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韓国: #24: イシュー 遺体奪取、強制解剖の長い歴史 | |
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遺体に対する悲しいオマージュ[ワーカーズ24号/イシュー]遺体奪取、強制解剖の長い歴史
シン・ナリ、ユン・ジヨン記者 2016.10.25 14:30
![]() 遺体奪取、強制解剖検査事件の中心には、いつも公権力があった。 そして被害者はいつも国家暴力の犠牲者だった。 国家は自分が犯した暴力をさらに大きな暴力で隠そうとした。 こうした猟奇的事件は50年間、飽きもせず続いてきた。 独裁政権も、民主政府も、国家暴力と隠蔽の陰から自由でなかった。 ワーカーズは1960年から2014年まで、公権力が遺体を奪取したり強制解剖検査を試みた15件(20人)の事件を集合した。 調査の結果、被害者の職業群は労働者、学生、障害露天商、貰入者などだった。 そして彼らは反政府デモに参加したり、政府、資本に反対する闘争に加担したという共通点があった。 死亡の理由は公権力による暴力、焼身、疑問死などだ。 国家暴力死亡者の遺族が公権力の解剖検査を避ける理由は「過去の経験」と相対している。 歴代の遺体奪取、強制解剖検査事件で、政権が自分たちの暴力容疑を認めたのは一件もない。 むしろ公権力は死因を歪めたり闘争を鎮圧する口実として解剖検査を活用してきた。 暗鬱なことは、加害政権が退陣しても、事件の真相はきちんと糾明されないという点だ。 真相究明のゴールデンタイムをのがした事件が残した「ダイイング・メッセージ」は時間が経つほどに不明瞭になっていった。 20年前のシグナル、相変らず疑問死として残る1995年11月28日。暴力的な露店摘発に抗議して櫓に上がった障害露天商のイ・ドギン氏が仁川近海に死体になって浮んだ。 全身にあざがあり、両手は縄で縛られていた。 警察が霊安室に押し寄せて遺体を奪取した。 遺族の同意ない強制解剖検査がなされた。 解剖検査の結果は溺死。 遺族は真相究明を要求したが、事件は疑問死として残った。 「殴られて死んだのは確実です。 遺体にアザができていて、二つの目もめちゃくちゃでした。 殴り殺したことがばれるかと思って遺体を盗み、ずたずたにしたのでしょう」。 イ・ドギン烈士の父親は、まだ息子の最後の姿を覚えている。 目の前で真実を盗まれた記憶も生々しい。 父親は警察が明らかにした死因を考えれば今もあきれる。 「水に落ちて死んだそうだ。 沿岸の埠頭で泳いで疲れて死んだ後、流されてきたものだと言いました。 死んでからはアザができないでしょう。 ところが遺体にあったあの多くのアザについて警察は説明しませんでした。」 1991年5月6日。 韓進重工業労組り委員長だったパク・チャンス氏が病院で死亡した。 労組活動をして安養刑務所に収監された彼は、安全企画部(現在国家情報院)の監視を受けていた。 疑問の男性が彼の病室に来た日、彼は変死体になって発見された。 死亡の翌日、警察1千余人が霊安室の壁を破って彼の遺体を奪取した。 警察が明らかにした死因は投身自殺。 だが彼が飛び降りたという屋上の扉は鉄格子と鍵で堅く閉じられていた。 解けない疑惑があまりにも多かったが、それらの疑惑は25年経った今も「疑問死」という亡霊になってさまようだけだ 「政府と会社はパク・チャンス委員長の当選後、労組を強硬労組と烙印しました。 安全企画部職員が労組を内偵して、影島警察署、影島区庁、釜山市庁、釜山安全企画部が共同で労組活動を監視しました。 収監されたパク・チャンス委員長にも緻密に脱退を勧めました。 組合員たちはパク・チャンス委員長が安全企画部工作によって殺されたという疑問を提起してきました」。 疑問死真相究明委員会の調査官として活動しながら、パク・チャンス烈士の死を明らかにしようとしたパク・ソンホ韓進重工業組合員の話だ。 1986年にトンファガスのシン・ホス労働者死亡事件もこれと似ている。 シン・ホス氏は刑事に連行された後、変死体になって洞窟で発見された。 警察は解剖検査と遺体の仮埋葬を終えた後に遺族にこれを通知した。 事件は自殺による変死事件として歪曲された。 1991年に警察の強制鎮圧で死亡した成均館大生キム・ギジョン氏の場合も、多くの衝突が発生した。 