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News Item 20030126hankyor...
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彼の笛の音が忘れられない!

斗山重工業焚身労働者ペダロ氏の奪われた希望 …いつまで働く人の権利を踏みにじろうというのか

“ペダロ被告人は何故出てこなかったのですか”

“ペ被告人は去る9日、焚身死亡しました。”

1月16日午前10時、昌原地方法院第315号大法廷、ストライキに関する 業務妨害嫌疑などで起訴され、一審で有罪が宣告された斗山重工業(旧韓国重工業)の 元労組幹部に対する控訴審初公判が開かれた。 この日、裁判府は認定尋問でペダロ被告人の欠席理由を問い、 被告人側弁護人は一審で懲役1年・執行猶予2年を宣告されたペ被告人が死亡したと説明した。

22年経歴のボイラー工場熟練労働者

写真/ペダロ氏は‘被告人’のくびきからのがれることなく、死を選択した。 彼の同僚は故人の笛の音が耳元でいつまでも聞こえるという。

同じ時刻、ペ氏が亡くなった慶尚南道昌原市鬼谷洞の斗山重工業内の労働者広場では、 警察と国立科学捜査研究所の関係者が解剖検査の準備を急いでいた。 去る9日午前、この会社の労働者、ペダロ(50)氏が火に焼けた死骸で発見された後、 「自殺」は明らかなので解剖検査はできないという遺族などの主張と、 「変死」なので解剖検査をしなければならないという捜査機関の意見が対立した。 両側は互いの主張を折衝し、14日に死骸が発見された所で解剖検査をすることにした。 ところが天気が寒くなって死骸がコンクリートの地面に凍りついてしまった。 死骸を動かすために、注意深くコンクリートの地面を溶かし、 14日には死骸を冷凍車に移して白熱電球の光で照らした。 死骸が溶けると、16日の午前11時頃に解剖検査が始まった。 労働者たちが悲痛で複雑な息苦しい表情で解剖検査現場の近くを行き来していた。

ペダロ氏が働いていたボイラー工場は、焚身の現場から50mほど離れたところにある。 彼は22年間、ボイラー工場で働いた。 ボイラー工場の入り口には、 「ピーッ、おい、早く集まれ、何してんだ! - 故人の笛の音が耳元から離れません」 という懸垂幕がかけられていた。 生きている者が死んだ者を賛える懸垂幕が、工場埠頭側から吹く海風に揺れていた。

ボイラー工場の組合員は、彼を「ふえ男」と記憶する。 代議員集会の時、昼休み集会の時、いつもふえを吹いて組合員の参加を督励していたからだ。 ペ氏の夫人、ファンギリョン(42)氏は 「洗濯の時、夫の服のポケットからよく笛が出てきた」と言う。

同僚のキムグギル(45)氏は、「同僚は先輩を‘ペ中佐’と呼んでいた」と話した。 軍務を終えた人々は、現役の時、きちんと部隊生活をして 規律に忠実で几帳面な‘選任下士官’のことを覚えているだろう。 ペダロ氏は、職場の日課、組合活動で、 まるで選任下士官のように黙黙と自分がすべきことをしていたという。

会社側はそんな彼について、労組活動「だけ」を熱心にしていたと不当な評価をしていた。 会社のある関係者は、 「故人について非常に用心深く言えば、平凡な労働者と見なすことは難しい」とと話した。 だが労組の組合員等の主張は違う。 ペ氏はボイラーパネルを加工するスカーフィングマシンを扱っていたが、 同じ班で働いていた組合員は、彼を「スカーフィングの第一人者」と呼んだと言う。 労組関係者は、「彼が韓国重工業の時期から労組活動に率先していたのに、 解雇のような重い懲戒を受けなかったのは、ずば抜けた技術者だったからだろう」 と説明した。

