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LNJ Logo 飛幡祐規のコラム : パリ連続襲撃事件の悲劇〜考えつづけていること
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第30回・2015年1月19日掲載

パリ連続襲撃事件の悲劇〜考えつづけていること


  *レピュブリック広場(Olivier Loussert)


  *自由 私たちはみんなシャルリー ナイジェリア 殺戮は続く(Olivier Loussert)

 パリで起きた諷刺週刊紙「シャルリー・エブド」とそれにつづく連続襲撃事件(1月7日〜9日)について、短い文章で語ることはとても難しい。パリに40年暮らし、この悲劇のあと深い哀しみにくれる者のひとりとして、まず三つの事件の犠牲者全員に哀悼の念を捧げる。そして、事件の背景にあるフランス社会のさまざな側面について、いくつか書き留めておきたい。

1)「シャルリー・エブド」のエスプリ

 「シャルリー・エブド」の編集部が襲撃されたのは、2006年以来、預言者ムハンマドの諷刺漫画を繰り返し掲載したからだが、その問題に入る前にまず、この諷刺漫画新聞へのテロがなぜ、全国400万人近くの市民が自発的に路上に繰り出すほどの衝撃を与えたのか、考えてみたい。実売数3万のマイナーな同紙(より有名な諷刺新聞「カナール・アンシェネ」の発行部数は40万部近く)は近年、若い層にはほとんど読まれず、深刻な経営困難に陥っていた。

 「シャルリー・エブド」は1960年発刊の前身紙「アラキリ(腹切り)」の時代から、挑発的な諷刺画で何度も発禁処分や名誉毀損の訴えを受けた。たとえば1970年、ド・ゴール元大統領死去時の非礼なタイトルのせいで「アラキリ」が発禁となったため、「シャルリー・エブド」に改名。政治家や軍隊、宗教を徹底的に「笑いもの」にし、セックスを奔放に描き、70年代はカウンター・カルチャーの象徴のひとつになった。政治的には左派でアナーキーな性格とはいえ、「シャルリー」の精髄はむしろ、すべての権力や宗教への「不敬」と(ブラック)ユーモアだろう。イラストレーターと筆者それぞれの個性も強く、下品や悪趣味、マッチョな部分やどぎつさが目立つときもある。この無礼千万の悪ガキ的な冗談やギャグを「笑う」感覚も、フランス人のユーモアの一面なのだ。(むろん笑えない人、嫌悪する人たちもいる。)

 それに、殺害されたヴォランスキ(80歳)とカビュ(75歳)は「アラキリ」発刊時からの歴史的メンバーで、広く大衆に愛されたイラストレーターだった。彼らが出演するテレビ番組を子ども時代に見て、反逆的なエスプリと(ときに)絶妙なユーモアの諷刺画に親しむようになった人々もいる。カビュは兵役でアルジェリア戦争に行かされた体験を原点に、反軍隊や反原発の諷刺画を数多く描いた。1970年代、彼はノルマンディー地方のフラマンヴィル原発の建設反対デモにも参加した。2012年に「シャルリー」は「原子力の詐欺」と題した特集号(表紙の諷刺画を描いたティヌスも犠牲者)を出している。

 1月7日の夕方、友人たちから「レピュブリック(共和国)広場に行こう」と携帯メッセージやメールが次々と入り、わたしも広場に足を運んだ。フランスはテロを何度も経験しているが、新聞の編集部への攻撃というショック(プレスへの爆弾テロやジャーナリスト襲撃はこれまでもあったが、死者が出たのは初めて)に加え、表現の自由を体現していた犠牲者たちに愛着の深かった人も多い。友人の中には泣いた人もいた。わたし自身、1990年代のはじめ、カビュのイラストを拙著に使わせてもらったことがあり、会ったときの温かい人柄が記憶に残っている。また、同じく犠牲者となった経済学者のベルナール・マリスの言葉を別の本で紹介したが、彼は10年間の廃刊期の後に1992年に復刊した「シャルリー」の中心メンバーのひとりだった。マリスは、いま日本で注目されているトマ・ピケティよりずっと過激に、辛辣かつユーモアあふれる口調でネオリベラル資本主義と「御用」経済学者を批判した。1992年以降の「シャルリー」の諷刺の対象は、極右の国民戦線、ネオリベラル経済、生産主義、宗教などにわたり、反権力・権威、反ファシズム、環境保護運動などのエスプリを(卑猥な性表現が多い点も)持続していた。同紙を「反宗教」の面だけ、預言者の諷刺画だけに特徴づけて語ることはできないと思う。

2)諷刺と「非宗教(ライシテ)」、「反宗教(アンチ・クレリカリスム)

