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LNJ Logo 〔週刊 本の発見〕『国語入試問題必勝法 新装版』
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毎木曜掲載・第414回(2025/12/4)

自我が崩壊して行くリアルな描写

『国語入試問題必勝法 新装版』(清水義範 著、講談社文庫、700円)評者:大西赤人

 極めて当たり前の話ながら、毎年毎年、多くの有名人、著名人が亡くなって行く。間もなく終る今年――2025年においても、ネットで検索すれば、国内に限ってさえ長嶋茂雄を筆頭に――筆頭でいいのかどうか判らないが――みのもんた、ジェームス三木、曽野綾子、篠田正浩、吉田義男、橋幸夫、吉行和子、村山富市、釜本邦茂、いしだあゆみ、仲代達矢(順不同)という具合に、硬軟取り混ぜ様々な形で世を賑わせた名前がキリなく上がってくる。一方、先日、知人と話していたところ、彼が「××××って、まだ生きていたかな?」と著名な評論家の名前を出したので、「たしか、もう亡くなったと思うよ」とこれまた検索したところ、何と丸十年前に他界していて二人で驚いたという顛末などもあった。これらをもって�爐泙靴討篁坩罎梁燭�の人々については、ことあらためて言うまでもなし。人の命とは何ともはかないものだ�瓩繁楾討鯆衄屬侶襪咾能�えてしまったら、読者からは顰蹙の嵐であろう……。

 多くの人は、ひとまず�狡浩犬�したい�瓩箸いΧδ未隆衙召鮖�っているものと想定される。以前は寿命の延長は全き「善」とされ、平均寿命の延伸が手放しで報じられていた。しかし、ある時期からはQOL(Quality of Life)とか健康寿命とかの概念が加わり、単純に生きているだけではなく、質を伴う日々が求められるようになった。即ち、昔風の言い方を引っ張り出せば、「寝たきり老人」や「ボケ老人」や「徘徊老人」にはなることなく生きて行きたい、なるべき他人に頼らず過ごしたいという一段上の条件が加わってきたわけである。暦に元号という特別な基準を持つ日本では、2025年は「昭和100年」と報じられ、「昭和は遠くなりにけり」という言葉にも出会った。我々が子供の頃、若い頃には、その原型「明治は遠くなりにけり」を見聞きしたものだが、それは中村草田男が1931(昭和6)年に読んだ「降る雪や明治は遠くなりにけり」に則り、実はこれは中村30歳時の作で、老人が過去を懐かしんでいるというような趣旨ではないのだそうだ。そして、「昭和100年」の今もなお、明治生まれの日本人はホンの一握りながら存在するらしい。

 『国語入試問題必勝法』は清水義範によって1987年に発表され、同題の短編集は、この年の吉川英治文学新人賞を受賞した。大西は、1990年に出版された文庫版で読んだ記憶だが、現在に至るも(近年、新装版が出たように)地道なロングセラーとなっている。パロディともパスティーシュとも評される清水のユーモアは、後年、漫画家・西原理恵子との共同作業である『もっとおもしろくても理科』『どうころんでも社会科』(講談社文庫)などにおいても十分に発揮されるのだが、今回特に採り上げたい本書中の作品は、笑いとは縁遠い『靄の中の終章』である。一編は、こう始まる。

「腹がへって目がまわりそうである。起きてからもうかなりの時間がたつというのに、まだ朝食を食べていないのだ。実際には、起きる前に一時間以上、床の中で目を覚ましていたのだから、相当な時間空腹にさいなまれていることになる」

 私――沼田恒雄は八十一歳。苦労の末に事業を興して成功し、妻・かねには先立たれたが、雄一郎・加津子の息子夫婦とともに暮らしている。沼田は加津子が朝飯の用意をしてくれないと不満を募らせており、ついに「一体、いつになったら私に朝ごはんを食べさせてくれるんだね。もう腹がへって我慢できんよ」と怒りをぶつける。ところが、加津子は驚き、諭すように応える。

「でも、さっき食べたばかりじゃないですか」
「めんたいこの残りで、茶碗に六杯も食べたでしょう。忘れちゃったんですか」
「まだ食べてから三十分もたっていませんよ。それなのに忘れちゃうなんて」

 沼田は朝食を食べたことを思い出し、赤面し、恥辱と感じ、必死にごまかそうとする。そして、再び独りになって考える。

「私の人間としての尊厳が、どうでもいいような小さなことで崩れていくのだ。ただ長く生きたというだけで、人にうとんじられるというのは理屈に合わないことである」
「昨日までの尊敬が軽蔑と嘲笑に変わり、老いぼれめ、とののしられなくてはならないのである」

 考えるうちに、再び空腹に気づく。加津子が無視しているのだ、と怒る。食べたばかりだと知らされる。思い出す……。その後、近所の老人会仲間・石田や、帰宅した息子・雄一郎やが登場するものの、ストーリーとしては繰り返しである。短時間の中で状況が急速に進行・悪化するという点にいささか無理はあるものの、沼田の心象風景の変化が実に生々しく、とりわけ結末が何しろ静謐に恐いのだ。

 最初に読んだ時の大西はまだまだ三十代だったと思うものの、この小説の自我が崩壊して行くリアルな描写は、幾分の滑稽さを含むがゆえに、なおさら恐怖だった。今回、この小説の存在をどうして想い起こしたかというと、筒井康隆の原作に基づく映画『敵』(監督=吉田大八)をケーブルテレビで観たからである。『敵』の主人公は、元・大学教授で七十代半ばの・渡辺儀助(長塚京三)。彼は、妻を喪い独り暮らしをしているが、家事も自分でこなす一方、専門である仏演劇史の仕事も地道に続けている。映画では、この人物のやはり�牴�れて行く�疝融劼�、視覚にも訴えかけ、一層リアルに伝わってくる。

 筒井の『敵』は1998年発表、清水の『靄の中の終章』は1987年発表であるから、後者は「パスティーシュ」作品ではない。もちろん、このような年齢と自我に基づくモティーフは繰り返される物ではあろうけれど、読む者の自らにまつわる迫真性は、当然にも強まってくるように思われる。


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