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韓国で鳴り響くミャンマー青年の声

[イシュー(1)] 「軍部が存在する限り、私たちの未来は存在しない」

パク・タソル、ウン・ヘジン記者 2021.03.30 15:27

目次

(1) 韓国に響くミャンマー青年の声

(2) 三本指を立てるミャンマーのZ世代

(3) ミャンマー女性が作る民主主義、軍部の居場所はない

(4) 全斗煥からミャンマー軍部まで、独裁と手を握った企業

(5) 「ミャンマーが光州と似ているから」で終わらせず

ナイフの法則

そのまま持つのではなく、前に出て行って切断しなければなりません

革命の法則

考えに追われずに、あなたは血のように勇敢でなければなりません

困惑しないでください

革命の爆弾スイッチはあなたでなければ私だ

『頭蓋骨について』より

▲3月14日釜山駅広場で開かれたミャンマークーデター反対集会[出処:ウン・ヘジン記者]

3月14日午前、釜山駅広場、ミャンマー移住労働者ハンジョトゥン(29・仮名)氏は、 先日のデモで命を失った親戚が書いた詩を朗読した。 ハンジョトゥン氏の親戚の故ケイジャウィン(39)は、3月3日、 ミャンマーのモニワ地域での市民不服従デモで軍部に殺害された9人のうち1人だ。 詩人で高等学校のビルマ語教師だった故人は、 死亡する前の2月23日、「頭蓋骨について」という詩を残した。 軍部独裁を追い出すために皆が共に戦わなければならないというメッセージを込めた詩だった。

ハンジョトゥン氏は親戚の死の知らせをSNSで接した。 革命の先頭に立った詩人の死は映像で記録された。 ハンジョトゥン氏が見せた映像では、軍人が頭に銃を受けたケイジャウィンをどこかに引きずっていった。 ケイジャウィンがいなくなった場は血で染まっていた。

「兄は銃に撃たれたが、 引きずられて行くまでは生きていたようです。 軍人は兄を殺すため頭に銃を照準して、結局引っ張っていって殺しました。 とても胸が痛みます。どんな言葉でも説明できないほどです。」

日曜ごとに開かれる釜山のミャンマークーデター糾弾集会はこの日で5回目になった。 ミャンマーの留学生と移住労働者、韓国市民社会団体活動家150余人が集まった。 新型コロナのため集会参加に制限をおこうとしたが、 ミャンマー事態が深刻化しているだけに何としても参加するという人が多かった。 午前の集会が韓国の連帯集会の性格が大きかったとすれば、 午後の集会はミャンマー人が主体になって犠牲者を追慕して、 ミャンマーの民主主義のために心を集める時間だった。

彼らは闘争に対する「情熱」と、犠牲者を「追慕」するという意味の赤いリボンを手首に巻いた。 そしてプラカードを持ってミャンマーの民衆歌謡「アロマシ」を歌いながら拳を振り上げた。 鍋蓋を叩いて音を出す様子はミャンマー現地で行われている「騒音デモ」を連想させた。 参加者はビルマ語で「民主主義を返せ」、 「ミャンマーを独裁から脱却させよう」等のシュプレヒコールをあげながら、 三本指を立てた。

Z世代、ミャンマー軍部との決戦に立つ

94年生まれ、ミャンマーのZ世代の女性、マキンメイタ(28・仮名)氏は、 ミャンマーの路上で一緒にデモができない現実を残念がった。 韓国でミャンマー民主化闘争のためさまざまな活動をしているが、 命をかけて戦う市民に借りがあると繰り返し話した。 マキンメイタ氏の家族が暮らすヤンゴンはミャンマー最大の都市で、 「2222抗争」のような大きなデモが行われる所だ。 彼女の二人の兄弟もデモに参加している。 釜山で集会が開かれた14日には、 ヤンゴンで最低14人のデモ参加者が軍警によって殺されたという知らせが聞こえてきた。

