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7年の歳月、光化門の車壁は崩れたのか?

[質問]

ランヒ(人権運動空間弓) 2021.05.12 08:48

[出処:ホン・ジノン]

4月10日のセウォル号7周年を控えて 真相究明の約束履行を要求するピケッティングに参加した。 プラカードとキャンドルが光化門の大韓教育保険ビルの前から景福宮駅を経て 青雲孝子洞住民センターまで続いた。 新型コロナで一か所に集まれず、 真相を究明しろという大きなスローガンも叫べなかったが、 セウォル号惨事を忘れない人々が相変らず自分ができる行動で通りを満たした。

私もピケッティングをするために歩いていくと、 突然警察がここは通れないと防いだ。 「ここ」は米国大使館の前で、他の人たちはそこを自由に通っていた。 私がプラカードとキャンドルを持っていたことが止められた理由だった。 大使館前に立つつもりもなく、通るだけだといったが、 警察は私たちの一行だけは戻れと命令した。 他の人たちは通れる所を私たちだけが戻らなければならないことは受け入れられなかった。 われわれはそれはだめだとひと悶着あった後に、 警察は一緒に大使館の前を通ろうと言って監視と違わない引率をした。 当時はとても腹が立って聞くことができなかったが、 ピケッティングする間ずっとなぜ誰がこんな指示をしたのか、 怒りの疑問が離れなかった。 朴槿恵(パク・クネ)政権の当時、セウォル号のリボンを見ただけでも 統制をしたその時の警察とまた会った感じだった。

2015年4月

米大使館の前での事件と共に、あるいは少し鈍ったセウォル号惨事に対する私の記憶と感覚をまた呼び覚ましたことがあった。 3月25日、大法院がセウォル号惨事国民対策会議共同運営委員長だった キム・ヘジン、パク・レグン二人の活動家に集会およびデモに関する法律違反、 特殊公務執行妨害致死傷などの容疑を適用し、 懲役2年、執行猶予3年の重刑を確定したという知らせだった。

二人の活動家が路上に立ったその日、 私もセウォル号惨事の真相を究明しようとする市民と共に路上にいた。 その日、路上に立った私たちの行動が犯罪だというのだろうか? その時の記録をまた探してみた。

2015年4月16日、焼香所を閉鎖して全員がいなくなった彭木港に行った 朴槿恵は、 直ちに海外歴訪に出た。 国民の力で作ったセウォル号特別法を無力化する施行令を強行した政府の大統領が席を外した セウォル号1周年、光化門広場の焼香所に献花するために道に出てきた遺族と市民を待っていたのは、 光化門一帯を占領する警察と車壁と催涙液だった。 その日の夜、人々は家に帰れず道路で夜を明かした。 路上の時間は続き、4月18日また光化門から鍾路3街まで続く巨大な車壁にぶつかった。 詰まった道を回りに回って光化門に向かった人々に、 警察はペッパースプレーを噴射して催涙液をまぜた放水銃を大量に散布して、 遺族と市民など100人を連行した。

警察の対応はますます強度が高まった。 5月1日のメーデー大会とセウォル号特別法施行令廃棄要求集会では、 高い水圧の放水銃を人々に照準して放水し、 通りは催涙液の白い泡で覆われた。 警察の攻撃的物理力の使用は結局その年の11月の民衆総決起で ペク・ナムギ農民を倒した。 2015年、歴代最高の催涙液と放水銃を使い続け、 広場を警察で覆った政権は、キャンドル集会で崩れ、車壁と放水銃も消えた。

2015年4月以後、6年ぶりに大法院の判決が出されてきた。 その時、私が体験したのは真相究明を拒否する政府が公権力を動員し、 集会の自由を弾圧し、これに抵抗して真相究明の要求を止めない市民を暴力で鎮圧する場面。暴力だった。 この6年間、裁判所は市民の行動に何を見たのだろうか?

