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第5回 国労魂とは何だったのか?〜国鉄闘争の総括(下)

*このシリーズは上・中・下の3回に分けて掲載します。上(1〜6)は2/16掲載。中(7〜12)は2/23掲載してあります。写真は、1986年10月修善寺大会の会場前

国鉄闘争の総括―戦後労働運動の生成・発展・消滅過程と国鉄労働組合の検証――

             江藤正修(2011年2月15日脱稿)

13,慣例・慣習のまま放置された権利とヤミカラ問題

 ここで総括しなければならない最大の問題は権利問題である。日本の労働社会を特徴づけた年功序列は、歴史的に見れば身分制度的な慣習が復興過程における能力主義と結びついた構造、すなわち前近代と近代が結びついた混合社会に依存してきた構造である。この構造は、人権や平等などのヨーロッパ啓蒙思想からくる市民主義的な権利意識と結びつかなかった。その結果、労使の力関係の中で勝ち取られた権利は、慣例や慣習という形のまま放置されたのである。

 したがって労使の力関係が変われば、慣例、慣習のまま放置された権利は当然、ひっくり返されていく。その典型が国鉄分割民営化の中で集中攻撃を受けたヤミカラ問題(ヤミ出張、カラ手当)である。経営側が法律で攻撃をかけてくるのに対して、権利を契約として法制化、制度化する闘いをしてこなかった労働組合は法律で対抗できない。ヨーロッパ市民社会における権利闘争は、職場の権利を制度として定着させつつ対抗関係として蓄積していったが、日本ではその時々の力関係の中で慣習、慣例として承認させることで終わっていた。力関係が変われば慣習、慣行はガラガラと崩れ、法律的にも無法として放逐されていく。そのような形で表れたと思う。

 そこには、協約や法制化という形で制度的な権利を定着させ、それを攻勢の基盤にしていくという発想が存在していない。思想的にいえば市民社会の欠落である。ヨーロッパ啓蒙思想以来の自由・平等・人権など、自らが自然権として持っている権利を法制化、制度化していく改革運動という形で権利闘争が展開されなかった。力関係で勝ち取った一つひとつを陣地として固めていかなかったために、陣地戦を展開することができないのである。

14,全電通が主導した権利の法制化

 このような権利の法制化を提起したのは、むしろ右の側の全電通である。全電通が展開した労働協約の中央集約闘争は要求をすべて中央に吸い上げ、上層での取引を下におろすやり方である。

一方、ヨーロッパにおける権利の法制化運動は、職場の制度としての権利定着が目的であった。上層での取引というよりも、そこで勝ち取った権利を職場闘争などを通じて法制化させる。すなわち、職場委員会や工場委員会などを作り、そこで勝ち取られた権利を労働組合の機関を通じて法制化し、定着化していくのである。すべてを上に吸い上げて、勝手に取引をして下におろす方式ではない。

ところが全電通は近代化という名の下での中央協約闘争に転換することで職場闘争を解体し、職場を自己の官僚的統制下に置く路線を取った。これが近代的な方針として提起され、権利の法制化・制度化の闘いはそのようなものとして利用されていったのである。 反マル生闘争、スト権スト、分割民営化反対の70年代から80年代における国労の闘いは、客観的に見れば労働組合の国家への癒着戦略=ネオ・コーポラティズムへの抵抗の闘いを意味した。

 先に見てきた全電通のイニシアティブは、70年代における国民春闘―制度・政策要求の路線として進展し、その路線転換は総評事務局長の国労(岩井章)から全電通(大木正吾)への交替として現れた。

15,総評の路線転換と右派イニシアティブの成立

 60年代〜70年代前半の高度経済成長(大量生産・大量消費)は、労働運動を企業内の枠にとどめることを許さず、全社会的要求=闘争へと発展させることを必要とさせた。したがって総評の路線転換、国民春闘(制度・政策闘争)路線は、労組ナショナルセンターによる政策の共同決定への参加権を要求する闘いであることを意味した。

 だが、日本における国家(政府)のそれまでの政策決定の社会的基盤や機能は、政官財(業)三者共同トライアングルによって遂行されてきた。全電通の先に述べたようなイニシアティブの性格は、まさに政官財(業)の共同決定過程に「労」が一枚加わることを要求するものである。すなわち総評右派の新戦略の意味するものは、ネオ・コーポラティズムに向けた労組の国家への癒着の構造をめざすものだったのである。

(もちろん後に明らかになるように、総評を解体し、連合結成に向かうこうした全電通を軸とした右派勢力の戦略的構想は、ブルジョア総体の新自由主義路線への転換によって破産を強制されるのであるが。)

