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25年前、22歳でシニョンに入社しました

[ワーカーズ・イシュー(1)]シニョン、労組しよう

パク・タソル、ユン・ジヨン記者 2019.06.25 16:24

[イシュー(1)シニョン、労組しよう]順序

  1. シニョンプレシジョンの労働者はLGの携帯電話を作ります
  2. 25年前、22歳でシニョンに入社しました
  3. 「男女平等賞」を受けた会社から追い出された女性労働者たち
  4. LG、下請から甘い汁だけ吸ってベトナムに行った
  5. 雇用政府の意志、女性の解雇だけは避ける?

[出処:パク・タソル記者]

25年前、22歳で入社しました

22歳で入社しました。もう25年前です。 若いので、さらに2万ウォン上乗せできると言うので受諾しました。 もちろん、結局はなかった話になりましたが。 午前9時に出勤して、午後5時30分にすぱっと退勤できるという点も良かったんです。 若い時だからいろいろやりたいことが多かったんです。 その時は月給48万ウォンを受け取りました。 同じ規模の事業場に比べて多くも少なくもないお金でした。

会社は少し古くて汚く見える建物にありました。 50坪程度でしょうか。 一部署に3〜5人ずつ、合計30人程度が働いていました。 みんな、若い娘がどれほど頑張れるか、一日か二日で出て行くだろう、と言っていましたが、 頑張っているのを見てみんな驚いたようです。 経理の姉さんと職員が、末っ子の妹に対するようにあれこれ面倒をみてくれて、 私も姉さんたちの言うことをよく聞きました。 小さくみすぼらしい会社で、職員はみんな家族のように親しく過ごしました。 その時の社長は、誠実で親切な人だったと記憶しています。 注文がない時は、直接営業に走りまわったり、 緊急の注文があれば直接ラインで働きました。 人々が残業で苦しんでいる時は、こっそり疲労回復剤を買ってくれた記憶がたくさんあります。

ああ、会社に入ってまもなく、社長の家に招待されたことがあります。 社長のお誕生日だったんです。 経理の姉さんと社長の運転手の車に乗ってその家に行きました。 一戸建て住宅でしたが、入ると庭に長いテーブルを出して 食事を並べてパーティーをしていました。 会社の人たちも集まっていて。 先に行っていた姉さんたちが食べ物を運んでいて、 「はやくきて食べなさい」と手まねしてくれたことを思い出します。 その日、奥様は私たちに家を見物させてくれました。 われわれは楽しくなって、どかどか入って行きました。 地下1階の広いヘルス室や、居間の一方にある壁暖炉、 まるで外国のような寝室まで、みんな初めて見るものでした。 われわれはその時、ただ開いた口が塞がらずに立っていました。

入ってすぐ、仕事が押し寄せ始めました。 昔に流行っていたポケベルをご存知ですか? 私たちはペンテクという所からの注文でポケベルを作り始めました。 残業がものすごく増えました。 一週間に二回、1か月に八回は残業をしました。 からだは疲れますが、姉さんたちが好きなのでムダ口をたたかずに働きました。 注文は果てしなく続きました。 50坪の工場ではとても足りない程です。 3、4年過ぎたころでしょうか。 社長が禿山洞と金浦、忠清道に工場の敷地を調べるために通い始めました。 結局、新井洞にあった会社を禿山洞に移すことにしました。 ガソリンスタンドの隣にあった赤い建物が私たちの会社になったのでした。 そこにあった会社も金型会社でしたが、ずいぶん稼いで引っ越したそうです。 その時は禿山駅もない時でした。 職員は加算駅でおりて、30分歩かなければ工場に着きません。 それでも良かったんです。 会社が私と一緒に大きくて行っているようだから。 後で会社で通勤バスも用意してくれ、その後で地下鉄の駅もできました。

