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LNJ Logo 松本昌次の「いま、言わねばならないこと」第11回
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第11回 2014.2.1 松本昌次(編集者・影書房)  

木下順二が問いかけたもの

 先日、50数年ぶりに、木下順二作・団伊玖磨作曲のオペラ『夕鶴』を、上野・東京文化会館の天井桟敷で観た。主役のつうは佐藤しのぶさん、その歌唱力と演技には深い感銘を受けた。『夕鶴』はもともとは戯曲で、1948年、木下さんがわずか8日間で書き上げたものを、山本安英さんが生涯に1037回、舞台で演じた。『夕鶴』を創業1冊目とした未来社に、わたしが編集者として入社したのが1953年、以来、出版界の泥沼からいまなお足が抜けないわたしにとって、『夕鶴』には格別の愛着がある。木下さん、山本さんとも亡くなるまでおつき合いさせて頂いた思い出も深い。それらが今回のオペラ『夕鶴』公演に、わたしの足をむかわせたのだった。

 しかし、それらはともかく、また観劇後の印象などは別にして、上演中もその後も、わたしの頭に去来しつづけていた思いは、カネ、カネに引き廻される政界、官界、財界などのトップに立つ連中の雁首を、『夕鶴』の舞台のまん前にひき据えて観せてやりたいということだった。彼等は、『夕鶴』を知りもしないだろうし(教科書にあったはずなのに)、観てもなんの感動も覚えないほど精神はカネ漬けで鈍麻しているかも知れないけれども。

 ご存知の方も多いと思うが、『夕鶴』は、矢を射られて苦しんでいた鶴が助けてくれた貧しい農夫与ひょうの家に、女に化身して訪れ、夫婦となって幸せに暮らすという昔話「鶴の恩がえし」をもとにした民話劇である。しかしつうがお礼に秘かに織った千羽織が高く売れ、それに目をつけた近所の仲間の惣どと運ずにそそのかされて、与ひょうもカネに目がくらみはじめる。絶望したつうは、最後の力をふりしぼって織った千羽織を与ひょうに残し、また鶴にもどって空高く去って行く――。

 戦後の演劇界で、これほど人口に膾炙した作品も稀だが、この一見、素朴と思われる民話劇のなかに木下さんがこめた思いは、以後のすぐれたかずかずの現代劇・歴史劇のすべてに貫流するものでもある。なにもかもがカネと、それにまつわる利益にひきまわされる近代資本主義発展のただ中で、人間として守るべき真の姿は何か。なぜ、つうは人間を見限って去って行かねばならなかったのか。生涯をかけて木下さんは問いかけたのである。しかし日本の近代の壁は厚い。それゆえ、木下さんの作品の主人公のほとんどは、結末において訣別・挫折・自裁、または国家的抑圧による敗北・死に直面せざるを得なくなる。つまり“負”の側から日本近代のありようを照らしだすことによって、その矛盾をわたしたちに明らかにしたのである。

 『沖縄』という作品がある。戦争中、日本兵によって恋人を殺された主人公の秀は、幕切れでその復讐を果たしたあと、海に身を投げて自裁する。その秀がたえずくりかえす台詞――「どうしてもとり返しのつかないことを、どうしてもとり返すために」こそ、木下さんがわたしたちに届けたかった最も大事な言葉であろう。去って行ったつうをもはやとり返すことはできない。しかしどうしてもとり返さねばならない。日本近代が行ったアジア諸国に対する植民地支配、侵略戦争、それらによる膨大な加害のかずかずは、とてもとり返すことはできない。しかしどうしてもとり返さねばならない。それらがカネや条約なんかで結着がつくはずはない。

 木下さんは、朝鮮に対する植民地支配、中国をはじめとするアジア諸国への侵略戦争、沖縄に対する差別の三つを、本土日本人が近代に背負った原罪といった。原罪であるから、いまに生きる日本人の誰一人として、わたしには、過去の歴史に責任がないとはいえないのである。それにしても、カネの亡者のような政府支配者たちよ、『夕鶴』ぐらい読んでみたらどうか。それでもムダかも知れないけれども。

*写真(C)三浦興一 

オペラ『夕鶴』公演情報


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