 いずれにしても、70年代国民春闘(制度・政策闘争)を通じて総評は右派がイニシアティブを強め、闘いを中央の交渉(取引)に集約することで労働現場、地域現場の大衆的基盤(民主主義的機能)を解体し、中央集権的な官僚機構へと帰結していった。

16,総評左派が取るべきだった対抗戦略とは……

 だが、問題なのは、国労を中心としたスト権ストから分割民営化反対に至る闘いが、国家の共同決定装置に参加(癒着)しようとする右派勢力の戦略に対して、左派勢力の戦略的対抗軸として組織させず、戦術的抵抗レベルにとどまったことである。

 70年代春闘から始まった戦略的攻防を内包する総評路線の転換において、国労を中心とした左派勢力が対抗戦略を形成し得たとするならば、どのような闘いが必要であったのか。

 それは第一に国民春闘の共通のスローガンとなった弱者救済の闘い=下請・孫請の未組織労働者、臨時工、パートなど非正規労働者の要求を軸に企業の枠を超えた社会的広がり持った運動を恒常的に組織することであった。それは主体的には、企業内組合の限界を突破する出発点になり得た。

 第二に、スト権奪還の闘いの中で現場協議制度など現場における共同決定装置を協約化・制度化し、現場の権利と民主主義の体制を定着化させていくこと、その主体として現場で職場委員会を大衆的に選出し、現場交渉制度を強力なものとして確立していくこと、などだったであろう。

 こうした現場(末端)からの労働者権利(現場の大衆的民主化とその制度化)を基盤としつつ上部への統制監視力を強めて、はじめて中央における共同決定(参加)に対する左派の対抗戦略を組織することが可能となったといえよう。

 だが結果はどうだったのか。弱者救済を掲げながら、春闘共闘は組織(本工)労働者の賃上げ決着で闘いを終焉させた。国民春闘における弱者の闘いは、組織労働者の賃上げに利用されるだけの結果に終わった。一方、それに沈黙し、対抗力を発揮しえなかった総評左派は、戦略的対抗軸の基盤(余地)を失い、企業内の戦術的対立に限定される存在となった。

17,戦略的な自己再組織化の失敗と長期戦による消耗

 国労の修善寺大会から裁判闘争の過程は、戦術的抵抗から戦略的対抗軸へと自己を再組織しえるのか、戦術的抵抗にとどまったまま後退戦を通じて力を喪失していくのかの分岐点であり続けた。だが結果として国労闘争は、その全体を通じて戦略的再組織化の出発点に到達することができなかったといえよう。

 こうして国労左派が対抗戦略を持つ余地を失ってなお頑張ろうとするならば、開き直りのエネルギー(怒り)で自らを奮い立たせる以外にないのである。すなわち現場協議制(職場闘争)など現場で蓄積した労働の誇りや戦闘性は、進むべき戦略的方向を見いだせないまま、抽象化された「魂」で闘うことを強いられるのである。しかし、このような開き直りのエネルギーは長続きしない。長期戦に持ち込まれれば、全面的な後退戦を強いられることになるのである。

 抽象化された存在であったとしても、開き直りのエネルギーの源泉となった“国労魂”には歴史的根拠があったと思う。それは一時期、時代を動かす力でもあったが、その根拠を戦略的に創り直すことができなかった。“国労魂”による開き直りは展望なきツッパリ以上にならないまま、逆に包囲されて内部矛盾に陥り、全面的な後退を強制されることになったのである。この時、戦略的(政治的)展望のもとで、より長期戦を組織しえなければ、リアルな闘いで得た誇りや魂は抽象的な原理主義(ドグマ)に転落する危険性を持つ。

18,“市民的自立と連帯の主体”への自己の作り替え

 「中央における官僚的癒着のシステム」なのか、「職場、地域における大衆的権利の制度的定着」なのかをめぐる戦略上の分岐は、確かに資本主義制度の枠内における権利=改革の闘いである。

 高度経済成長を媒介とした20世紀後半の「後期資本主義」は、労働運動と社会主義が直接に結合する根拠を失わせる時代であったといえよう。したがって、われわれ新左翼が掲げた「社会主義をめざす労働運動」(「労働情報」の大阪集会はこのスローガンで組織された)の路線が破綻することになったのは必然であった。

