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民主労総キム・ジンスク指導委員、絶望の85号クレーンで座り込みに突入

「85号クレーンの意味を知っているので悩んだ、ヒトリガのようにクレーンの上に上がる。」

キム・ヨンウク記者 2011.01.06 11:41

1月6日(木)午前5時40分頃、86年に韓進重工業を解雇された民主労総釜山本部の キム・ジンスク指導委員が単独で35mの韓進重工業85号ジブクレーンに上がり、 高空籠城を始めた。キム・ジンスク指導委員が座り込みに突入した85号クレー ンは、2003年に韓進重工業の構造調整中断と勤労条件改善のために、当時の労 組支会長だった故キム・ジュイク前支会長が129日間座り込みをして首吊り自殺 したクレーンだ。

[出処:金属労組釜山梁山支部]

韓進重工業労使は1月5日(水)午後5時30分から2時間、整理解雇問題をめぐる 2回目の労使協議を進めたが、特別な結論を出せなかった。労組によれば、 社側は『追加の希望退職を受け付ける』意向を明らかにした。

キム・ジンスク指導委員は、6日午前5時40分頃、民主労総釜山本部のファン・ イラ相談部長に「机の上に手紙がある」という携帯メールを送った。キム・ ジンスク指導委員は手紙で『昨年2月26日、構造調整の中断に合意した後、韓進で 3千人以上の労働者が切られ、設計室が閉鎖され、蔚山工場が閉鎖され、大多浦 もすぐにそうなるだろう、300人を越える労働者が強制休職された」、「だが、 また400人を切るというのです。下請まで千人以上が切られるでしょう。黒字 企業の韓進重工業で1年もたたないうちに起きました」と嘆いた。

こうした韓進重工業の状況は、2003年に85号クレーンでキム・ジュイク前支会長 が自決した状況と似ている。当時、キム・ジュイク前支会長は遺書で「1年当期 純益の1.5倍、2.5倍を株主に払う経営陣、そして労働者に会社が苦しいからと 賃金の凍結を強要する経営陣。それほど苦しい会社の会長はいくらなのかも 分からないほど巨額の年俸に、50億ウォン程度の賠償金まで持っていき、また 1年に3千5百億ウォンの負債も返すという。こんな会社が強要する賃金凍結を どの労働組合、どの組合員が受け入れるだろうか?」と嘆いた。

この時も韓進重工業は前年の売り上げ目標を超えて数百億ウォンの黒字をあげ、 労組弾圧が深刻だった2003年にも2月末を基準に1年分の目標量だった9億ドルを はるかに超える12億ドルの受注実績を記録した。しかし当時、社側は賃金団体 交渉で不誠実な態度を取り続け、むしろ労組に積極的な組合員に一方的な教育 命令を出して無給休暇の使用を強要するなど、労組弾圧の議論で問題になった。

また労組幹部の拘束、懲戒、損害賠償請求・仮差押さえ、交渉回避まで、悪ど い労組弾圧政策も、社会的な問題になった。こうした状況で、故キム・ジュイク 支会長は、使用者側との間で賃金団体協議が解決するまで129日間、85号 クレーンで高空籠城を行い、自殺という最後の選択をした。

故キム・ジュイク前支会長と共に労働運動をして、この事実をよく知っている キム・ジンスク指導委員は、「85号クレーンの意味を知っているのでずいぶん 悩んだ」と述べた。金指導委員は「2003年にも使用者側が労使合意を破ったた め、二人が死にました。ここにまた一匹の蝿の命がヒトリガのようにクレーン の上に這い上がります」と述べた。金委員は「韓進重工業で平凡ではない生活 を送り、多くの決断の瞬間がありましたが、今回の決断を前にいろいろと悩み ました。85号クレーンの意味を知っていますから..」とし「すべての韓進組合員 がなければ生きている理由はありません。私ができることをつくし、組合員を 守ります」と85号クレーン座り込み突入の心情を明らかにした。