1997年、そして1998年。 他の人たちにはIMFだとか何だとか、大変な歳月でしたが、 私たちは気が動転するほど仕事があった時期でした。 初めは私たちも同じように頑張りました。 営業部の課長が私たちに「1、2か月は月給をもらわずに働こう」と言ったからです。 しかし幸運にもモトローラとの契約がうまくいき、 われわれは外界と違って仕事に埋もれて暮らしました。 会社もその時はずいぶん稼ぎました。 注文が増えるだけ、人も増えました。 残業は当然、徹夜も日常茶飯事のようにしました。 アルバイトの職員が入り始めたのもその頃です。 そしてモトローラが生産を海外に移転しましたが、私たちは全く打撃はありませんでした。 1999年にLGと契約を結びました。 その時から今まで、われわれはLGの注文しか受けていません。 他の会社はさまざまな元請の注文を受けますが、 LGが彼らの注文だけを受けることを望みました。 会社はさらに多くの金を稼ぎ、事業規模はさらに大きくなりました。 2001年には本社ビルも建てました。

「いい夫と出会えない」から労働者になったのではありません

会社が絶好調の時は職員が600人に達しました。 忙しい時になると短期アルバイトを採用して使いました。 会社はどんどん大きくなるのが目に見えるのですが、 職員の暮らしはあまり変わりませんでした。 基本給はせいぜい500ウォン、1000ウォン上がっただけだからです。 変わったことと言えば、自分の時間がなくなって行ったということ。 注文が増えるので、会社は毎日残業を要求しました。 そうしなければ納期に間に合わないからと。 週5日が施行される前には月曜から日曜まで、休まずに働きました。 ここで働いている職員にはママが多かったのですが、 会社に嫌われたくなくて、残業を拒否すれば辞めろと言われるかと思って、 しかたなく仕事をしました。 昔は「ワーキングママ」のようなすてきな名前もありませんでした。 「懐の中の子供(訳注:幼いときは親の意に従うが成長すると勝手に行動しようとする)」という言葉を何ごともなく使っていた時なので、 申し訳ない思いと罪悪感に苦しんだりもしました。

そんなに忙しかったのに、会社では職員ピクニックは必ずしました。 八峰山や雲鶴山に行って、ピクニックもして、運動会もして。 他の会社がうらやましがるほどでした。 一度は観光バス5、6台を呼んで職員が遊びに行ったことがあります。 誰かがトイレに行きたいと言うので少し車を止めて外に出て休んでいる時でした。 社長が突然職員を呼び集めて、すぐ自慢をします。 それがただの自慢なら私たちも相槌を打って笑い流しますが、 誰かを傷つける言葉なので簡単には忘れられません。 その時、社長は 「私はこんなに事業が上手で、妻に外で働かせず家で暮らせるようにする。 いい夫に出会えなかった人がこうして出てきて働く」という調子で話したのです。 私たちが遅くまで働く理由は、いい夫に出会えず、 あるいは夫の能力が足りないからというのです。 天気も良くて、気持ちも良かったその日。 私たちは誰も笑えませんでした。

仕事が多い日には、管理者たちは「家庭を捨てろ」とまで言って働かせました。 果たして私たちの人生は誰かの人生より貴重ではないとか、 守られるような価値がないのかと考えながらも、またふと元気を失ったりもしました。 家族のようだと思っていた会社はあまりにも大きくなってしまい、 またとても苦しくなっていました。 会社は注文に合わせて、人を増やしたり減らしたりして、 多くのアルバイトが入ってきてまた辞めていきました。 正規職は上の階で、非正規職は下の階で作業をしたりしました。 仕事が多く、夜昼二交代をしなければならないときは、 正規職は昼、非正規職は夜を担当しました。 非正規職は正規職に転換されるかもしれないという希望のために、 2年近く夜間の作業をしたりしました。 正職員の私たちも仕事に合わせて部署を失ったり、他の部署に支援に行ったりしました。 会社が大きくなり、非正規職のアルバイトも増えました。 その時、私たちは互いを他人だと思って暮らしていました。

一度は会社の中に荒々しい噂が飛んだりもしました。 下請企業職員が私たちの会社に来た日でした。 下請企業が会社に納品した物に不良が出ると、そちらの会社の職員がきて検査します。 その職員が貨物用エレベーターに乗って足を踏みはずし、死んだそうです。 後でわかったのですが、その職員は下請企業の正職員でもない アルバイトの職員だったそうです。 いくらかの合意金で事件を解決したという話を聞きました。 子供のお母さんだそうですが。 その時に私たちは、なぜ彼らのほうから私たちを見ることができなかったのでしょうか。

