全泰壱烈士の40周忌を記念して行われた今年の韓国の「全国労働者大会」の主題は、『われらもう一度、全泰壱になろう!』でした。今回はそれにちなんだ論文を2本です。「社会的企業を夢見た・・・」は、イ・スホ前・民主労総委員長が書かれたものです。前にも紹介しましたがイ・スホ氏の書かれる文章は本当にリズム感があって、訳し易い文章です。「人生と精神」はパク・ケヒョン・全泰壱財団事務総長の書かれたものです。パク・ケヒョン氏は私と一緒に訪韓された方は李小仙オモニと一緒に財団を訪ねた時に、説明をしてくれた方と言えば、ご記憶でしょうか。両論文とも「全国労働者大会」の主題である、『われらもう一度、全泰壱になろう!』の意味を解説したものです。中村 猛ts-naka@fine.ocn.ne.jp ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー韓国労働社会研究所「労働社会」11.12月号『社会的企業』を夢見た全泰壱イ・スホ(詩人、民主労働党最高委員)全泰壱が焼身して40年。平和市場の前、清渓川通りは今日も混雑している。やっと名前を見付けた『全泰壱橋』の上は、商人たちのオートバイが一杯で、5年前に建てられた全泰壱の胸像は両腕を軽く下げて、近づく人を抱くように、いつもその場に立っている。全泰壱が勤労基準法の冊子を抱いて焼身したその場も、表示銅版が敷かれ、全泰壱像の前では消えることのない火花が燃え上がるだろう。そしてその火花はこの場を訪ねたすべての人の胸に移り、火種になるだろう。今日も全泰壱は何も言わないが、全泰壱を心で見つめる人たちはそれぞれ多くの話を交わす。烈士・全泰壱の前、『模範企業』運営を夢見た全泰壱私は今日再び全泰壱を見ながら、『社会的企業』を夢見た全泰壱と会う。私たちは全泰壱を、当時の劣悪な労働条件を告発し改善するために、労働運動を触発するために、果敢に自分の身体を燃やした『烈士』としてだけ記憶することが多い。しかし彼が書いた日記や他の文書、また当時の友人たちの記憶によれば、彼は現実的な対案を見付けようと大変な努力をした。今の社会的企業に当たる『模範企業』を作るという構想も、その一つであった。彼が焼身するほかなかった1970年11月13日。その年の3月17日の日記には、模範的な被服企業を作るための膨大な計画書が記録されている。一種の概要に当たる計画書の冒頭を紹介すると、次の通りだ。****************************************************************************このことをしようとすれば、どんな方法を選ぶだろうか?1969年4月からこのことを本格的に始めた。この問題は1968年12月に着想したのだ。私自身が必ずなすべきことだとも考えた。しかし1969年に、ソウル特別市の勤労監督官室に陳情書を提出したが、審査すら受けることができなかった。私自身がとても幼いと無視されたからだ。私自身が直接製品事業を始めて、正当な税金を払って、技能工を機械ではなく、人間的な、学習の適齢期の少年少女として、ここで適切な待遇をしても事業を成功させることができることを、社会の色々な経済人、特に平和市場の製品系統の事業主に認識させるためだ。最初は事業資金を作らなければならないから、社会の色々な篤志家に私の目的とするところを理解して貰って、資金を求めるのだ。社会は普通の人が考えるように、そんなに貧しく乾いていないと信じるからだ。各自がそれぞれ解放と6・25を体験した強迫観念をぬぐい去ることができないために起きる、精神的な誤解だ。私は事業計画を立てたし、私を助けて働く人も周囲にいる。だから事業資金だけ準備できれば、事業の80%以上を達成したようなものだ。資金を作るために1)私は学歴がないので大学の同窓がいない。また、家族・親戚の中にも、私が必要とする位の資金を出せる人がいない。だから、私の持っているものの中で社会に出せるものは、社会が必要とするもの、すなわち片方の目を社会に奉仕することだ。目を社会に奉仕し、私は社会から資金主を紹介される。私の命がある限り、この事業を必ず成し遂げる決心の下で行う二番目の方法だ。