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News Item 20170904
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万病の根源

[ワーカーズ イシュー] 1997.1121.20000.982

キム・ハンジュ、パク・タソル、ユン・ジヨン記者 2017.09.01 11:32

「アカ」、チェ・ゴンビョン

チェ・ゴンビョン(61)氏は慶南のある自動車部品の塗装会社で 嘱託職(元請が直接雇用した短期契約職)として働いている。 一昨年、この工場に日雇職として入った後、正規職を経て、嘱託職の身分になった。 安定的であるわけではないが、それでも大きな不満もない。 彼の雇用は常に劣悪だったし、似たり寄ったりだった。 これまでに味わった苦痛と挫折を思い出させないのなら、 それでも耐えられるものだった。

外国為替危機が迫った98年、チェ氏はS重工業に通っていた。 防衛産業に必要な大砲を作り、現代、双竜などの完成車会社に部品も出す納品社だった。 外国為替危機の時、会社は阿鼻地獄だった。 賃金は10か月分が未払いになり、支払い不能の危機の中で会社は退職を勧めた。 労働組合活動をしていたチェ氏は、会社と政府を相手に長い戦いを始めた。

政府は支払い保証をすると言ってなだめたが、連帯保証人が必要だった。 書類審査を通過できた労働者は一人もいなかった。 状況判断が欠如したとんでもない政策は労組を刺激し、 労働部と国会、青瓦台の前はデモ隊で沸き立った。 どれほどの人々が憤ったのか、中隊の兵力はおじけづいてみな散ってしまった。 激しいデモを行いながら歩き回って1か月。 政府から「では職員が互いに保証人になれ」という答を引き出した。

だが実際に現場に戻ると仕事がなかった。 職員は一か月ずつ休みながら、循環勤務をした。 チェ氏は工場に行かない日には人材事務所を訪れたが、いつも徒労になった。 人材事務所は解雇された人々でいっぱいだった。 その間、会社は法定管理に入り、2000年には民間業者に買収された。 新しく赴任した社長は「吸血鬼になる」と就任第一声を明らかにした。 下請から吸い上げて生き残るという、殺伐とした話だった。

景気回復とは別に会社の危機は続き、循環休職などの措置が続いた。 構造調整1順位は労組の組合員たちだった。 他の部署に発令を出し、復職した組合員たちを困らせた。 復職できない11人の同僚がいつもありありと目に浮かんだ。

粘るのがつらく感じられる頃、チェ氏は崩れた。 激しい頭痛を病んだ彼は、ある日、工場で働いている時に倒れた。 チェ氏は入院している間、ずっと泣いた。 会社を考えると絶望の中に吸い込まれていくようで耐え難かった。 担当の医師は彼に精神病棟に移ることを薦めた。 医師は所見書に「ストレスによる適応障害」と書いた。 そしてチェ氏は3年間、入院と退院を繰り返した。 家族の他には面会もできない所で毎晩注射を打たなければ眠れなかった。 解雇無効訴訟に敗訴したチェ氏は、労災申請もできないまま、 なんとか治療費1千万ウォンを手に握った。

退院後、生計のために建設現場に出て行ったが、電動ドライバーを持つのもつらかった。 手がひどく震えてねじ一つ打ち込むのも大変だった。 2007年にはアパート警備に就職した。 浮き立った気持ちで出勤したそこが悪夢になるとは夢にも思わなかった。 そのアパートに住んでいたS重工業の管理職が彼を調べた。 そしてチェ氏が「アカ」だといううわさを立てた。 アパートの警備班長は警察出身だった。 班長はチェ氏を執拗に困らせた。 結局、彼は一週間でアパート警備室から飛び出した。

その後、冷蔵庫部品組み立て工場、工場夜間警備などを転々としたが、 ぼろぼろの体は粘れなかった。 誰かが自分を調べるかも知れないという不安感に戦々恐々とした。 その渦中で軍隊に行った息子が列外扱いされたという話を聞いた。 父親のチェ氏の身上に「社会的反抗」と記されていたせいだ。 それでも食べていかなければならなかった。 また人材事務所に出入りした。 どんな事でも見つかり次第やった。 建設現場で水害があれば土嚢を積み、トンネルに入り、電気設備を手伝い、 道路工事では地面を磨いた。 からだと記憶が鈍る仕事をした。 だが歳月も彼の苦痛を消せなかった。 増えるのは自責だけだ。 私の息子に、そして若い世代に、何の慰めの言葉もかけられない自分がただ恥ずかしい。 明らかに世の中は変わったが、現実は何も変わっていない。