労働者の権利探すための苦難の道程

写真/誰がやさしい夫を死に追いやったのか。 ペダロ氏の夫人ファンギリョン氏がすすり泣いている。

彼は慶尚南道金海で高校を卒業した後、釜山で職場生活をして、 81年1月に韓国重工業に入社した。 第5共和国当時、韓国重工業には労組がなかった。 ある50代の労働者は、「当時、労働者は人間扱いされなかった。 一日抜いて徹夜をして、日がのぼれば朝からその翌日の夕方まで30時間以上、 仕事をすることもあった」と話した。

1987年、韓国重工業に労組ができてから、彼は労組活動に積極的に参加した。 タンジョ工場のチェホギョン代議員は、 「彼が80年代末にタンジョ工場に派遣されて、いっしょに働いていた時、 労働者の権利についてたくさん話した。 労働者自らが自分の権利を探さなければならないという話をいつも強調していた」と話した。

ワンドゥヒ組合員は、ペ氏が1989年頃に全泰壹(チョンテイル)評伝、 「ある青年労働者の生と死」を渡してよく読めと言ったことを覚えている。 夫人のファンギリョン氏は、「夫といっしょに公演や映画を見にいくことは ほとんどなかったが、ある日、映画を見ようと言って劇場で“美しい青年全泰壹”を共に見た」 と話した。

ペダロ氏は1991年に代議員を引き受け、活動家になった。 組合員等の権益が侵害されれば、先頭に立って管理者に抗議した。 労組労使対策部長(争議部長役)を引き受けた1995〜96年と2000年を除き、 代議員を引き受け続けて現場を守った。

工場内に作られた喪家を守っていた喪服姿のキムゴニョン(46)氏は、ペダロ氏と縁が深い。 ペ氏と共に81年に入社し、20年以上いっしょに働いた。 98年からは故人の勧誘で代議員を引き受け、労組活動を始めた。 「私は労組が必要だとは思っていても、労組活動をするつもりは全くなかった。 労組活動をしている人の中には、会社と闇取引をして人事考査でよい点をもらっているのを よく見ていたので、拒否感が大きかった。 しかし、タルホ先輩は10年以上労組活動をしていたが、そんなことからは無縁で信頼できた。 タルホ先輩は、“困難で弱い人、力のない人のために一緒に組合をしよう”と私を説得した」。

キムゴニョン氏は昨年11月18日、 組合員のストライキ賛否投票参加が低く、 組合員等の参加を督励してガソリンを全身に浴びせて焼身自殺をしようとした。 金氏は「そのことがあっていくらもたたないうちに、タルホ先輩がやってきて、 ‘何故つまらないことを考えるのか。自殺するつもりなら、戦って絶対に勝て。 生きて戦おう’と叱った。 私に対してそんなことを言いながら、先輩があんなことになるなんて」 と頭を下げた。

生きて戦おうと叫んだ明るい先輩

写真/ペダロ(前列中)氏は22年間ボイラー工場でスカーフィングマシンを扱う熟練労働者だった。 ペ氏は労組の代議員として組合員の権益を守るために努力した。(斗山重工業労組提供)

ウォンドゥヒ組合員は、「先輩がボイラー工場の組合員が出退勤する時に いつも通る道を焚身場所に選んだのもそうだが、 また周囲を確認してみると、焚身する前に会う人にはみな会って、心の準備をしていたようだ。 いつも明るく笑って過ごして、表情に出さなかったが…」と語った。 ペ氏の同僚や家族の中で、彼の焚身の決心に気がついた人はいない。 工場の同僚によれば、彼は焚身する前に、家の近くの‘マート’で景品の抽選に応募して、 キムチ冷蔵庫が当選して非常に喜んでいたという。 僅か数日前、「先輩、今年はうまくいきそうですね」と冗談を言った同僚は、 彼の思いがけない焚身のしらせに衝撃を受けた。

2人の娘の父であり、50代の家長でもあるペダロ氏が、 何故焚身という極端な選択をせざるをえなかったのか。

夫人のファンギリョン氏は、「初めてしらせを聞いて駆けつけたときは信じられなかった。 家族を捨てたと思ってとても心が傷付いた」という。 だが、遺書を読んで気持ちをとりなおした。 黄氏は、「遺書を読んでみると、家族を後にしてまで、 労組と組合員のために焚身せざるをえなかった夫の気持ちがわかった。 常に平凡に生きようと固執していたが、いまは遺書に残された夫の意思に従う。 悔しい思いを残して死んだ夫の恨みをはらしてほしい」と訴えた (遺書全文はhttp://antidoosan.or.krで読める)。

