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LNJ Logo 松本昌次のいま、言わねばならないこと(28)〜「人は獣に及ばず」
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第28回 2015年7月1日  松本昌次(編集者・影書房)

「人は獣に及ばず」

 表題は、江戸後期の洋風画家・蘭学者、司馬江漢の言葉である。

 ある時、ある席上で、ある人物が、オランダの学問技術が話題になった折、オランダ人などは「人類にあらず。獣の類なり」と放言した。するとすかさず、司馬江漢は「人は獣に及ばず」と一蹴したという。

 このエピソードを冒頭に置いた英文学者で評論家の中野好夫氏(写真)のエッセイ「人は獣に及ばず」は、今から40年ほど前に書かれたわずか数ページのものだが、忘れることのできない一文である。中野氏は、司馬江漢は「別に一流の思想家」だったわけではないが、洋風画・銅版画を描き、地動説を唱え、封建制を批判して人間平等主義の立場に立った人だったから、「蒙昧の洋人禽獣論」を得々としゃべる人物にがまんがならなかったのだろうと書いている。そういえば、70年ほど前の戦争中には、「鬼畜米英」などという「洋人禽獣論」が一世を風靡したことがある。もっとも今はその「鬼畜」のいいなりになっているけれども。

 それはさておき、中野氏は、「人間とは、果たしてそんなにえらいもの」かと問い、次のようにいう。ーー「獣、いや、動物の方がはるかに美しい調和の中で生きているのではないか。およそ世に人類ほど邪悪で、残忍で、貪欲で、しかも醜陋な生物は、かつて存在もしなかったし、また将来も断じて存在しえまいとさえ思える。」と。

 そして、自然破壊、食糧危機からジェット機、リニア・モーターなどの「スピード陶酔」の事例にふれつつ、「人類最大の愚行」である戦争に及ぶのである。ーー「大戦のたびに、彼等はあとで戦争の根絶を厳かに誓い合う。だが、現実に行っていることは、つねに戦争抑止力を名とする恐るべき殺人新兵器の開発という一事にすぎぬ。悔いに宿命づけられた生物ーーその名は人類とでもいうべきか。」と。

 中野氏は、だからどうすればいいかとは、ひとことも言っていない。むしろ「人類は亡ぶ。必ず亡ぶ。」と断言するのである。そして人類文明のあとは、「破壊しつくされた自然、そして鉄とコンクリートの廃墟の山」が残り、「死塊のような地球だけが、無限広大な宇宙空間の中を、ただ黙々として展転しつづけている」という、「まことにいやな想像」で文章を閉じているのである。これではミもフタもない。絶望するだけか。いや、そうではない。わたしは、こういう文章からこそ、限りない勇気を得るのである。

 中野氏に『人は獣に及ばず』を巻頭に置き書名とし、70篇ほどのエッセイを収めた一冊がある。(1982年・みすず書房刊)その中に、「奇襲攻撃ということーー有事立法問題に関連して」という一文がある。傍題にあるように、1978年当時、他国からの奇襲攻撃を受けたらどうするかという有事立法なるものが国会で論議されたことがあるが、それにふれて中野氏は、日本は、日清・日露・日中戦争から太平洋戦争の真珠湾攻撃に至るまで「宣戦なき奇襲攻撃」を「お家芸、十八番」にしてきたがゆえに、逆に、「仮想敵もまたそれを仕掛けてくるのではないかという潜在意識的不安」にとらわれていると、見事に喝破しているのである。いま安倍政権がなにがなんでも押し通そうとする一連の安保法制も、このような「潜在意識的不安」に、病的におびえている結果としか思えない。

 中野氏は絶望しているのではない。人間が動物に及ばない最たるものとしての戦争、その「愚行」、それに気づかず、人類滅亡の促進に加担し、その結果に思い及ばない人びとに、中野氏は警告しているのである。1985年、82歳で世を去った中野氏が存世していたら、安倍政権にどんな批判の言葉を送るだろうか。


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