2)資金主の利得になる条件提示:私はこの事業を3〜5年間は、私がすべての権限と責任を持って引き受ける代りに、この事業が完全な軌道の上に載ったことを自他が公認する時期には、何らの条件なく、すべてを資金主に返還する。そうすれば条件が良いから投資をするだろう。***************************************************************************このように始まる全泰壱の『事業計画書』には、ミシン50台、従業員157人、資本金3000万ウォンの事業体に関する非常に具体的で詳細な内容が、大学ノート25ページの分量で記されている。今見ても実現可能な模範企業の青写真だ。しかし結局、全泰壱は資本金3000万ウォンを作ることができず、いや目を失ってでも協調を求めようとした、そこまで信じた社会から敬遠され、蔑視され、その夢をあきらめてしまうほかなかった。夢が挫折して希望が絶たれた全泰壱。結局当時の韓国社会は全泰壱を死の絶壁に追い遣ったのだ。生きている全泰壱になる方法最近、社会的企業と共に『企業の社会的責任』についての話が普遍化し、労働組合や労働者の社会的責任についての話もされている。当然で喜ばしいことだ。しかし具体性や信憑性がほとんどないのが現実だ。仕方なくしたり、真似をすることに汲々としている。40年前の全泰壱が、いまだに私たちのそばに生きているのは、彼の夢と計画が今この瞬間にも生きているからだ。その一つが、彼が模範企業と表現した社会的企業と、企業家と労働者の社会的責任に対する卓見だ。「正当な税金を払って、勤労基準法を遵守しても、製品の系統で成功できるということを色々な経済人に立証させ、社会の様々な悪条件の中に誠意もなく放置された幼い童心を、一日一刻も早く救出しようと言う趣旨」を掲げた全泰壱の精神を、今日私たちがそっくりそのままに受け継がなければならないだろう。全泰壱40周期。私たちは、今日も困難な条件の中で抑圧され、踏みにじられている労働者、民衆の中で生きている全泰壱と出会わなければならない。そして、私たちすべてが全泰壱にならなければならない。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー韓国労働社会研究所「労働社会」11.12月号40周忌事業の中から見る全泰壱の生き方と精神全泰壱の今日、今日の全泰壱パク・ケヒョン(全泰壱財団事務総長)中卒の学歴しかない私は、せっかちな性格ために新聞すら見出しだけ見たり、初めと終わりだけ読んで、あらましを勘で理解します。また怠け者で、無知で、『労働社会』という雑誌が事務室に配達されてきますが、ほとんど一行もまともに読んだことがありません。そのような私に文書依頼がきました。それも高級な文章が掲載されていると思っている『労働社会』という所から。文章を書いたのは30年前と24年前、監獄で書いた何通かの手紙がすべてという私への依頼です。『全泰壱40周忌』について書いてくれというので、関係者(私は全泰壱40周忌行事委員会で財政と教育を担当しています)として逃げることもできず、結局気後れしてしまい、締め切りの日にこの文章を書いています。【全泰壱橋の名前を付ける汎国民キャンペーン808行動の3日目の様子。小学校の生徒が現場体験学習として参加した。】40周忌事業、全泰壱の名前で一つになろう全泰壱40周忌を迎えて、全泰壱財団では何をどのようにすべきかを悩み、20人余りの様々な人たちが集まって、<美しい青年全泰壱40周忌行事委員会(準)>を構成しました。そして非正規職と青年失業者など、『疎外された労働と共にする』という基調の下に、△広場チーム、△広報チーム、△組織財政チーム、△記憶主幹チーム、△教育チーム、などを作って40周忌行事計画を立てました。広場チームは、6月から毎月闘争現場を訪ね、彼らと共に全泰壱文化祭をしながら闘いに結合してきました。記憶主幹チームは、10月30日に市庁広場で全泰壱祝典を行い、11月1日から11月6日までは、文化芸術家と共に普信閣で文化行事を、また11月1日から13日までは、民族美術家協会の会員たちの作品で、清渓川2街から6街まででの展示会を行う予定です。他のチームも名前に見合った事業計画を立て、進めています。そして40周忌行事の核心事業として、現在『柳橋』と呼ばれている清渓川6画の平和市場の前にある橋の名前を、『全泰壱橋』に変えるための対国民キャンペーンを進めています。 <全泰壱橋と名付ける汎国民キャンペーン808行動>と名前を付けたこの事業の主要な内容は、全泰壱の誕生日である8月26日の宣言式をスタートに、彼が焼身した11月13日までの80日間、一日8人が参加して、ピケ・キャンペーンを展開するというものです。5年前、清渓川が今の形に作られて橋ができた時、市民公募で柳橋という名前が付けられました。その年は全泰壱35周期だったのです。そして柳橋一帯に約3万人が参加して、全泰壱同志を讃える文章を書いた5千余りの銅版を敷き、全泰壱の銅像を建てて、その精神を讃える事業を行いました。柳橋のすぐそばには平和市場がありますが、ここは1970年11月13日、23才の青年全泰壱が「勤労基準法を遵守せよ!」と叫びながら、自らの身体を燃やした場所であるからです。全泰壱同志の魂と市民の全泰壱に対する思いが宿ったこの場所に、何の意味もない柳橋という名前より、全泰壱橋という名前を付けるのは当然だということです。5年前から進められた全泰壱橋に名前を変えるための努力は、40周忌を迎えてついに実を結び、ソウル市の市議会は10月19日に『全泰壱橋』と命名する決議案を全員一致で通過させ、ソウル市は市民の要請を受け容れて、『柳橋』と『全泰壱橋』を並行表記する方案を、ソウル市地名委員会に上程しているという状況です。一方、40周忌行事委員会を作る時は、橋命名事業、広場事業、記憶主幹事業、市民祝典などの目に見える成果を挙げることも重要だが、私たちが今、進歩という名で活動しながら考え方が違うという理由でバラバラに分かれているのを、『全泰壱という名前で一つになろう』という趣旨も大きく働きました。行事を終えつつある今、考えの違う色々な人々が共に仕事をしてきたという、目に見えない成果も非常に大きいと考えます。「全体の一部である私」全泰壱は小学校を4学年、中学校の過程を約1年ほどしか通っていませんが、本当に多くの文章を書きました。自分を規定する時、いつも独立的な個体と考えないで、「全体の一部の私」と考えました。いつでも他の人と自分を分離して考えなかったのです。そして他の人々を呼ぶ時、「私を知るすべての私よ」、「私を知らないすべての私よ」と言いました。「私を知る私」は誰かと言うと、平和市場で酷使され、搾取された幼い「シダ(訳注:「下働き」を意味する日本語から転じた)」たち、あるいは「バカの会」の友人たちです。このように「私」を知る友人は多くありません。そして「私を知らない私」が誰かと言えば、私が知らないどこかで、平和市場の「シダ」たちのように、搾取と貧困の長時間労働に苦しめられ、非人間的な待遇を受けている人々、あるいは私が知らない所で全泰壱同志のように、人間らしい世の中を作り出そうと努力するすべての人々のことです。だから、今日この世の中のどこかで酷使され、搾取され、人間らしい世の中を作るために生きていくすべての人々が、全泰壱なのです。「君たちのそばを離れないために、弱気な私をすべて捧げます」全泰壱同志は年齢が17才になった1965年、平和市場の学生服オーダーメード店の『三日社』にシダとして第一歩を踏み入れました。一日の日当が50ウォンに過ぎない、話にもならないほど不公平なところでした。当時は喫茶店でお茶一杯の値段が50ウォンだったから、一日14時間もシンドイ仕事をした代価が、一般の人のお茶一杯に過ぎなかったのです。当時、平和市場の1階は店舗で、2階と3階が工場でした。10坪程の工場は、空間を広く使うために別に中二階を作り、中二階と上では裁断をし、中二階の下では一日中腰を伸ばすこともできずにミシンとシダの仕事をしなければなりませんでした。換気扇の設備一つもない所で仕事をすれば、胃腸病や肺病にかかるのが常でした。健康診断は形式的にはありましたが、職員が30人いれば2人程が代表して受けて、X線をとってもフィルムはなく、その上結果を知らされることもありませんでした。ある日全泰壱は、ミシン士が喀血をして倒れる姿を見ることになります。そこで、これらのために生きようと決心をすることになります。そして勤労基準法を勉強することになるのですが、本はすべて漢字ばかりでした。それは全泰壱を、漢字を学ぶために大学生の友人が一人でもいたらと、嘆かせました。