警察が病院霊安室の壁を壊して遺体を奪取しようとしたが、学生の抵抗で失敗した。 その後、遺族との合意の下で解剖検査をしたが、警察は「強制鎮圧による死亡」を認めなかった。 2009年、強制撤去に反対して、櫓に上がり、警察特殊部隊の鎮圧過程で撤去民5人が火災で亡くなった竜山惨事でも、警察は遺族の同意なく遺体を奪取して解剖検査を強行した。 竜山惨事真相究明委員会のイ・ウォノ事務局長は「他の死亡原因が出てくる可能性を未然に遮断、防止するために、急いで解剖検査したのではないかという疑惑がある」とし 「死因を操作したかどうかは、遺族や運動陣営が明らかにするのは容易ではない。 疑惑だけ拡大し続ける様相になった」と説明した。 彼ら5人の死をめぐる釈然としない疑惑は相変らず「迷宮」に残っている。 遺体をめぐるもうひとつの秘密遺体奪取の目的は死因の操作だけではない。 疑問死だけでなく、烈士の焼身死のような事件でも、遺体奪取は一二度ではなかった。 警察の目的は、早期に死体を収容してしまうこと。 つまり、烈士闘争の拡大を早期に鎮圧しようとすることにある。
▲写真/ジョンウン記者 1986年と1987年に焼身したパク・ヨンジン、ピョ・ジョンドゥ労働烈士事件で、警察は素早く遺体を奪取した。 そして証拠を隠滅するかのように遺体を火葬した後、野山に撒いた。 1987年の労働者大闘争の時に催涙弾にあたって死亡した大宇造船労働者のイ・ソクキュ烈士事件では、さらに露骨な遺体奪取が行われた。 数千人の労働者、在野の人々の葬儀行列の途中に突然トラックと武装警官たちが襲い、 遺体を奪取していった。 パク・ウンス(1987年)、イ・ヨンイル(1990年)、ソン・ソクヨン(1991年)、チェ・ジョンファン(1995年)烈士はすべて焼身で死亡したが、 警察は霊安室を侵奪したり遺体運柩行列を襲う方式で遺体を奪取した。 パク・キョンソク障害者差別撤廃連帯代表は 「障害露天商のチェ・ジョンファン烈士が亡くなった後、労働、貧民、青年、障害者団体が集まって葬儀闘争を準備していた。 延世大学校で葬儀をするために江南病院から学校に遺体を運ぶ過程で、警察が強制的に遺体を奪取した」と説明した。 パク代表は、95年に発生した二件の遺体侵奪を契機として文民政府の本質があらわれたと回想した。 「当時は金泳三政権の支持率がとても高かった時です。 軍事独裁から文民政府に変わったという期待感が強かった時でした。 社会運動陣営内でも、軍事独裁の時の過激闘争をするべきなかどうかに対する問題提起もありました。 しかし文民政府になっても、チェ・ジョンファン、イ・ドギン烈士の遺体侵奪事件が起きました。 貧民、弱者に対する態度は独裁政権と違わないことを見せる事件でした。」 最も最近の遺体奪取事件として記録されたのは、2014年に発生したサムスン電子サービス労働者、ヨム・ホソク氏のケース合だ。 労組弾圧に抗議してヨム・ホソク烈士が自決した翌日、警察300人が葬儀場に入り込み、遺体を奪取した。 サムスン電子サービス支会のラ・ドゥシク支会長は 「普通、遺体がない状態で闘争するのは難しい。 警察としては遺体を奪って葬儀を行ってしまえば闘争が分散するという期待があったのだろう」と説明した。 遺体奪取後も骨壷をめぐる奪取の論議がおきた。 組合員たちはまだどこにヨム・ホソク烈士が安置されているのかわからない。 ラ・ドゥシク支会長は「火葬場でも警官たちが押し込んで骨壷を持ち出して行った」とし 「親父の話では、正東津に遺灰をまいたというが、正確には分からない」と話した。 彼らは違うのか「軍事独裁の時のような事だ」。 遺体奪取、強制解剖検査の取材過程で、一番良く関係者が打ち明けた言葉だ。 実際に1995年のイ・ドギン烈士強制解剖検査以後、2009年の竜山惨事までの約15年間、 遺体奪取など警察の露骨な蛮行はしばらく痕跡がなかった。 いわゆる「民主政府」になった時期だった。 だが「遺体奪取」や「強制解剖検査」のように、極端な行為がイメージ化されなかっただけだ。 相変らず国家暴力は存在し、国家暴力犠牲者に対する死因の歪曲はなくならなかった。 盧武鉉政権時期の2005年11月15日、全国農民大会で二人の農民が警察の強制鎮圧で死亡した。 当時死亡したチョン・ヨンチョル農民烈士は集会の時に警察から頭と右目、胸を殴打された。 そして17日に脳出血で倒れて集中治療室に入院し、24日未明に死亡した。 警察は責任を認めなかった。 「家の前で倒れて頭に負傷した」というのが警察の主張だった。 