▲3月14日に釜山駅広場で開かれたミャンマークーデター反対集会[出処:パク・タソル記者]

「妹、弟がいるのに彼らがデモに行くといえば心配になりますが、行くなとは言えません。 軍部が殺した市民が弟と同じ年頃です。 弟が行かなければ死んだミャンマー人の犠牲が無駄になるのではありませんか? 私たちZ世代は私たちが積極的に始めることで、市民不服従運動の力がより強まると考えます。」

マキンメイタ氏の言葉の通り、ミャンマーのZ世代はオンライン・オフラインの闘争の先頭に立っている。 彼らは腕に名前と血液型、連絡先を書いて、もしかすれば命を落としかねないデモの現場に出て行く。 オンラインでは「キーボード ファイター」と呼ばれる彼らがSNSで軍部の蛮行を知らせる。 ミャンマーの携帯電話普及率は2018年にはすでに100%を越え、 人口の半分(2千万人)がFaceBookを使う。 軍人と警察による暴力と殺人現場はほとんどすべての国民にリアルタイムで共有される。 ミャンマー軍部は通信を遮断してニュースの拡散を止めようとしたが、 掌で雨をふせぐようなものでしかなかった。 マキンメイタ氏はミャンマー軍部が映像の発信地を捜索し、 人々を捕まえて行っていると話した。 それでもキーボード ファイターたちは消された映像をまた書き込み、 軍部の暴力を世界に知らせている。

「クーデターが起きると、上の世代は簡単に路上に出て行けませんでした。 また私たちがデモに行けば、軍部は反乱が起きたという理由でさらに非常事態を長くするから待てといいました。 しかしZ世代は軍部を容赦できなかったし、 子どもたちにはこんな国を譲りたくありませんでした。 それで2月6日から路上で、メディアで、それぞれの場で 軍部との最終戦を選択しました。」

断固たる決戦を選択したが、ミャンマー民衆が持つ武器は木の盾ぐらいだ。 催涙弾を防いでくれる防毒マスクや厚い手袋などが必要だが、 物資を送る道は塞がれている。 韓国で集めた闘争基金もタイを通じて迂回的に渡している。 ミャンマー軍部は韓国で闘争基金を集めて渡したミャンマーの2人を公開手配した。 マキンメイタ氏をはじめとする韓国のミャンマー人は、 ミャンマー闘争の劣悪な条件を考えながら鉢巻きをしている。

2014年に韓国で大学生活を始めたマキンメイタ氏は、この5年間で変わったミャンマーの姿を記憶する。 休みを利用して1年に1回行ったミャンマーは、ますます交通が便利になり、 インターネットの使用も容易になった。 何よりも人々が処罰される心配なく政治家をののしり始めた。 民主主義の時代を通過しているという感じがして、 捨てるように出てきたミャンマーでの人生に初めて期待するようになった。

マキンメイタ氏は自分のように新しい希望を抱いたミャンマーの若者たちと軍部独裁を倒す活動を韓国で行っている。 1人デモをして、韓国の活動家や政治家と会ってミャンマーの状況を知らせ、 助けを要請する。 韓国人の友人の助けでミャンマーニュースを翻訳し、 報道機関にメールで情報を提供したりもする。 マキンメイタ氏は韓国人が「涙を共に流してくれる民族」だと感謝の気持ちを伝えた。

軍部が作ったおかしな教育システム

ミャンマーでクーデターが発生した2月1日の朝、 キンキンタット(25・仮名)氏はミャンマーからかかってきた電話のベルの音で目を覚ました。 発信者はミャンマーにいるお母さんだった。 お母さんは「ミャンマーの状況が良くない。クーデターが起きたようだ」とあわてて電話を切った。 また電話をかけたが連絡はつかなかった。 とめどなく携帯電話をかけつづけ、晩になってまたお母さんの声を聞くことができた。

