹底化した。それまでかれらは、中国東北部へ山東省以南の中国人が移住するのを制限していたが、労働力がたりなくなったため、中国民衆の強制連行をはじめた。1937年12月14日、かれらは、「勅令」として「満洲労工協会法」を出し、1938年1月7日付で(略)「満洲労工協会」をつくった。(略)1940年7月から、錦州省、安東省、熱河省における労働者の「募集」が「満洲労工協会」の「専管」とされた。「ノモンハン地区」の軍事施設建設工事現場でいのちをうばわれた1,200人もの人びとは「満洲労工協会」の手によって錦州省から強制連行された人びとであった」(p.259)。

「1984年に出された『延辺朝鮮族自治州概説』には、「老頭溝炭鉱にはもとは、山東からきた炭鉱労働者が1,000人以上いたが、解放前に生き残っていた人は、わずか300人あまりであった。そのほかの人びとは、すべて、「万人抗」のなかでかさなりあって白骨にかわっていた」と記されている。老頭溝炭鉱の「万人抗」には、10,905人の人びとが埋められている」(pp.259-260)という。

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「1931年9月18日以降、日本軍(関東軍と朝鮮駐屯日本軍)が中国東北部を軍事制圧していこうとする過程で、朝鮮総督府は、日本の侵略を確実にするために、朝鮮人に対する管理を強化し、中国東北部の5か所に「安全農村」をつくり、間島の28か所に「集団部落」をつくり、朝鮮人を「収容」した」(p.314)。「満洲国」官憲も、1934年に「集団部落」の建設を開始した。「「満洲国」官憲による「集団部落」は、抗日武装部隊の活動の活発な地域に散在している朝中民衆の家屋を破壊し、民衆の居住範囲を制限して、広い無人地帯をつくった。これは、民衆と抗日武装部隊とをきりはなし、抗日武装部隊の力を弱めようとするものであった」(同前)。

「安全農村」

「「安全農村」が建設された地域は、「多く匪賊或は共産党員の巣窟に近く頗る危険地帯」であり、「農村開設に際して日本守備隊、満洲国警察隊、領事館警察官の討伐及宣撫工作が行はれた」という」(pp.318-319)。「「営口安全農村」には、(略)警官25人が常駐し、機関銃がそなえつけられており、「朝鮮人在郷軍人」が中心になって自衛団を組織し、「警備」をおこなっていた」(p.326)。「朝鮮総督府と東亜勧業が、すぐには農耕をおこなえないまったくの荒地に多数の朝鮮人農民を送りこんだのは、(略)農民自身に用水路工事、排水路工事、道路工事などの農業基盤整備工事をおこなわせるため」(p.327)だった。「「安全農村」の建設は、「避難民」を「収容」するという口実ではじめられたが、朝鮮総督府は、朝鮮本国の農民も「営口安全農村」に「移民」させた」(同前)。

「集団部落」

朝鮮総督府による「集団部落」の「多くは、日本官憲が制圧している地帯の境界につくられ、「見張所、又は前哨の役割」をもたされていた」(p.335)。「すべての部落は土塀でかこまれたが、その高さは3〜2.1メートル、厚さは1.5〜1.2mであった」(p.346)という。「その外側には幅三尺(約1メートル)、深さ三尺の壕が掘られた。各部落には、2基あるいは4基の砲塔が築かれた(青山里のみは6基)」(p.336)。部落の出入口には門扉が設置され、夜間は閉鎖され、歩哨が立つ。住民は、夜間は壁の内側に閉じ込められ、外部との連絡を切断された。しかも、多くの場所で、18歳以上の住民は、写真を貼付した「住民証」の携帯と、「左手の5本の指の指紋がとられ、「住民証」には左手のひとさし指の指紋」(p.338)押捺が強制された。ただし、「「満洲国」政府では、瀋陽市、撫順市、鞍山市など(略)の工場・鉱山地帯で、「十本指指紋登録」を民衆に強制した。1938年度に指紋をとられた労働者は、158,809人であった」(p.366)という。

「集団部落」に入ることを拒否した者は、どうなるか。「満洲国」官憲による「集団部落」では、例えば三江省(現、黒竜江省)湯原県太平川地域の「農民劉人録ら数十人は、関東軍に逮捕され、湯原県の監獄に監禁された。まもなく、劉人録らは氷の穴に閉じこめられて凍死」(p.357)させられた、という。朝鮮総督府によるものでは、「農耕時以外は朝鮮人農民を壁の内側に隔離し、「匪民分離」によって民衆とのつながりを絶ち、兵站(食料、衣料、情報などの供給源)をうばおうとする「集団部落」の建設に対して、反日武装部隊は攻撃を加えた」(p.336)。「朝中民衆が、さまざまな方法で、「集団部落」の建設に抵抗したのは当然のことであった」(p.356)。

「無人区」

「1941年9月7日、山西省孟県の140個と平定県の17個の村を「無人区」にするために、(略)村を自分で破壊して1週間以内に立ち退くこと、立ち退かない場合は、「厳重処罰」する、という「布告」が村民に出された。これと前後して、この地域から北方の五台山地域にいたる広い地域で日本軍は、「治安区」と「無人区」を作った。日本軍は「無人区」を「匪区」ともよび、そこで「三光作戦」を実行した」(p.407)。「日本侵略軍は、河北省、山西省、チャハル省、熱河省の「辺界地方」で、「絶縁政策」のもとに数多くの家を焼却あるいは破壊して「無人区」をつくり、(略)壮年は「労工」としてつれさった」(p.408)という。

この一年後、「日本軍は山東半島に大規模な包囲網を作り、多数の民衆を捕らえた。この「人さらい作戦」の最中、1942年11月27日に東条内閣は「華人労務者内地移入ニ関スル件」を閣議決定した。日本軍に捕らえられた人々のうち青年・壮年男性は、日本あるいは中国東北部に労働者として強制連行された。1945年6月に、秋田県花岡鉱山で決起した中国人は、河北省、山東省、山西省、河南省、湖北省(略)などから強制連行されて来た人々であった。日本帝国主義者の「無人区」策動により故郷をおわれ、家族から切り離されて日本に強制連行された中国民衆は、日本の土建会社や鉱山会社などによって、日本各地の発電所建設、鉄道建設、軍用飛行場建設、港湾荷役、鉱山などで、なかば隔離して働かされた。非道な酷使に抗して、ときに中国民衆は、死を賭してたたかった。たたかいの中で、あるいは強制労働の場で日本人に殺された中国民衆は、ふたたび故郷にもどることはできなかった。強制連行された朝鮮人も同じであった」(p.409)。

☆本書は詳細な注を含め、全520頁の大著である。上に抜粋したのは、その一部分でしかない。ぜひ自ら手にとることをお勧めする。なお、長文の「あとがき」の「続」には、「おおくはないが、生活と労働とたたかいの場で、過去と現在の日本の他民族・他国・他地域侵略に責任をとろうとしている日本民衆がこれからさらに、たたかいのなかでちからを強めていくことを信じたい」と記されている。(了)

参考文献
キㇺ チョンミ(金靜美)『中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史序説』(現代企画室1992年)


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