勤労基準法によって労働者が一日8時間働いて、週1日休んで、1年に一度は健康診断を受けなければならないことを知ることになります。このような労働者を保護する色々な法律があるのに、全く保護されていないわれわれはバカだ。だから労働条件を改善するために『バカの会』を作って、また『サムドン懇親会』も作って、労働条件改善にも先に立ちます。自分が仕事をしている場所である平和市場、平和市場で仕事をする年の幼い女工たち、彼女たちが体験している苦痛。全泰壱同志にはそれはまさに、自らが体験している苦痛でした。そういう思いは、全泰壱が焼身する3ヶ月前、三角山の祈梼院で遺書のように書いた次の日記によく現れています。この決断にどれ程長い時間を迷い苦しんだか?今この時刻、完全に近い決断をして、私は帰らなければならない。どうしても帰らなければならない。かわいそうな私の兄弟のそばへ、私の心の故郷へ、私の以上のすべてである平和市場の幼い童心のそばへ。私を捨て、私を殺して行きます。少しだけ我慢し、耐えていろ。君たちのそばを離れないために、弱気な私のすべてを捧げます。君たちは私の心の故郷だ。・・・・・・・・今日は土曜日、8月二回目の土曜日。私の心に決断をしたこの日。罪もない生命体が枯れているこの時に一滴の露になるためにもがいてきたが、神様、哀れみと慈悲を施して下さい。全泰壱の『草パン精神』、繰り返さなければならない正規職労働組合その当時、平和市場には色々な種類の労働者がいました。裁断師、ミシン士、アイロンがけをする仕上げ士などがいましたが、全泰壱同志はその中でも最も底辺にいる12〜15才のシダに対する愛情がとても具体的で手厚かったのです。それで労働環境を改善するについてもシダに主眼点を置き、清純で汚れのないシダたちに、なぜこの社会は残忍で暗い面だけ見せるのかと、国の経済成長の原動力であるシダたちを保護しなければならないと、大統領に手紙も書きました。全泰壱同志が解雇されて三角山で肉体労働をしながら、どうしても帰ろうと思ったところも、平和市場の幼いシダたちがいる所であったし、「私を捨て、私を殺して行きます。」と言った所も、この世で最も底辺で搾取され、長時間労働に苦しめられているシダたちがいる所でした。今日的に言えば、非正規職労働者がいる所でしょう。いま私たちが全泰壱40周忌を迎えて、全泰壱、全泰壱、と言って『全泰壱精神』を叫んでいますが・・・・。口で言うだけでなく、本当に全泰壱精神とは何か、あるいはそこから得なければならない教訓には何があるのだろうか、こうした思いを心底からしてみなければならないでしょう。全泰壱同志は交通費をはたいて買った草パンを、昼食もなくお腹を空かせたシダたちに分けてやり、自分は2、3時間も歩いて家に帰りました。この草パンは単純に空腹を抑える何切れかのパンではなく、「私も苦しいが、私よりもっと苦しい労働者と共にしよう」とする、愛と配慮と連帯の表示なのです。もし全泰壱が生きていれば、すぐに最も底辺に住んでいる非正規職がいる所にでも、青年失業など差別された所にも行こうと思うでしょうし、それらのために闘ったでしょう。ところが今日、いわゆる正規職労働者たちの胸の中には全泰壱がいないようです。数多くの労働者が非正規職として苦しんでいても、正規職の事業場に段々と非正規職が増えていても、現在自分が属している正規職だけが無事なら良いという、こうした安逸な考えでいるのではないか、本当に嘆かわしいことこの上ありません。40年前に全泰壱同志が草パンを分けあいながら、底辺にいるシダたちを愛し、それらのために闘ったように、正規職である労働者も全泰壱40周忌を迎えて、全泰壱の『草パン精神』を思いながら、非正規職労働者に対する同志的な愛情で、愛し、配慮し、連帯しなければならないでしょう。すべての運動がそうでしょうが、特に『労働運動とは連帯すること』です。連帯しない運動は利益団体そのものです。「私は苦しい時があれば全泰壱を考えます」全泰壱同志は貧しく、苦労をしながら生きてきました。家出をして、靴磨き、新聞売り、ガム売り、火鉢屋、ひどい時は物乞いをするほど貧しかったのです。しかしそのような生活をしながら、絶対に挫折しなかったのです。絶望することもありませんでした。