キンキンタット氏のいとこの姉さん二人は真っ先に全面ストライキに突入した病院労働者とともに、2月6日からストライキに参加した。 姉たちは軍部が掌握したミャンマーをマヒさせ、クーデターを防ぐと言って仕事を止めた。 ミャンマーの両親は軍部が家庭に銃口を向けている状況でも 「われわれは大丈夫だ。心配するな」とし、かえって子供を心配している。 お母さんは食べ物を作ってデモ参加者に配り、 夜には騒音デモに参加して市民不服従運動に参加している。

▲左からマキンメイタ(仮名)氏とキンキンタット(仮名)氏[出処:ウン・ヘジン記者]

2013年、キンキンタット氏が韓国留学を選択した理由は、 不公平なミャンマー教育システムのためだった。 ミャンマーの学校では軍部の子供でなければ一等の成績を取ることも、 奨学金を受けることもできなかった。 彼女の友だちもミャンマーの教育制度に不満が強かった。 大学入試での性差別が代表的な例だ。 女子学生が医大のような名門大学校に入学したければ、 男子学生よりさらに高い点数を取らなければならなかった。 600点満点の試験で女性が500点を取れば合格できるなら、 男性の合格線は450点程度だった。 だが誰もこのような差別を変えようとしなかった。 いわゆる「民主化時期」と呼ばれるこの5年の歳月にも不平等は解消されなかった。

キンキンタット氏はZ世代がデモに積極的な理由について 「軍部の根を抜かなければ本当の民主主義はこないことを経験したから」と説明した。 軍部が作った法と制度、そして日常化された腐敗と不条理などをなくそうとすれば、 まず軍部がなくならなければならなかった。 キンキンタット氏はミャンマーに戻れば刑法によってクーデター反対活動をしたという理由で検挙されるが、 軍部に勝てるから恐ろしくないといった。 彼は文在寅(ムン・ジェイン)大統領に昨年11月のミャンマーの総選挙の結果を認めるという立場を明らかにしてくれと手紙を書く予定だ。 キンキンタット氏は国際社会のはっきりした立場表明が軍部の力を弱めると強調した。

ひどい目にあうのことにうんざりしたミャンマー工大生

ヤンナイン(29・仮名)氏はミャンマー軍部反対闘争基金に100万ウォンを出した。 2014年から韓国で働いている彼は 「ミャンマーでは市民が命を賭けてデモをしているのだからこの程度は何でもない」と淡々と話した。 自動車部品会社に通う彼の給与は月300万ウォン程度。 50万ウォンの生活費を除いて残った金額をすべてミャンマーの家族に送っている。 4年制工大を出た彼がミャンマーで受け取れる給与は1か月に15万ウォン、 多くて30万ウォン程度だ。 小さい時からエンジニアとして働くのが夢だったが、 ミャンマーの賃金はあまり少なかった。 韓国にくる前にはミャンマーの建設現場の技師として少し働いたこともあった。 1日の賃金は1万ウォン程度だったが、本人に渡る金は半分にもならなかった。 労働者に行くべき賃金は、工事を主管する高位公務員に渡った。

▲3月14日に釜山駅広場で開かれたミャンマークーデター反対集会[出処:ウン・ヘジン記者]

それだけでなく、公共機関から文書の発行を受ける時、 試験を受けなければならない時、 色々な口実で財布をはたいていく軍部治下のミャンマーにうんざりした。 名分のない金をおさめるために、軍人と高位公務員は人々を怒鳴りつけ、素直に従わなければ処罰した。 ヤンナイン氏もしばしばひどい目にあった。 韓国滞留資格を得るために受けなければならなかった韓国語能力試験でも、 無駄な言葉尻を捕えられて長い間ひどい目にあった経験がある。 その上、韓国にくる前、残った家族が今の家に住み続けたければ 保証金を払えというとんでもない要求もあった。 後進政治と経済はミャンマーの若者たちの足手まといになっていた。