 しかし、彼らはまさに預言者の諷刺画のせいで殺戮された。ことの始まりは2005年の秋、デンマークの日刊紙が預言者の諷刺画を掲載したことに対する抗議運動だ。2006年初頭、イスラム圏諸国と宗教団体に抗議やボイコットが広がった。フランスでは2006年2月、「フランス・ソワール」紙につづいて「シャルリー」が諷刺画を掲載し、大きな議論をよんだ。事件の状況と背景は当時書いたもの(下のリンク)を参照してほしいが、背後にイスラム組織によるマニピュレートがあったことも否めないだろう。しかし、「シャルリー」が預言者ムハンマドとテロリズムを結びつけた諷刺画も掲載したのは、哲学者エチエンヌ・バリバールが言うところの「軽率・不用心」だったといえるかもしれない。
http://www.nttdata.com/jp/ja/diary/diary2006/02/20060207.html

 「シャルリー」は一貫して、すべての宗教権威の愚かさを笑う自由を主張してきた。2006年以降、イスラム原理主義の過激派から脅迫を受けても意に介さず、2011年11月には事務所が放火された。それでも表現の自由と「非宗教(ライシテ)」は譲れないと、原理主義者やジハーディスト(聖戦義勇兵)、ときに預言者の諷刺をつづけた。そのため、国内で高まっている「イスラモフォビア(イスラム嫌悪)」を助長すると批判を受けていた。

 反宗教・非宗教は、「シャルリー」が受け継ぐアナーキズムの特徴の一つであるだけでなく、諷刺画の伝統においても重要な要素だ。フランスに限らずヨーロッパでは、ルネッサンス期から画家がローマ教皇を諷刺し(ホルバインの版画など)、フランスでは18世紀末の石版印刷発明後、新聞・雑誌の発達と共に、19世紀に諷刺画(カリカチュア)のジャンルが確立した。ちなみに、猥褻画も印刷技術の普及と共に広まった。一方、表現・言論の自由は、大革命時の人権宣言(1789年)で基本的人権に設定された後も、長い闘いによって勝ち取られてきた。たとえば七月王政下(1830〜48年)の1832年、ルイ・フィリップ王の諷刺画を描いたオノレ・ドーミエは監獄に6か月幽閉され、1835年には政治的諷刺画の検閲法が復活した。プレスと表現の自由を保証する法律は1881年、第二共和政と第二帝政をへた第三共和政のときに制定された。

 その19世紀末はまた、強力なカトリック教会(大革命で財産を没収されたとはいえ)の勢力を退けて政教分離、フランス語の表現では「非宗教(ライシテ)」が共和国の原則として成立した時期である。しかし、1905年の「非宗教」に関する法律で政教分離と信仰の自由が定められた後も、カトリック系勢力と「反宗教」側の対立はつづき、宗教権威を「笑う」歌や諷刺画の文化が定着した。貨幣に「我々は神を信じる」と刻まれ、日常に聖書の引用があふれるアメリカと異なり、フランスの歴史には人文主義者ラブレーや啓蒙思想家ヴォルテールなどによる宗教(カトリック)勢力への批判と闘いが痕跡をとどめている。発禁文学の象徴であるサド侯爵(1740〜1814)も、過激な「反宗教」主義者だった。「シャルリー」がこだわる表現の自由や非宗教は、そうした「反宗教」文化を受け継いでいると言えるだろう。

 「シャルリー」は近年、再び宗教が勢力を得ていること(キリスト教系保守の人々の、同性婚に対する強力な反対もその一例)に、大きな苛立ちを覚えたにちがいない。そこで、イスラム原理主義への諷刺攻撃を、非宗教の闘いの一貫だととらえたようだ。しかし、カトリック・ユダヤ・イスラムの三宗教を同列に並べるのではなく、それぞれの宗教の歴史的・社会的・政治的な文脈に留意する必要があったのではないだろうか。キリスト教は十字軍、異端裁判、宗教戦争など血なまぐさい歴史といくつもの革命と議会政治の末、ようやく世俗化されたのである。カトリック教の権威は諷刺には慣れていて、たまに狂信的な信者が映画館に爆弾を仕掛けたりするが、嘲笑に動じない。一方、イスラムはフランス第2の宗教(信者約500万人といわれる)になってから、まだ日が浅いのだ。原理主義に限定して諷刺したとしても、「シャルリー」を見たこともないフランスのイスラム教徒は、自分が信仰する「イスラムが侮辱された」と感じるのだという。

