|
〔週刊 本の発見〕『科学と非科学−その正体を探る』 | |
|
Menu
|
真の知性のありようとは『科学と非科学−その正体を探る』(中屋敷均 著、講談社現代新書、800円)/評者:大西赤人
即ち、実社会において「科学的」とは、自然科学とりわけ数学との関係性・親和性が極めて大きい。数学的計算に基づき、実験や追試に耐え得るものが「科学的」とされ、普遍性に欠け例外的なものは「非科学的」とされる。たしかにそれは一定程度正しい区分であるけれども、同時に我々は、例外――常識を逸脱した出来事をしばしば経験する。そして、�牴奮悗力箸任和�えきれない現象�瓩箸いΔ茲Δ文世な�も少なくないし、科学及び科学的あり方が最大限重視される反面では、科学絶対視への疑問、科学万能主義への危惧を唱える人々も決して珍しくはない。その一部は、怪しげないわゆる似非《エセ》科学への信奉へと形を変える例もあり、そのような歪みへの警戒が、本来の科学への依拠をなおさら強めることにもなる。 「植物や糸状菌を材料にした染色体外因子(ウイルスやトランスポゾン)の研究」が専門という中屋敷は、まさに典型的な科学者、研究者の一人と位置づけられるであろう。しかし本書は、「科学的な真実とは何か、それがどのようにこの世界に現れてくるのか、また科学と社会の関わり」をテーマとする観点から、原発やパンデミックなどの具体的で身近な例に基づきながら、(他の著書に関するインタビューから引くと)言わば「文系と理系のはざまを埋め」るような作業を読みやすい形で試みている。 多くの現代人、特に日本人は、拠りどころを失っていると言われる。宗教や思想は必ずしも普遍的ではなく、良く言えばプラグマティック、悪く言えば生産性やコストのみを重視した効率主義が蔓延しており、その際、「科学的」であることは必須かつ最強の保証となっている。古代においては、「神託」という手段が存在した。人智を超えた難題に関しては、神のお告げを求め、それを得ることによって――言うまでもなく「非科学的」とも思われるが――最終的な決断とされた(詳述は避けるけれど、大西は、似たような性質での「盟神探湯《くがたち》」という裁判形式に以前から興味を持っていて、そこに単純に「非科学的」と言い切れない合理性を感じたりもする)。「神託」をなくした現代人にとっては、代わって「科学」がその機能を果たしていると中屋敷は見る。 「現代社会では、『理性で世界を理解することができる』と信じられており、科学がその世界の姿を解き明かす役割を果たすことになっている」 その結果、様々な問題に対し、科学者は「神官」と化し、ただしあくまでも「科学的」な判断を下さなければならない。しかし、実際には、科学とは「分からない」ことを取り扱う学問であり、「分からない」ことばかりであり、加えてそれは、この世界における「正しい」ということの意味とも関わってくる。「科学的」であれば白か黒かを明確に切り分けてくれる、あるいは白と黒との割合・確率を明確に打ち出してくれるものと期待しがちだが、本来の科学は、両者の境界における曖昧さやグラデーションの上に成立している。「科学的」な思考とは経験を踏まえた演繹法や帰納法に基づくけれど、「それはこの世界は同じことをすれば、同じ結果が返ってくるようにできている、という仮定」に基づいているに過ぎないと著者は述べる。 もちろん、このような留保が行き過ぎれば単なる不可知論に陥ってしまう。中屋敷は、「科学的な姿勢とは、根拠となる事象の情報がオープンにされており、誰もが再現性に関する検証ができること、また、自由に批判・反論が可能である」ことと述べている。また、過剰な競争原理の導入により、大学、ひいては研究者のありようが現代の「強欲資本主義」や「傲慢合理主義」を反映し、真の知性を失ってはいないかと警告する。人が「科学的」であるということの意味合いを改めて考えさせられる。 *「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・渡辺照子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美・佐藤灯・金塚荒夫ほかです。 Created by staff01. Last modified on 2019-04-04 14:08:22 Copyright: Default | |