作家志望者キム・グァンソク

キム・グァンソク(35)氏の夢は作家だ。 今は水原のあるコンビニでアルバイトをしている。 キム氏は棚を整理して、レジをして、整理をする時々に文を書く。 それでキム氏は夜間勤務が良かった。 昼間はまったく時間がないからだ。 だが昨年末、夜間勤務中だったコンビニアルバイト労働者が殺される事件が発生した後、不安感で文が書けない。 すぐそんなことがあっても、対応できないのは相変わらずだからだ。

非正規職アルバイトをしながら作家を夢見ているので、ひどい生活の条件になった。 彼が稼ぐ月100万ウォンは、ただ生存を維持するための費用だった。 両親に住宅保証金を借りられなければ、さらに何を諦めなければならなかったのだろうか。 最後の恋愛は5年前。 一日のデート費用として数万ウォンは基本だ。 さらに高収入の職業を見つけるまで、恋愛は不可能だった。 それでも彼は作家という夢を諦められなかった。 それさえ諦めれば、この社会に完全に屈服するような気がした。 文を書くことが社会に抵抗することだという信頼を持つまで、彼はかなり長く胸を痛めた。

作家になることは就職より難しかった。 IMF事態を体験して、本格的に非正規職が量産された時に大学に入学した同期は、 正規職に向かってがむしゃらに走った。 いわゆる名門大の卒業証書を持っているので、準備さえうまくやれば、うまく就職はできた。 同期が一つ二つと職場を持って落ち着き始めて、平常心を失った。 他の人と比較しないようにしようと自ら約束したが、 深まる孤立感はどうする方法もなかった。 結局、卒業後2〜3年間、恐慌障害を病んだ。 薬剤治療も受けた彼は、自炊生活をやめて家族と一緒に暮らすことにした。 そして生活を正常軌道にのせるために、安定した職業を探した。 鷺梁津で2年ほど公務員試験の準備をした。

メディアだけで接していた暗鬱な鷺梁津の風景と毎日向き合った。 誰もが地団駄を踏んだが、夢をかなえて鷺梁津から出て行く人々は少数であった。 勉強をすればするほど道を誤ったという思いを拭えなかった。 先を行っているように見えた同期も、ある瞬間うらやましくなくなった。 誰かは「精神勝利」だと笑ったが、そうでもなかった。 就業戦線に飛び込んだ友人も死ぬ直前なのは同じだった。 皆、生活の満足なく、どこかへ脱出を夢見た。

平凡な職場を持つことを望む両親との摩擦が頻繁になった。 両親は経済的余裕がある人だったが、「安定した職場」を持たない以上、一切助けないと釘を打ち込んだ。 一人立ちのための金儲けは思わしくなかった。 彼の賃金は最低賃金を越えるのが難しかった。 放課後教師、入試学院講師、課外などを転々としたが、収入は少なかった。 同じ境遇の名門大出身学院講師はあちこちに散らばっていた。

同じように不安定だが、時々文章ぐらいは書けるコンビニのアルバイトを選んだのは、 昨年8月からだ。 キム氏の両親はIMF外国為替危機以後、むしろ暮らしが豊かになった。 教師だったお父さんは平坦な職場生活をしていたし、お母さんは財テクで金を稼いだ。 高校生だったキム氏は変だと感じた。 キム氏の家計の事情が良くなるほど、友人の家はずっと低迷していた。 高校2年の時、キム氏の友だちはよく泣いていた。 崩壊する家庭に絶望して、できることがなくて自ら叱責した。 名門大と就職に成功できなければ死ぬかも知れないという恐怖が芽生えた。 生存と落伍の別れ目が明らかになった。

その道の上で、キム氏は軌道から離脱することを決心した。 選択肢がなければ作れば良いと気持ちを引き締めた。 彼は相変らず誰かが非難した彼の選択が、いつかは新しい道になると信じている。

原文(ワーカーズ/チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2017-09-10 23:44:56 / Last modified on 2017-09-10 23:44:57 Copyright: Default

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