ペ氏は昨年7月、業務妨害で拘束された後、2ヶ月後に執行猶予で出てきた。 彼は3か月の停職懲戒を受け、昨年12月26日に復職した。 だが彼の気持ちは楽ではなかった。 昨年の賃団交交渉委員だった彼は、解雇者と懲戒者が出て、 組合員個人の財産と給与に対する仮差押さえなどの懸案問題を解決できずに復帰したことについて 大きな負担を感じていた。 その上、全財産に値する家が差し押さえられ、月給も50%が差し押さえられた。 生計費を用意するために、会社の福祉基金に貸出要求をしたが、 ‘仮差押さえ者は貸出不可’という冷淡な答を聞かされた。 労組費も差し押さえられて、労組次元の生計費支援も期待できなかった。 彼は、妻と2人の娘の生計に責任を負わなければならなかった。 だが家長である彼は、昨年7月以後、収入が全くない。 そのため、高校生の娘2人は通っていた塾と家庭教師を放棄した。

写真/斗山重工業は組合員の財産を差押さえペ氏の首を締めた。 ペ氏のように月給の50%が差押さえられたある組合員の給与明細書

彼は昨年の年末、会社に復帰した後、出勤した10余日間、精神的な苦労が激しかったようだ。 焚身する数日前、同僚とこのような話をした。

「午前中に出ていって書いてくる」「何と書くんですか」 「今後不法活動をしない、生産活動にまい進するとか何とかいう内容があればいいらしい…。」

彼は、会社が組合活動を放棄すれば差押さえを解くと言って懐柔すると、 とても苦しんでいたという。 彼は焚身二日前の7日の夜11時を過ぎて、酒に酔ったまま菓子折りを持って帰宅した。 その日の夜、ペ氏は金がなくて課外授業を放棄した小さな娘を抱いて 「落ち込んでいてどうするか」、「何もしてやれずにすまない」と泣いた。 この時まで、夫人は普段、父として子供たちにしてやれなかったことが申し訳なくて そんなことを言っていると思っていた。

世の中は最後まで彼を捨てるかもラも…

翌日、彼は月次休暇を取った。 彼はこの日、家族と地上で最後の休暇を過ごした。 彼はこの世に残る家族のために、丹念に家の修理をした。 寒さのために凍って破裂した家の水道管を直して、 水道の蛇口も新しく取り替えた。 家の仕事を終えた彼は、夫人と夕食を食べた。 彼が亡くなった後、 夫人は「明日死のうという人が、なんで水道の蛇口を取り替えたのだろう」と胸を打って嘆いた。

翌日の1月9日の明け方5時、ペダロ氏は平常より1時間早く家を出て、車を運転して出勤した。 彼は午前6時頃、仕事場のボイラー工場の近くに車を止めた。 20年間、毎朝仕事場に行く道だった‘労働者広場’で、彼は自分のからだに火をつけた。 「私がいなくなっても、私たちの家族を見守ってください。すみません。」 彼が残した遺書の最後の文章だ。

彼は何故最後の瞬間まで世の中に申し訳ないと言ったのだろうか。 本当に申し訳ないのは、彼を出口のない道に追いやった世の中だったのに…。

昌原=クォンヒョクチョル記者nura@hani.co.kr・写真パクスンファ記者eyeshoot@hani.co.kr

http://www.hani.co.kr/section-021005000/2003/01/021005000200301230444005.html

*斗山重工業焚身問題に関する韓国の時事週刊誌「ハンギョレ21」の特集記事より無断海賊翻* 訳。


Created byStaff. Created on 2003-01-27 09:42:05 / Last modified on 2005-09-05 05:17:59 Copyright: Default

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