私たちは手作業が多かったのです。 ホワイトの製品を扱うと、外観にシミが出る時もあって、 細かい汚れや油汚れが混じる時もありました。 そんな時はアルコールで消毒をしました。 臭いがきつくてからだに良くないだろう、漠然と考えてはいましたが、 それらがどんな薬なのかはよく知らなかったのです。 喉がつまって、息が詰まって、頭が痛くてもマスク一つ支給されませんでした。 製品の小さな汚れを取るために紙やすりもかけたので、常に粉が飛んでいました。 真っ白な粉を喉と口に吸い込みながら、 われわれはただ漠然とした考えに追われていました。 誰も私たちにアルコールの毒性や粉塵について説明してくれなかったのです。

男女雇用平等賞を受けたということ

私たちの会社が好調な時は100大企業になったといいます。 汝矣島に行くと会長の石膏像もあるんですって。 私たちの会社に来て分かりますか? 大統領がくれる賞、国務総理がくれる賞、あれこれの賞牌でいっぱいでしょう。 2012年だったか、男女雇用平等優秀賞まで受けました。 雇用労働部長官賞だそうです。 2014年にも大韓民国女性経営大賞女性部長官賞を受賞しました。 そんな賞があることも、会社がそんな賞を受けたことも、 とても後になって知りました。 受賞の理由を調べてみると、 10年以上の長期勤続者が女性で、生理休暇手当てを支払っていて、 女性休憩施設と母乳授乳室があるからだそうです。

記事を読んで事実びっくりしました。 休憩室がなくて、私たちは自分たちで休む空間を作りました。 空いた空間を見つけてソファを持ち込んで休みました。 狭い空間でした。 そして25年間会社に通って、一度も授乳室を見たことがありません。 休む空間もないのに、赤ん坊に乳を飲ませる空間がどこにありますか。 生理手当てはありましたよ。 しかしすぐになくなりました。 政府は、生理手当てを払っても払わなくてもいい、自由にしろというので、 2015年だったか、なくなりました。 特別に女性親和的な会社だと感じたことはありません。 無視すれば無視したところで、さらに用意する方はなかったです。

中でも製造部は雰囲気が一番険悪でした。 「王専務」と呼ばれた人が製造部の女性職員を監視して統制することになってからです。 その人は部署ごとに自分の味方を置いて、現場のすべての情報を独占しました。 彼の側近はみんなを監視して、憎まれた職員を締め出したり困らせました。 私たちが「チェ・スンシル」と呼んだ王専務側近の横暴は有名でした。 次長も、部長も、チェ・スンシル班長の前ではぶるぶると震えていたからです。 彼は毎日携帯メッセージばかり打っていましたが、 私たちの一挙手一投足をすべて王専務に報告していたのです。 ラインの配置も彼の気が向くままでした。 24人がしていたラインを半分に分け、不良が出ようが出まいが、 LGが決めたライン速度を勝手に上げました。 工程は増えてラインは速くなり、その時は本当に死ぬ思いでした。 時給を差別支給すると言って、憎まれた職員は月給も上げてくれませんでした。 軍規を押し付けるように脅し、侮辱的な言葉を吐きだしました。 会社がすっかり王専務中心に回っているようでした。

休暇も、月次も、私の望むとおりには取れませんでした。 私たちは元旦や秋夕のような名節の時も常に忙しかったです。 一度は秋夕を祝った数日後、療養院にいた舅が亡くなったと連絡を受けました。 はやく行かなければならないから夫が会社まで私を連れにきました。 私がなかなか出てこないので、夫が会社に連絡をしたようです。 班長はその連絡を受ても私に一言も言いませんでした。 すぐ機械から離れて出てくるべきなのに、行けと言いません。 班長はいつのまになのか消えてしまいました。 我慢できずに助長に問い詰めました。 舅が亡くなったから、はやく誰か人を探せ、 誰もいなければあなたがここに座って仕事をしろと。 後で私が出て行くのを見ながら、班長が悪口を言ったそうです。 自分が行けと言わなかったのに行ってしまったからと。

▲シン・チャンソク シニョンプレシジョン会長は奉仕、納税、男女雇用平等実現など各種の部分で政府から賞を受けた。[出処:パク・タソル記者]