2021年4月

光化門広場を塞いだ車壁は「韓国社会をセウォル号以前と以後に分ける」 という言葉を形にしたかのように見えた。 セウォル号以後の世界に行こうとする人々は、 セウォル号以前の世界を守ろうとする権力の城壁のような車壁を押し倒そうとした。 しかしキャンドル政府とともに二つの世界を仕切る車壁は崩れたのだろうか? セウォル号惨事から7年、 その歳月の間、韓国社会はセウォル号以前の世界からどれほど進んだのだろうか?

国連拷問防止委員会は2017年、大韓民国の国家報告書についての最終見解として セウォル号惨事1周年集会について過度な武力の使用に対する捜査に着手し、 責任ある人物を起訴し、手続きの結果を委員会に通知するよう勧告した。 最近、これについての政府の報告書の草案には 「警察の過度な鎮圧を監視するために1周年追慕集会をはじめとする関連集会の現場に人権守備隊団を派遣した」と、とんでもない回答をした。 キャンドル政府はなぜ自分の責任を履行せずにいるのか?

二人の活動家が有罪になり、救助を放棄した人々は無罪になり、 相変らず真相は究明されず、 遺族はみんな家族を失った悲しみにくれてばかりいられない7周年だ。 「国らしい国を作ろうという国民の叫びを忘れない」という 大統領の言葉が腑に落ちない2021年4月だ。 判決文も繰り返し読んだが、むしろ判事に聞きたいことばかりだ。

判事さん、これのあります!

判決文で、 「集会デモの自由は民主社会において最大限保障されなければならないが、 その集会・デモは適法で平和的でなければならず(…) 法的手続きを遵守していなかった」という内容を読みました。 しかし判事さん、国際人権規範は 「平和な集会の自由に対する権利」について、適法性ばかりでなく、 平和な集会を権利として国家が保障する責任があると規定していませんか? だから「合法的な集会」しか保障しない集示法は問題だという指摘が以前からありました。 集会を申告をしても禁止された時はどうすればいいのでしょうか? 「円滑な交通」や「平穏な生活の侵害」という不当な理由で禁止して、 集会ができない状況を意図的に作るのは、 国家が権利保障の義務を果たしていません。 この時、市民は権利侵害に対して道路に出ていかず、集会を諦めなければならないのでしょうか?

判事さんはまた二人の活動家が 「集会・デモを平和に進めようとする努力を傾けなかっただけでなく、 警察との衝突を直・間接的に扇動して犯行を行った」といいました。 しかし集会を平和に進めることは、集会をする人だけの責任ではありません。 むしろ国家と警察の責任が大きいのです。 集会の権利の剥奪に怒った市民を警察は車壁と放水銃、催涙液で鎮圧します。 2009年、韓国刑事政策研究所は2008年のキャンドル集会での暴力行動は、 警察の車壁によるものだったという研究結果を出しました。 研究所は集会が暴力的に変化する理由として、 警察の集会管理方式(車壁、不審検問、移動遮断、採証、放水銃・催涙液を使った警察装備など)を列挙しました。 そして警察の暴力に抵抗する行動は、二人の活動家の扇動のためではありません。 政府と警察が不当に法を利用して権利を奪う時、 市民は正義で対抗しました。 抵抗が不法だからと言って処罰するという脅迫にもかかわらず、 市民は恐れに震えることなく自分ができる行動を実践しました。 遺族と共に哀悼して、真相究明をすることで、 私たちがまともな国で生活ができるからです。 判事さんは市民の正義の実践を否定して引き降ろしました。

何よりも判事さんがセウォル号真相究明のために、 市民と共に街頭に出ていればどうだったのかも気になります。 申告されていない集会で、道路に立てば一般の交通の邪魔になるから、 そのまま引き返したでしょうか? 車壁に遮られ、その前で遺族と市民が催涙液混じりの放水を受けていれば、 怒りで抗議ぐらいはしなかったでしょうか? 二人の活動家が有罪なら、その日、その路上に立ったすべての人も有罪でしょう。 しかし不法な行動だから処罰しなければならないとすれば、 少なくとも集会の権利を奪い、暴力で鎮圧した政府と警察も責任を取るべきではないでしょうか?

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2021-05-17 05:26:47 / Last modified on 2021-05-17 05:26:49 Copyright: Default

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