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LNJ Logo 飛幡祐規のパリの窓から〜ダニエル・ベンサイドの死を悼んで
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第8回・2010年1月27日

行動と思想、政治と「詩的なもの」
――ダニエル・ベンサイドの死を悼んで

フランスはまた、現代の知性をひとり失ってしまった。1月12日、哲学者であり、政治運動の活動家でもあったダニエル・ベンサイドが亡くなった(63歳・写真)。彼はパリ第8大学で哲学を教えるかたわら、不平等な世界の根本的変革(革命)を求めて、マルクス主義を軸にたゆまず思索しつづけ、トロツキスト系の極左政党LCR(「革命的共産主義者同盟」、2009年から新政党「反資本主義新党」NPAに発展)の思想家・活動家として、社会の中でも行動してきた知識人である。1968年五月革命世代のベンサイドはLCRの創立メンバーであり、今日にいたるまで、資本主義社会の不当・不正に対するラジカルな闘いを放棄しなかった。世界各地で革命の夢が破れ、共産圏では全体主義が共産主義の理念を抹殺し、ヨーロッパの社会民主主義政党が80年代以降、グローバル化した資本主義に歩調を合わせて福祉国家を解体していく中で、左翼と新左翼の敗北の原因を追究し、新たな展望と可能性を探りつづけた。90年代中頃か らグローバル資本経済がもたらす弊害、とりわけ貧富の差の増大や環境破壊に対する認識が高まり、市民によるオルタナティヴ運動があらわれると、ベンサイドの思想は国際的にも注目されるようになった。日本では『新しいインターナショナリズムの胎動帝国の戦争と地球の私有化に対抗して』(湯川順夫他訳、柘殖書房新社)が訳されているが、マルクス、ベンヤミンについての作品をはじめ、30冊近くの著書がある。

 ベンサイドは2001年に雑誌「Contretemps(コントルタン:ここでは時勢に対抗するという意味)」を発刊し、共同で社会変革の思想を模索してきた。去る1月22-23日には彼のつくったルイーズ・ミシェル協会主催で、パリ第8大学でシンポジウムが開かれた。「共産主義の力強さ」というタイトルのシンポジウムのために書いた原稿が、彼の最後のテキストとなった。そこには、商業的な法則によって数量化することはできない豊かさを価値とし、自然環境の破壊を阻止できる社会をめざすために、共産主義の理念(平等と分かち合い、連帯、人類の自然・文化共有財産の擁護、生きていくために必要なもの・サービスの無償化・脱商品化)が最も有効であるという主張が述べられている。ソ連など社会主 義を名乗った国々が犯した、そして現在も行われている人権・自由の侵害と犯罪は、官僚全体主義政体がもたらすもので、共産主義の理念においては個人の自由な開花(「型にはまった広告に順応する独自性のない個人主義ではない」)が条件であったはずだと指摘する。(「ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件である」――『共産党宣言』マルクス エンゲルス)ベンサイドの信じる共産主義の展望には、男女関係の変革も含まれる。「ジェンダー間の関係の経験は、最初の他者関係の経験である。ジェンダーによる圧制があるかぎり、文化や肌の色、性指向の異なる人に対する差別・圧制はなくならない」。

 68年当時の同志の多くが闘いから離れ、権力と資本におもねる側についた人もいた中、ベンサイドは過激な社会変革(革命)に対する信念と実践、マルクス主義の遺産を新しい世代に伝える「渡し役」を担ってきた。彼が活動をつづけた政党LCRは2002年のフランス大統領選挙に、当時28歳のオリヴィエ・ブザンスノを候補者に選んだ。若い郵便局員ブザンスノは第一次投票で120万票(4,25%)を獲得、2007年の大統領選第一次投票では150万 票近く(4,08%)を得た。好感をよぶブザンスノのキャラクターにもよるが、既成左翼政党に幻滅した人々や市民運動家などに、きっぱりした左の主張が響いたのであろう。LCRはまた、人種差別反対や「不法」滞在外国人の支援にも力を入れている。LCRと組合・市民運動の人々などがいっしょになって昨年発足した反資本主義新党NPAには、若者もたく さん集まっているようだ。「国際的なデモや社会フォーラムなど、別のものへの強い欲求が再び動き出した。それはまだ、おぼつかない回復期のようにもろく、弱々しいざわめきであり、後退と敗北の退行的な悪循環を好転させるには不十分だ。しかし、別の世界が必要だと主張することはすでに、既成事実による支配を揺さぶることだ。大事をなし得る者には小事もなし得る。この別の世界が可能になるためには、別の左翼が必要だ。自説を曲げたり隠蔽したりする左翼ではなく、軽くなり潤いを失った左翼ではなく、この時代の挑戦に太刀打ちできる、闘う左翼だ。」(自叙伝からの抜粋)