結局、解剖検査が行われた。 だが国立科学捜査研究所(国科捜)は「倒れて頭の後方に損傷を受け、脳出血で死亡した」という解剖検査結果を発表し、警察の主張を認めた。 農民と市民社会、医療界は、政府が故人の死亡を隠蔽、操作していると反発した。 農民たちは今も盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の時期が一番厳酷な「国家暴力」の時期として記憶している。 全国農民会総連盟(全農)のチョ・ビョンオク事務総長は 「民主政府という言葉が面目を失うほど、警察暴力の水準は想像以上だった」と当時を回想した。 「盧武鉉政権の時に警察は直接的な物理力を行使しました。 棒と盾を振り回し、直接暴行をする方式でした。 事実、車壁、放水銃よりもはるかに厳酷でした。 一度集会をすれば路上に血が飛び散ったからです。 農民が死んでもこうした悪循環は繰り返されました。」 疑問死真相究明委員会のカン・サング元調査官は 「国家暴力は民主政府の時にも存在した。 農民烈士死亡事件をはじめ、平沢米軍基地強制鎮圧などでも深刻な国家暴力があらわれた」とし 「暴力の様相において、さらに露骨で卑劣な方式で進められるか、そうではないのかの違いが存在するだけ」と説明した。 時間が経てば誰かは真実を明らかにするのではないだろうか国家が隠そうとした事件の真相を究明する動きもあった。 金大中(キム・デジュン)政府の時期に、大統領直属疑問死真相究明委員会(疑問死委員会)が発足した。 疑問死委員会第1、2期の活動は、盧武鉉政権の時期まで4年ほど続いた。 疑問死委員会が発足するまで、遺族たちは20年間、座り込みと署名運動、キャンペーンなどのつらい活動をしなければならなかった。 だが国家暴力事件の痕跡は、他の事件よりしっかり隠蔽されていた。 第1期疑問死委員会が調べた83件の事件のうち、63件(76%)が真相究明不能あるいは棄却と決定された。 第2期疑問死委員会も44件のうち33件(75%)を真相究明不能、棄却、却下と決定した。 パク・チャンス、イ・ドギン烈士事件の場合も、容疑者の特定どころか死亡原因さえわからない。 調査権限だけでは関連機関の隠蔽、政府の非協力という壁を越えられなかった。 カン・サング元調査官は 「セウォル号特調委の限界と全く同じだ。 捜査権がなければ何もできない」とし 「同行命令、資料要請も拒否されればそれまでだ。 調査だけで真相を糾明し抜くのは難しい」と打ち明けた。 パク・チャンス烈士事件の調査にも明らかな限界があった。 当時、事件を調査したパク・ソンホ元調査官は 「国家が介入した事件なので、周辺の人物は証人出席を回避した。 国家情報院と韓進重工業会社は非協調的な行為をはばからなかった」と回想した。 彼は歳月が流れても、政権が変わっても、国家暴力は相変らず20年の歳月を越えられずにいると話した。 「政権が変わっても、国家暴力事件は解決するものではありません。 真相究明委員会の法と権限が強化されなくては、むしろ政府に免罪符を与える法になってしまいます。 われわれははっきり確認しました。 遺族と団体の意志とは完全に違う方向で法が制定されたことをです。」 1995年に死亡したイ・ドギン烈士の場合、疑問死委員会は「民主化運動に関して公権力の違法な行使で死亡した」と決定した。 だが6年後、民主化運動名誉回復補償審議員会はこの事件を不認定にした。 遺族はもはやどんな政府も信じられなくなった。 結局、2009年、遺族はイ・ドギン烈士事件を自ら撤回して直接息子の死を明らかにするための活動を続けている。 国家暴力は歳月が流れても、政権が更迭されても真相が糾明されるのではない。 むしろ暴力の証拠が歪曲され、真相究明はさらに困難になる。 ペク・ナムギ農民の遺族と市民社会が『特検導入』と『政府謝罪』を粘り強く要求するのもこうした理由だ。 われわれは果たして50余年間、韓国社会をさまよう『遺体奪取』と『強制解剖検査』の亡霊を追い出すことができるのだろうか。(ワーカーズ24号) 翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2016-10-30 23:33:48 / Last modified on 2016-10-30 23:33:50 Copyright: Default 世界のニュース | 韓国のニュース | 上の階層へ | |