バック・トゥー・ザ ベーシック

会社はいつも「難しい」と不平を言っていました。 会社が難しい、節約しなければならないと。 管理者たちは「バック・トゥー・ザ ベーシック」、基本に戻れという言葉を頻繁に使いながら暮らしました。 本来、品質検査をする時は、蛍光灯二本で作業をしていました。 照明を明るくしなければ不良を見つけられないからです。 しかし会社は節電をするからと、蛍光灯一本しかつけません。 おかげで作業者は暗くなった席に座って、かすむ目をこすりながら仕事をしました。 このアイディアを出した部長は会社から賞を受けました。 管理者はトイレまで追いかけてきました。 ごみ箱にぐるぐる丸めたトイレットペーパーがあれば写真を撮って公示をしました。 トイレットペーパーを浪費するなと。 広い作業場にエアコンがたった一台しかありませんが、それさえも節電だと言って温度を上げたので、 夏には本当に死ぬ思いでした。 よくある冷房病にかかることが望みでした。

思想室は紙やすり質もして、アルコールも触らなければならなくて、必ず手袋をはめなければなりません。 初めは会社が1か月に四つずつ手袋を支給しました。 少なくとも一週間に一度は手袋を交替しろと。 しかし後で管理者がそれも防ぎました。 無駄に使うと言って。 手袋を交換するには、穴が空いているかどうかを見られます。 穴が空けば、その時に始めて一つ変えてくれるので、私たちはお願いします。 真っ黒になった手袋を洗うのも仕事でした。 一日に二回は手袋を取り替えなければならず、 昼休みに分担して手袋を洗ってほしました。 こちこちだった手袋がすりへって柔らかくなるまで使ったりしました。 3年に一度交換した作業服も、交換周期が延びました。 作業道具も私たちが直接金型加工するおじさんにお願いして購買しました。

会社はどんどん大きくなるのに、なぜいつも難しいとだけ言うのだろうか。 2004年からずっと売上額が1千億が越えるというが、 禿山洞ではLGの次に大きな会社になったというのに、 なぜずっとわれわれは難しくなるのか。 不思議に思っても、ただ我慢して信じました。 外から見る会社のイメージと、内部の私たちの日常はずいぶん違いました。 他の会社の人は私たちがとてもたくさん月給をもらっていると考えていました。 20年以上勤続の職員も、ギリギリまで残業特別勤務をしてやっと200万ウォンほどを稼ぐという事実を、 とても他の人々には話せませんでした。 社長はあちこちで寄付王として名前を上げましたが、 それは私たちの人生とはとてもかけ離れた童話のような話でした。

7年前に現場にばくぜんと広がった、社長がゴルフ場を作るといったといううわさ。 その時はなぜその話をただ聞き流したのでしょうか。 われわれは結局このように時間が経った後、 労働組合を結成してから知りました。 私たちが死ぬほど働いて稼いだ金が、社長一家のゴルフ場に流れて行ったという事実をです。 私たちの前ではいつも会社が危機だと怖がらせながら、 裏では470億ウォンをはるかに越える金をゴルフ場に注ぎ込みました。 低い賃金に耐えながら休むこともできないまま、 手袋だけでぶるぶる震えながら生き延びたその時間が、 あれほど空しい姿で現れるとは夢にも思いませんでした。

労働組合を作ってから初めてそのゴルフ場に行きました。 青くて新鮮な木と芝が眩くて、かっとしました。 とてもうかつに踏み入れることができない程、美しいところでした。 高級できれいなクラブハウスも、陽光を受けて輝く噴水も非現実的でした。 25年前、社長の自宅に遊びに行った日のように、 私は相変らず開いた口が塞がらずに立っていました。 私が生きてきた数十年の時間がここに流れ込んで、 私には貧弱な感じと痩せこけた感じしか残らなかったというくやしさのためだったでしょう。

また歩くことになる出勤の交通

この前、思春期のまっただ中のうちの子がテレビを見て尋ねました。 「私たちの周辺にはあんな人いないでしょう?」 テレビの画面には、労働組合がデモをする場面が出てきていました。 あわてて、話をごまかしながら、以前の私の姿を思い出すのは仕方ありませんでした。 労働組合が何なのかも知らず、私がその中にいるとは想像もできなかったその時期。 時間が経ち、子供にどう説明するかと考えて、 2017年の時の鬱憤を思い出しました。 会社は交代制を改編すると言いながら、 男職員の賃金だけを上げました。 同じ条件で、同じ時間、全く同じ仕事をしたのに、男の月給だけが上がりました。 仕事をしながら、ふとわきあがる鬱憤をぎゅっと飲み込まなければなりませんでした。 しかし悔しさをぎゅうぎゅう押し込むだけでは何も変わらないと思いました。 それで私たちは集まり、その鬱憤に充ちた多くの言葉の間で 「労働組合」という単語を聞きました。

