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美術館めぐり:「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」展(東京都写真美術館)
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 志真斗美恵 第13回(2025.7.28)・毎月第4月曜掲載



●「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」展(東京都写真美術館)

いまこそ80年の起点を考えたい

 今年は戦後80年にあたり、それにちなむ展覧会が多い。この欄でも取り上げようと、思っていた企画がいくつかあったが、実は、私が交通事故にあい、(小さな路地での自転車同士の衝突事故だが)外出できなくなってしまった。そこで事故の前にみることのできた東京都写真美術館での、写真展「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」を紹介したい。東京都写真美術館で、はじめての被爆写真展であり、中国新聞社、朝日新聞社、毎日新聞社、中国放送、共同通信社の合同での主催もかつてなかった。

 主催した各社のカメラマンと市民たちが1945年8月6日から同年末までに撮影した160点余りの写真が展示され、同時期のニュース映像2点も館内で放映されている。投下直後のきのこ雲、被爆者たちの姿、焼け野原となった広島市街の様子等をみることができる。 展示には、タイトルが付され、写真の撮影者も明示されている。

1 きのこ雲の下で 〜8月6日の記録〜
2 焦土の街 人間の悲惨 〜あの日からの1カ月〜
 2-1壊滅した中心地区、2-2傷ついた市民、2-3街は火葬場に、2-4救援に向かう、2-5終戦直後の広島
3 遠い再建 占領下の苦闘 〜1945年末まで〜
 3-1惨禍の爪痕、3-2被爆調査とプレスコード、3-3林重男が記録した破壊、3-4菊池俊吉が記録した人間、3-5焼け跡から復興の萌芽、3-6生きた証を

 私は、小学生の頃、千葉市内の今はないデパートで原爆展を見た。そのことは今も忘れられない。被爆した実物や写真が展示されていて、衝撃を受けた。私は子どもながら原子爆弾は禁止すべきだと思ってきた。今回の写真展によって、改めて、私は核兵器は廃絶すべきだとの思いを強くした。

 冒頭に展示されているのは、当時17歳だった山田精三が、爆発2〜3分後に撮影したきのこ雲だ。彼は、B29爆撃機や落下傘を見ていたら閃光、地響き、轟音に襲われたが撮影した。16歳で広島陸軍兵器補給廠へ学徒動員されていた深田敏夫も、爆風に吹き飛ばされながらもポケットに入れた小型カメラできのこ雲を写した。撮影時にこれがどのような爆弾であるかを彼らは知っていたはずはない。生死と紙一重だったにもかかわらず、中国新聞社の写真部員・松重美人も混乱のなかで撮影した一人だった。彼は、この日の午前中、「髪も皮膚も焼けただれ背中、肩、腕に水袋をつけたように火傷がふくれあがった、この世の人間とは思えぬ者」を前にし、ためらった末、シャッターを切った。翌日、大本営は「新型爆弾使用せるものの如きも詳目調査中なり」と発表した。各新聞社の記者やカメラマンは大阪などから焦土の広島と化した入り撮影した。

 戦争が終わると、軍は機密文書と共にネガ・プリントを焼却し、進駐軍・連合国軍総司令部GHQからは、新聞社に写真を提出するよう命令がきた。だが、撮影者たちは、さまざまな方法で秘匿した。それぞれのその後の人生について展覧会のなかで説明されている。 日本は、核兵器禁止条約をいまだに批准していない。そればかりか、関西電力は、原子力発電所の新設を発表した(7月22日)。政府は侵略戦争を不問に付し、歴史を書き換えようと画策している。

 参議院議員選挙期間中、東京選挙区で当選した参政党員は「核武装が最も安上がり」と言い放った。これに対し、被団協代表委員田中�通Δ気鵑蓮崙�本の政治家が核を使うことを前提とした議論をするのは恥ずかしい」と発言、もう1人の代表委員田中重光さんは「地球を壊滅させられる武器を人類が持っていること自体が恐ろしい。被爆者の話をもっと聞いてほしい」と願っていると語った。 忘れることは人類に対する罪悪だと痛切に思った。

(2025.5.31〜8.17 東京都写真美術館 地下1階展示室)


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