毎木曜掲載・第340回（2024/4/4）

立ちはだかる「壁」に向かって

『敗れざる者たち』（沢木耕太郎著、文春文庫、700円）評者：大西赤人

　2023年10月８日に開催されたシカゴ・マラソンでケニアのケルヴィン・キプタムは、それまでの世界記録を一気に34秒も更新する２時間０分35秒の驚異的なタイムで優勝した。たとえば、あの1964年の東京五輪におけるアベベ・ビキラは、２時間12分11秒という当時の世界最高記録で金メダルを獲得しているが、以来、（男子）マラソンの走破記録は２時間という大きな壁を越えるべく、約60年もの歳月をかけて、ようやく12分弱を縮めたことになる。しかし、まだ24歳の若さで今後を期待されていたキプタムは、本年２月11日に自ら運転する車の事故で命を落とし、彼が２時間の壁を突破することは永久に不可能となってしまった。

　スポーツにおいては、競技ごとに一定の記録の「壁」がしばしば立ちはだかるものだが、50キロでも、せめて40キロでさえもない42.195キロなる極めて中途半端な距離であるにもかかわらず、マラソン走者の前に２時間という極めてキリの良い「壁」が立ちはだかることは不思議とさえ思われる。そもそも人間の肉体的能力の限界として、40キロ余りを一時間半で走り切ったり、あるいは10秒が「壁」となる100メートルを８秒で駆け抜けたりすることは考えがたい。それでも、コース（道路）の整備や靴の改良による貢献は加わるし、棒高跳びにおけるポールのごとく、道具の大きな進歩が６メートルの「壁」の突破につながるような例も存在する。

　そういう意味では、長い歴史を持ち、環境も道具も様々に進化している野球において、一流打者の決定的な基準が打率三割をクリアすることにあり、どんな名選手にとっても打率四割が高い「壁」となる理由は何なのだろう？　もちろん、高校野球予選とか「日本シリーズ」とかという限定的な短期間であれば、四割どころか五割でも六割でも起こり得るけれど、試合数を重ねるにつれて、どんな打者でも三割＋Ｘの数字に収斂してしまう。そこには、明確な条件が存在するのだろうか？　裏返せば、バットもボールも改良され、投手の投げる球は150キロ、160キロとスピードを増している中で、なぜ四割が相も変わらぬ「壁」なのだろう？　もしかしたら、塁間の距離が50センチ長かったり（短かったり）、ホームベースの幅が５センチ広かったり（狭かったり）、ダイヤモンドの角度が90度ではなく95度（85度）だったりしたならば、四割の「壁」は動くのだろうか？

　沢木耕太郎の『敗れざる者たち』単行本は、1976年６月に第一刷が発行されており、手元には色褪せた同年７月の第二刷が残っている（写真右）。当時の二十歳を過ぎたばかりの当時の大西にとって、本書は一つの衝撃だった。自分自身は身体的不自由のため実技とは一切無縁ながら、野球をはじめ、スポーツへの興味・関心は極めて強かったので、ここに採り上げられたカシアス内藤や円谷幸吉やＥ（榎本喜八）や輪島功一たちは、程度の深浅こそあれ同時代的に見聞きしていた存在だった。そして、その限られた情報の中で認識していた選手たちが、沢木の筆によって大きく異なるイメージとともに生々しく迫ってきた。

　沢木は、可能な限り本人に対するインタビューや周辺関係者への取材・聞き込みを重ねるに加え、対象と密着し、一定期間行動を共にすることで人物への理解を深めようと試みた。たしかにそれは（スポーツ）ノンフィクションと呼ばれる形式に属するけれども、だからと言って、そこに描き出された事柄が真実――対象の実像であるとは限らない。そんな事は当たり前と言えば当たり前だが、沢木が「私ノンフィクション」と称した手法においては、書き手である「私」を前面に押し出し、〝私は見た〟〝私は思った〟〝私は感じた〟という主体性が臆することなく提示される。それはある意味極めて情緒的であり、理路よりも感性に訴えかけてくる。

　今回、電子書籍版も改めて購入したのでチェックは容易だったのだが、本書には「……かもしれない」という表現が100ヵ所以上出てくる。「○○である」「☓☓だった」と言い切ることなく、自分の受け止め・解釈をあくまでも可能性として差し出す。これは、ノンフィクションという制約の中での避けがたい一種の留保ではある。即ち極言すれば、たとえ本人から〝書かれている事が違う！〟と言われてさえ、〝いや、私は「かもしれない」と感じたというだけで、それ自体は間違いなく私における事実ですから〟と逃げることが可能となる姑息な手段ともなるだろう。しかし、読者としての大西は、この「……かもしれない」の多出に対しても反発を感じることはなく、そういう「可能性」の提示に対して、〝そういう捉え方もあるのか〟と眼を見開かされる心情だったのだと想い起こす。

　六編の中でも、円谷を描いた「長距離ランナーの遺書」や榎本を追った「さらば宝石」は、今回読み返しても変わらず特に鮮烈だった。刊行当時既に故人であった円谷は言うまでもなく、榎本やその周辺の人々も、多くが鬼籍に入りつつある。彼らは各々の前に立ちはだかる「壁」に向かって必死にもがき、多くはハネ返され、限られた何人かのみがその「壁」を乗り越えたのであったろう。沢木は、その乗り越えられなかった者に対してもなお、あえて「敗れざる者たち」という呼び名を送っている。沢木によって描き出された選手たちの姿は、もはや彼らの存在も名前も知らない読者にとってさえ、やはり迫る物があるに違いないと思う。

「『すれ違い』を多用するメロドラマ作家のように、『劇的な』という形容詞を頻発するスポーツライターは決して一流ではありえないだろう。しかし、プロ野球という極めて人生そのものに酷似したスポーツには、時として『運命的な』というより仕方のない瞬間があるものだ」（本書より）