 ムスリム系の人々の多くは、元植民地からの移民やその子孫だ。フランス社会の底辺で働き、差別を受けやすく、9.11の連続テロ以降はとりわけ、疑いの目を向けられやすい。さらに近年、イスラム教徒や移民全部を過激なイスラムと混同して敵視する、差別的な排外ナショナリズムが煽られている。国民戦線など極右政党・団体にかぎらず、保守政治家や文化人の「イスラモフォビア(イスラム嫌悪)」発言がメディアで頻繁に流され、そうした本がベストセラーになってしまうほどなのだ。

 わたしは、「シャルリー」が反イスラム感情に便乗したという見方には、断じて賛成できない。しかし、彼らが、自分たちが嫌悪している極右・反動の「イスラム嫌悪勢力」に利用される危険や、自分たちの諷刺画が象徴的暴力になりうるという現実に目を向けなかったのはなぜなのか、事件が起きてから考えつづけている。アラブ系フランス人向けラジオ「ブールFM」のジャーナリストは、「シャルリー」はイスラム諸国や団体が抗議をすればするほど、「宗教勢力には絶対に譲らないぞ」と頑な姿勢に陥ったのではないかと語っている。批判する人たちと話し合えばよかったのに、と。

 「シャルリー」のしばしば猥褻なブラックユーモアとの世界と、処女性や貞節が絶対視されるムスリム系の人々の世界のあいだには、メトロや郵便局ですれちがう同じ社会に住んでいながら、あまりにも深い溝がある。しかし、諷刺画家をはじめ現在の編集部のメンバーはみんな、人間的な魅力にあふれる人たちだったという。表現の自由がフランスで「貴重な」権利であることを彼らが語り、ムスリム系の人たちと対話する場を重ねていくことはできなかったのだろうか?

 「シャルリー」は不幸にも、恐怖や憎しみは伝染しやすいのに、ユーモアや笑いがすべての人に通じるものではないという現実にも、あまり注意を払わなかったようだ。たとえば、500万部(700万部に届く?)発行された事件後の「シャルリー」最新号の表紙の諷刺画を、日本のメディアがいかに誤訳したか、諷刺画とテキストがどれほど多様な「読み」を内包しているかを、パリ在住の作家・翻訳家の関口涼子さんがすばらしく明敏に解説している。「すべて赦したよ、水に流そう」と読むべきところを、日本の新聞は、ムハンマドが「私はシャルリー」の標語を持ち、「すべて許される」と書いてあるから、預言者の諷刺も許されるという意味だろう、と解釈したのだ。関口さんはこの例をとおして、イメージが文化を越えてどのように読まれていくか、文化翻訳の問題を見事に指摘している。
http://synodos.jp/international/12340

 フランス人の夫とわたしもこの表紙を見てほっとしたのだが、日本のメディアは曲解し、イスラム諸国では続々と抗議が起きたのだから、やはりユーモアは「普遍化」されにくいのである。ちなみに、これまで彼らの諷刺画を嫌悪してきたフランス人が、この「シャルリー」最新号を我れ先に買い求めたのを、笑った人は多い。しかし、倒産寸前だった「シャルリー」が反イスラムを売れネタとしてきたという見方は、ぜんぜん「笑えない」。

 フランス社会で今やマイナーになった1968年五月革命のエスプリを体現する諷刺画家たち、国家の儀式や教会が大嫌いだった彼らのために、ノートル・ダム聖堂は弔鐘を鳴らし、彼らは「国民的英雄」になった。本人たちはさぞかし笑い転げているだろうと、諷刺画がたくさん描かれた。


 *これは、ヴォランスキ、カビュ、シャルブなど殺されたイラストレーターたちが占い師のところに行ったら、「あんたたち、テロリストに殺されて、ノートルダムの弔鐘が鳴らされ、オランド大統領、ヴァルス首相、サルコジ元大統領、コペ、メルケル首相、カムロン首相、ネタンヤフ首相まで来る行進があり、 三色旗がふられてラ・マルセイエーズが歌われるよ。あんたたちをパンテオンに埋葬しようと提案され、ナスダックとアカデミー・フランセーズが「私はシャルリー」と言い、ローマ教皇はあんたたちのために祈るよ・・・」と言われて、彼らは笑いくずれる。(作家 Dutreix)

3)共和国の理念

 「シャルリー」襲撃の翌日、パリの南郊外で警官を殺害した者により、2日後の1月9日にはユダヤ食品スーパー襲撃事件が起きて、犠牲者は17人になった。後者は反ユダヤ主義の行為であり、2012年3月に起きた反ユダヤの襲撃事件の記憶を思い起こさせた。犯人たちはいずれも、過激なイスラムに影響(洗脳?)された移民系のフランス人だった。