 その意味において、労働運動の成果を資本主義的枠内であっても、現場、地域からの権利の定着―民主主義の深化―を来るべき陣地戦の基盤として打ち固めることが、今日の時代の戦略的課題として位置づけ得ると思う。その闘いは同時に、旧来の年功序列型の前近代を内包した団結基盤、また旧左翼の成立構造を新たな市民的自立と連帯の主体へとつくり変える闘いでもある。

 国労を軸とする総評左派の団結基盤やその戦闘力は、前にも述べたように職人的熟練技能が戦後復興過程で果たした積極的役割と、その労働訓練過程が生み出し引き継いだ徒弟的な序列とが、労働者の団結の基盤を成立させてきたことから生まれた。こうした総評左派がもつ前近代の共同体的団結(その労働への誇り)は経済の近代化、機械化の過程でその限界を露呈させ、成立基盤の解体をもたらすこととなったのである。

 資本の側は、高度経済成長の過程で近代化された若年の労働力、その科学、技術能力を「機会の平等」のもとにQCサークルやZD運動などを通じて積極的に組織し、経営主導の職場―生産運動を生み出していった。総評左派の年功的団結基盤は、こうして職場から解体されていったのである。

19,“結果の平等”に向けた歴史的反転の時代の始まり

 だが高度経済成長の終焉の次は、一方が発展すれば他方が衰退し、一方が勝者となれば他方が敗者になるというゼロ・サム時代に入り、さらに今日のグローバル経済と新自由主義からリーマンショックに行きついた。このような経済破綻の全面化は、資本の側が「機会の均等論」として近代若年労働者に幻想を与え、包摂してきた基盤の崩壊を意味し、新たな「弱肉強食」と「格差社会」の全面化をもたらしている。

 まさに今日の格差社会は、「機会の平等論」(それは能力主義、成果主義として搾取の自由化論と深く結びついて成立)が、結果の不平等と不可分の関係にあることを明らかにしている。新自由主義の破綻は、機会の平等論が結果の不平等と一体であることを明らかにしただけではなく、その理論的正当性の破綻をも暴露することとなった。

 そのことは高度経済成長の過程で守勢となった労働者、市民の側の反転が、客観的な歴史的基盤としては始まったことを意味している。すなわち、機会の平等から結果の平等へという道筋として、である。

 もちろん、主体の側の問題は、客観的な歴史的基盤の反転によって受動的に解決に向かうものではない。逆に危機の時代において、それに対応する主体の問題は、実践的にも、理論的にも深刻な格闘を迫ることとなろう。

 そのためには、国労を軸とした戦後日本労働運動の総括(反省)が徹底的にやり尽くされねばならない。その総括・反省を通じて、労働現場や生活現場から新たな生活権、決定権、参加権を大衆(直接)民主主義の深化を通じて再組織し、自治と連帯による「陣地戦」の基盤を作り上げていかなければならない。

 国労の苦闘の歴史的総括は、こうした新たな時代を切り開く契機としなければならないし、反転のための戦略的準備にしなければならないと思うのである。

20,【付記】

 この原稿は国鉄闘争総括の基本的考え方を提示したものであって、一応の決着を見た1047人問題の具体的内容にまで踏み込んではいない。国鉄闘争は支持拡大のため闘いを外延的に広げる必要に迫られた初期の時期、交通政策へのアプローチや市民運動・女性運動との連携(「国労だから女だからそんな差別は許さない!女のネットワーク」はその典型)など、大胆で貴重な運動を組織した。映像を通じたビデオプレスとの連携もその1つといってよい。また国労闘争団は生活し闘うための必然的選択肢として地域との関係を重視し、労働者生産協同組合など新しい運動に挑戦した。

 だが私は、今回の文章でその領域にはあえて踏み込まなかった。そのような具体的闘いを見据えた戦略的総括をやりうる主体は、当事者以外にありえないからである。したがって私は、戦後労働運動の過程を追う中で国鉄労働組合を検証するという客観的叙述の方法を取った。そのことで総括文章にリアリティが欠けているならば、“私たち”の能力不足をお詫びするしかない。

 いま、文責に関して“私たち”と表現したが、この総括文は私と寺岡衛との共同討論を経て江藤が執筆した。この間、私は寺岡とともに2冊の本を上梓した。1冊目は『戦後左翼はなぜ解体したのか』(2006年・同時代社)、2冊目は『20世紀社会主義の挫折とアメリカ型資本主義の終焉』(2010年・柘植書房)で、戦後労働運動を含む20世紀左翼はなぜ敗北したのかを分析した内容である。今回の国鉄闘争の総括は、この2冊の本で考察した論考を軸に展開したので、興味をお持ちの方は参照されたい。


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