 ベンサイドは1990年にエイズに感染したことを知った。以後は各地を飛び回る活動を減らし、病とも闘いながら、記事と書籍の執筆をつぎつぎと積み重ねた。その20年間、彼は生来の明るさと寛大さ、生に対する愛とユーモアをもちつづけた。ベンサイドの死後、ル・モンド紙、リベラシオン紙、ウェブ新聞のRue89、メディアパールをはじめ左派のメディアなどで、多くの弔辞や生前のインタビューが報道された。関係の深かったスペイン、イタリア、ポルトガル、南アメリカ諸国でも反響があった。それらの弔辞やインタビューから浮き上がるのは、明敏で雄弁、自分が信じる理念に忠実な、誠実で暖かい人物像だ。自叙伝の 『Lente Impatience(待ち切れない思いでゆっくりゆっくり、とでも訳しておこう)』で彼自身、「自分は権力欲がないから政治には向かなかったかも」と言っているように、ベンサイドは名誉欲や権力欲のない、たぐいまれな人だった。フランスの知識人には珍しく、両親はトゥールーズでカフェをやっていたという庶民の出身で、トゥールーズ地方独特の歌うような訛りが印象的だった。ジャック・ランシエール、アラン・バディウ、イタリアのジョルジオ・アガンベン、スロベニアのスラヴォイ・ジジェクなど、現代の左派思想家と議論を重ねる一方、誰とでも気さくに対話し、社会運動に参加した。わたしも何度か会って話したことがあるが、暖かく懐の深い人間的な魅力と知性の光る人だった。

 1月24日、日曜の午後、パリで開かれたベンサイドへのNPA主催のお別れの会(写真上)には、2000人もの友人や同志が集まった。元ル・モンド紙の編集長で現在メディアパールの責任者、かつてLCRで活動を共にしたエドウィー・プレネル、チリでピノチェト政権に殺されたミゲル・エンリケスの妻、カルメン・カスティーリョをはじめ、それぞれが心のこもった弔辞を述べた。パリ第8大学で哲学を学び、ベンサイドの授業にも出ていた歌手のエミリー・ロワゾーは、 自作の美しい曲を歌った。詩人のセルジュ・ペイは、ベンサイドの好きだった詩を熱情的に朗読した。文学の素養も深かったベンサイドは詩を愛した。エド ウィー・プレネルは、ベンサイドの生き方と著作には政治と「詩的なもの」が融合していたと評価する。詩的なビジョンで政治を創造的なものにすることーーそれは、昨年の2月、エドワール・グリッサンやパトリック・シャモワゾーをはじめアンティル諸島の知識人が要求した「詩的なもの」につながる。(アンティル諸島のゼネストと「詩的なもの」参照)

 ベンサイドは時勢に対抗し、世界は変革しなくてはならないという賭けを過去の闘争・思想の歴史から現在につなげ、未来への指標として示した。彼の著作と生き方はこれからも、人間らしく生きるとはどういうことかを若い世代に問いかけるだろう。

ベンサイドへの最後のオマージュ:
http://www.mediapart.fr/club/edition/pol-en-stock/article/260110/ dernier-hommage-daniel-bensaid

2010.1.27 飛幡祐規(たかはたゆうき)


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