「ミャンマーは貧富の格差が激しいです。 あるひとは1億の車に乗って、あるひとは200万ウォンの車を買うのも難しい。 ミャンマーに居続ければますます難しくなると思いました。 家は古くなり、両親は老いていくからです。」

彼は貧困から抜け出すために海外就労を選択した。 友人も仕事場を探すためにマレーシア、タイ、シンガポールなどの周辺国家に向かった。 彼は賃金が高く、労働権が保障されるという話を聞いて韓国行を選んだ。 初の職場は化学物質を扱う会社だったが、1年ほど通って止めた。 心臓が良くないのに、きつい化学製品のにおいをかいだため、からだに無理がきた。 ミャンマーの建設現場で金よりも命が重要だという事実を悟った後だった。

彼は韓国で着実にお金を貯めた後、民主主義を取り戻したミャンマーに帰って建設に関する小さな会社をするのが夢だ。 そんな想像をすれば、韓国でのつらい長時間労働も耐えられる。 彼は今、会社で夜昼2交代で働いている。 食事時間を除けば1日10時間半働くわけだ。 労働時間が長いので故郷の人々と付き合ったり集まるのも難しい。 この日の集会にも夜間作業の後、一眠りもできず急いで駆け付けた。 充血した目に疲労がいっぱいだったが、 彼はミャンマーの状況を知らせるため遅い時間までインタビューに応じた。

韓国での移住労働者の人生はまさに差別だった

アウンカン(30・仮名)氏は昨年ミャンマーに戻ろうとしたが、 新型コロナに続いてクーデターまで発生して足止めをくった。 彼は韓国にいた5年間で2回会社を変えた。 ミャンマーでクーデターが発生した後には最後の職場を出た。 デモが日ましに激しくなるという知らせに、家族が心配になって仕事が手につかなかったためだ。 アウンカン氏はミャンマーの人々が死んでいく状況で、何かをせざるを得ず、 釜山駅集会に出てきたと話した。 その他にどんな行動ができるかを考え、 韓国の友人と金を集めて、約100万ウォンをミャンマーデモ隊に渡した。

▲3月14日に釜山駅広場で開かれたミャンマークーデター反対集会[出処:ウン・ヘジン記者]

彼は2016年に仕事を探して韓国にきた。 大学で化学を専攻した彼は 「私の地方だけでなく、ミャンマーには雇用がない。 NLD執権後に海外企業の投資は拡大したが、 大学を卒業した青年にも仕事がない状況」とし、クーデター前の状況を説明した。 2011年に労働法が改正されたが、労働条件はあまり変わらなかった。 最低賃金、休日などの労働者の権利は相変らず社長の善意にかかっていた。 鉄道と製造業など最低賃金のミャンマー労働者たちがストライキをして軍部と戦う理由は、 このような状況と無関係ではない。

韓国では、賃金も仕事も多かった。 最後の会社だった自動車部品会社では、夜昼2交代で週6日働いて、月230万ウォンを稼いだ。 もちろん他の移住労働者のように韓国での人生は順調ではなかった。 工場で包装業務をする時も、建設現場で型枠大工で働いた時も、 良くない仕事はいつも移住労働者の役割だった。

「社長が外国人には危険で汚い仕事をさせました。 週末、夜間勤務の時も手当てを払わなかったのです。 名節には韓国人だけがプレゼントをもらいました。 休日は別にあったのに、移住労働者はいつでも働かなければなりません。 一緒に働く人々は毎日挨拶するように悪口を言いました。 悪口は少し控えてほしいですね。」

アウンカン氏の夢はミャンマーに帰ってスーパーを営むことだ。 自分の夢をかなえるためには軍部が掌握したミャンマーを取り戻し、 誰もが平等で迫害されない社会を作らなければならない。 アウンカン氏は「クーデターがなくなるまで、デモに参加する」と話した。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2021-04-07 01:11:30 / Last modified on 2021-04-07 01:18:57 Copyright: Default

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