むしろ、そうだからこそ、なおさらそうしてはいけない、私たち労働者も人間らしく生きなければならない、私たちのような底辺の人生も、人間らしく生きられる社会が建設されなければならないという、高い夢と理想を持ちました。そしてその夢をかなえようとする意志と情熱を育てていった人です。これが全泰壱において最も偉大なところで、全泰壱精神の核心の要の部分です。私にとって全泰壱は何かと言えば、キリスト教徒は苦しい時はイエスを、仏教信者は苦しい時は釈迦を思うでしょうが、私は苦しい時は全泰壱を思います。私がどんなに苦しい時でも、全泰壱だけをしようと考えるのです。困難の中でも大きな志を持って生きていた泰壱兄さんは、私の人生の座標です。『全泰壱精神』の核心は徹底した楽観全泰壱評伝の一番初めの一節に、こういう一節があります。「私は少しだけかわいそうな人を見ても、一日中憂鬱な人間です。私はその困難な環境を隅から隅まで知っているからです。」全泰壱は、自分が大変苦しい生活を多くしてきたために憂鬱ではあったのですが、こうではいけない、このように苦しい環境に暮らす人も人間だとして、人間らしく生きられる社会が作られなければならないと考えました。その次一節です。 過去が不遇だったといって、その過去を恨むだけならば、その過去は君の人生にとって私生子になるのではないか?過去が不遇だったからといって、それをひっきりなしに後悔してはいけないというのです。むしろ、そこからもっと大きな愛と、もっと大きな知恵を得て、自身の発展の契機にすることがあっても、そこに落ち込んだり、絶望してはいけないというのです。全泰壱、私たちの怠惰と安逸と偽善を写す鏡全泰壱同志が望んだ世の中とは、どんな世の中でしょうか? お互いが解け合っている状態、人間的な情を分かち合いながら暮らせる社会、働いても楽しい労働。全泰壱同志は多くの勉強をしていないために、社会科学的な用語を使ったことはありませんが、このことを一言で言えば、『解放された労働、解放された人生』と言えないだろうかと思います。こうした高い夢を実現するために、全泰壱同志は闘いました。そして「私の死を無駄にするな!」と言いながら死にました。そして本当に死が無駄にならなかったのかは分かりませんが、とにかく全泰壱同志が亡くなって、オモニを始め、清渓の労働兄弟たちだけでなく、数多くの人々が、彼の死を歴史発展の契機にしました。全泰壱同志が焼身した直後の1970年11月25日、新旧合同礼拝でキム・ジェジュン牧師は、「今日私たちは全泰壱の死を哀悼するためにではなく、韓国キリスト教の怠惰と安逸と偽善を哀悼するために集まった」と話しました。これはキリスト教だけでなく、この国の政治家、知識人、労働運動指導者の怠惰と安逸と偽善を言ったのです。40年が過ぎた今日、政治家、知識人はもちろん、特に労働運動指導者たちの怠惰と安逸と偽善はないのか、深く省察してみることです。40周忌事業以後、全泰壱財団がする仕事40周忌事業以後、全泰壱財団は日常的な連帯活動と、全泰壱文学賞、全泰壱労働賞などの従来の活動だけでなく、広場チームが毎月行った『闘争事業場と共にする全泰壱文化祭』などをずっと行っていく予定です。そして今は財源がなくてできていませんが、労働賞を国際化させる事業もしようとしています。企業はすでに多国籍化され、東南アジアはもちろんアフリカなど、搾取の構造さえあれば地球村のどこにでも入っていき、移住労働者たちは日増しに増えています。こういう状況の中で、この人たちも自分の国で、労働運動を通じて人間らしい人生を生きていけるように、全泰壱を知らせ、労働運動が活性化されるように、労働賞を国際化する必要があります。もちろんその国の言葉で『全泰壱評伝』を発刊する活動も必要です。長期的な事業としては、現在の高等学校の近・現代史の教科書には全泰壱について、「1970年に勤労条件改善を叫んで焼身自殺した者である」という文章一行と小さな写真が載っていますが、全泰壱の人生と精神が、小学校、中学校、高等学校の教科書に完全に載せられるようにする運動を展開する予定です。そして全泰壱記念館の建設事業を進める予定です。それは、多くの労働者の休息の空間と、各種研究と教育事業、そして今でも事務室がなくて苦労している多くの労働団体が一緒にできる記念館として建設されたら良いと思います。