 フランスで生まれ育った彼らはなぜ、人殺しという究極の暴力行為にいたるほど、フランスとその機構すべてを憎んだのだろうか? 事件の要因のひとつに、フランス社会から排除されたと感じている若者の生きにくさがあると思う。犯人たちは児童援助のシステム(里親委託、施設)や公教育、刑務所など共和国の機構で長年を過ごしたが、それらはいずれも彼らを「迎え入れる」ことに失敗した。

 9.11につづくアフガニスタンとイラク戦争以降、フランスでは移民系にかぎらず、イスラム過激派に惹かれ、ジハーディスト(聖戦義勇兵)としてシリアなどに出向く者も出てきた。イスラエル/パレスチナ紛争、フランスのアフリカへの出兵などの世界情勢のなかで、欧米国家の「テロとの戦争」を不当に感じる人は多い。これらの問題についてここでは展開しないが、多くの若者にとって共和国の理念「自由・平等・友愛」が意味をなさない状況や、世界情勢などについては、コリン・コバヤシさんのテキストも参考になるだろう。
http://echoechanges-echoechanges.blogspot.fr/2015/01/350.html


   *撮影=Christian Fonseca 下の三枚も

 前述した排外ナショナリズムの煽りのなかで、今回のテロによって反イスラム感情が強まる危険は大きい。その一方で、反ユダヤ行為の再発を怖れる人々もいる。だからこそ、「混同を避けよう」という声が上がった。政府は、はじめ複数の市民団体がよびかけた1月11日の追悼デモ(共和国の行進)の中心に、世界各国の首脳(言論・表現の自由を迫害する国も含めて)を迎えて「テロに反する儀式」を設けた。しかし、そんな政治的な思惑とは関係なしに、フランスの市民は自発的に路上に繰り出し、パリで170万人、全国で400人近くという、1944年8月のパリ解放以来の巨大な行進になった。

 このデモのスローガンは「私はシャルリー」、「反テロ」だったかのように伝えられたが、「反テロ」と書かれたプラカードはひとつもなかった。また、「私はシャルリー」が多様な内容をあらわすことも、日本ではよく理解されていないようだ。この表現は、音楽雑誌のアート・ディレクターが、絵のために人を殺すことができることと知ったショックのなかで生み出した。彼にとってそれは、「私は自由だ、私は怖くない」を意味した。事件の日の夕方、レピュブリック広場で会った友人のひとりはすでに、「私はシャルリー」をもっていた。ボールペンや鉛筆を掲げた人々は、表現のために殺すことへの抗議と、犠牲者への連帯をあらわしていた。以後、各自が「私はシャルリー」を自分なりの意味をこめて使った。みんながこの表現を「自分のものに」したのだ。

 だから1月11日の追悼デモでは、「私はシャルリー、警官、イスラム教徒、ユダヤ人」(みんな共和国の市民、連帯しようの意)や、「大きくなったら僕はシャルリーになるんだ」、「我思う、ゆえに我はシャルリーである」といったバリエーションだけでなく、「戦争ではなくてユーモアを」、「流されるべきは血でなくてインク」、「芸術は人間的だ」など、工夫をこらした表現が掲げられた。ポール・エリュアールの詩「自由」の句もあった。また、インターネットなどで「私はシャルリーでない」と表明した人もいた。

 これほど大勢の多様な人々、出身、階層、宗教、思想の異なるさまざまな老若男女(生まれて初めてデモに来た人も大勢いた)をデモで見たのは、初めてだった。ときおり拍手がわき上がり、国歌「ラ・マルセイエーズ」を景気づけのように歌う人たちがいる。でも、国歌を歌うのが嫌いな人も大勢いるし、あまり歌詞を知らないから、大合唱にはならない。けっして「一体」ではないフランスの市民は、ともに歩いたこの歴史的な日、自由や友愛という共和国の理念に対する愛着を示したようにわたしは感じた。

 むろん、翌日からすぐに「テロとの戦争」という言葉が多発された。非宗教についての討論が組まれた。しかし一方で、「テロに対する戦争と表現してはならない」という意見や、学校での1分の黙祷に反発した生徒たちにどう対応するかを語る、歴史・地理の先生の話もメディアで紹介された。自分が共和国の一員だとは思えない、排除されたと感じている人々と、どうやってともに生きていくのか。まずは対話を始め、対話しつづけていかなければ、植民地支配やアルジェリア戦争などの「過ぎ去らない過去」が亡霊のように出現しつづけるだろう。

 力が尽きてきたので、ここでひとまず筆を置くが、最後に一つけ加えておきたい。巨大デモでスローガンにならなかった共和国の理念は、平等である。不平等がますます広がる現在の消費社会は、願望を殺すと指摘されている。願望を殺された人間は、死を望むようになるのではないだろうか。そんなことも考えつづけている。

    2015年1月18日 飛幡祐規(たかはたゆうき)


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