2017年12月、私たちは労組を結成しました。 すると会社は数日後に名誉退職施行を公告しました。 そして7か月後の翌年7月、私たちを解雇しました。 信じられませんでした。 会社の事情はいつも苦しくなってもまた良くなりましたし、 似たような危機がなかったわけではありませんでした。 そのたびに雇用維持の支援を受けながら、会社はずっと大きくてなりました。 これほどまでする理由は何か、いくら考えてみても労組を作った「不敬罪」だという考えを消すことができません。 整理解雇対象者の88%が女性だということも理解できませんでした。 私たちは解雇を受け入れることができませんでした。

昨年11月23日、ソウル地方労働委員会は私たちの不当解雇を認めました。 当然、勝つと何度も繰り返して言ったその判決が現実になった時、 言葉にできない安堵感と喜びがみなぎりました。 一度も楯突くことを考えなかった会社を相手に私たちが勝った。 そうして私たちは6か月ぶりに復職しました。 しかし私たちが復職する日。 私たちが半年ぶりに戻ったその現場で、 会社は三時間でまた名誉退職施行を公告しました。 今は会社を清算するというのです。 組合員ではない職員は、会社の名札と作業服を机の上に置いてこの工場から出ていきました。 どうして彼らはこれほど全てのことが簡単なのでしょうか。 皆が共に作り、積みあげた生活の一部を、 なぜ彼らが勝手に壊すのでしょうか。 私たちは結局復職10日で次年度と通知を受けました。

私たちは今、6か月以上工場を占拠しています。 冬と春を工場で過ごしました。 25年の歳月を積みあげて作ったそこを、ただ崩れるまま置いておくことはできませんでした。 3月に会社は私たちが工場を不法に占拠したため損害が発生しているとし、 17億ウォンの損害賠償額を通知しました。 17億ウォン。 生まれてから一度も見たことないその金を十分に考え、また十分に考えました。 計算をしてみると、組合員1人が座込場で一日過ごすと発生する賠償額が17万ウォンでした。 冷たく硬い床に横になって、誰かが夜に攻め込むかと思って不安に震えたその寝床が一日で17万ウォンなのですか。

この前、座込場で横になって前に読んだ記事を思い出しました。 私たちが解雇されたその年。 社長と奥さんがゴルフ場の優秀職員を連れてタイに海外ワークショップに行ったという記事でした。 われわれはいつも「右水社員」、「模範社員」を強要されながら暮らしました。 残業を欠かさず、管理者の言うことをよく聞く職員に模範社員賞を授けたりもしました。 しかし社長は、果たしてシン・チャンソク社長は模範的な事業主だったのでしょうか?

一度も歌ったことがない闘争の歌と、ぎごちなかった拳も今はからだに馴染んで行きます。 おずおずしているばかりだった1人デモも、今はよくします。 遠方まで連帯に行くのがとてもつらくて、口をもごもごさせたこともずいぶん前のことのようです。 互いに頼りあい、行動するということがどれほど涙が出るほどうれしくてありがたいことか、今はよく分かります。 私たち46人の組合員が一緒にいれば、どんなことでもできると思うようになりました。 昨日はLG本社にデモをしに行きました。 よりによって出勤時間でした。 九老デジタル団地で乗換えようとバスからおりると、 出勤する人波が大きな波のように押し寄せました。 その時にふと私も本当に熱心に暮らしてきたんだなあ、という気がしました。 そして私が行くこの道が出勤の道だったらいいという切実な気持ちも強くなり始めました。 まだ遠いこの道をずっと歩いていけば、 いつかは私も以前のように忙しい出勤をしているでしょう。[ワーカーズ56号]

※この記事は金属労組シニョンプレシジョン分会組合員3人のインタビューを再構成した文です。

原文(ワーカーズ/チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2019-07-04 06:00:19 / Last modified on 2019-07-04 19:13:03 Copyright: Default

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