[出処:金属労組釜山梁山支部]

知らせを聞いた金属労組韓進重工業支会は、緊急に現場に労組幹部を配置した。 また、金属労組、民主労総釜山本部、韓進重工業支会などは緊急に会議を開き、 キム・ジンスク指導委員の安全と整理解雇撤回闘争方向をめぐり議論している。 労組はこの日の午前11時、85号クレーンの下で『整理解雇撤回』を要求する 組合員集会を開く予定だ。

キム・ジンスク指導委員は1981年7月、韓進重工業の前身である大韓造船公社 職業訓練院で3か月間溶接教育を受け、1981年10月1日大韓造船公社に正式に入社 し船台組立課で溶接をしてきた。金指導委員は86年7月、労組代議員活動をして 『名誉失墜、上司命令不服従』などの理由で解雇された後、25年間解雇状態だ。 金指導委員は解雇された後も民主労組のために闘争し、現在は民主労総釜山本部 指導委員として活動している。

キム・ジンスク指導委員が85号クレーンに上がる前に書いた手紙

1月3日朝、寝袋でもなく、ふとんを持って出勤するおじさんを見ました。
新年初出勤の日、野宿座り込みをするおじさんの気持ちはどうでしょうか。
この冬、市庁広場の冷たい地面で夜を明かす家長にふとんを買った妻はどんな気持ちだったでしょう。
生きたいのです。皆何とか粘って生き残りたいのです。
昨年2月26日、構造調整の中断に合意した後、韓進は3千人以上の労働者が切られ、設計室が閉鎖され、蔚山工場が閉鎖され、大多浦もすぐそうなるでしょう、300人が越える労働者が強制休職されました。

名誉退職の圧迫に苦しんだパク・ポムス、ソン・ギュヨルの2人が同じ理由で亡 くなりました。ところがまた400人を切るのです。下請まで千人以上切られるで しょう。黒字企業の韓進重工業で1年もたたないうちに起きたのです。

その蝿の命たちを酒の肴にして、会長と息子さんは配当金176億で
ぐうだらな祭りをしました。整理解雇発表次の日。

2003年にも使用者側が労使合意を破ったため二人が死にました。
ここにまた一匹の蝿の命がヒトリガのようにクレーンの上に這い上がります。

21歳で入社した後、韓進と本当に強い悪縁を続けてきました。
二十六で解雇され対共分室に3回連れていかれ、懲役に二回行き、
手配生活を5年して、釜山市内のすべての警察署に行き、そのような青春が過ぎ
五十二歳になりました。海千山千みな体験して考えましたが最大の峠が残りました。
平凡ではない生活を送り、多くの決断の瞬間がありましたが
今回の決断を前に一番悩みました。85号クレーンの意味を知っているので..
この1年、座っても針の筵、横になってもトゲのふとんでした。
寝ていてもむくっと起きて座り、不眠の夜になります。
こうして組合員が切られていくのを目を開けて見ていられません。
もうこれ以上避けられず、正面からぶつかる戦いだと思いました。
すべての韓進組合員がいなければ生きる理由がありません。
私ができることをつくし、組合員を守ります。
双竜車は玉砕ストライキで分裂したのではなく、リストが発表された後
生きている者、死んだ者に分かれて、闘争が難しくなったのです。

先日の日曜。2003年以後、初めてボイラーをつけました。
靴下を履いても体が冷えてきたのですが、本当に床が暖かかったです。
暖かい部屋の床を後にして出ていくのはこれほど寂しく残念ですが
ジュイク氏は... ジェギュ先輩はどれほど踏みつけられることが多くくやしいことも多かったでしょう。
喉が詰まるほど叫び、また叫んでみる組合員同志の皆さん!

キム・ジンスク拝

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2011-01-06 20:10:20 / Last modified on 2011-01-06 20:10:26 Copyright: Default

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