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韓国:唐津脱石炭運動の「政治的」な倫理的教訓
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唐津脱石炭運動の「政治的」な倫理的教訓

[ワーカーズ三行要約]ヨ・ギボン「唐津エコパワー石炭火力発電所建設をめぐる脱石炭運動の展開過程と意味」ソウル大学校修士学位論文、2018

キム・ソンユン(文化社会研究所研究員) 2019.01.11 14:18

[出処:キム・ヨンウク]

微小粒子状物質の襲撃。 発源地が中国なのか西海岸なのか、どんな結論が出たのか知らないが、 全国的な現象になった環境問題として、 西海岸火力発電が問題になった事実を記憶している。 私たちの多くは一歩遅れてその事実を知った。

こうしたことには一種のパターンがある。 どこかに環境変化要因が作動しているのに、 始めはとても非可視的なので問題の深刻性がわからない。 「ああ豊かだ」。 少し後、化学物質過敏症(multiple chemical sensitivity)を訴える人たちが出てくるが、 この時も普通の人たちは彼らをおかしな人扱いをするのがすべてだ。 「何か特別なんじゃない?」 そのうちに強度が高まると多くの人々が今の状況が問題だと直感するようになる。 「ごほんごほん」。 自然に原因を求める。最初はたいてい寸劇だ。 サムギョプサルやサバ。 後になるとジャンル化される。 中国の工場、西海岸の火力発電、ディーゼル車などなど。

しかしもっと深刻な問題は、状況がこれでは終わらないと言う所にある。 原因を見つけたとしても科学的立証の問題が残るからだ。 微小粒子状物質と火力発電の間に相関関係があるとしても、 近代科学の精粋はこれが必ずしも因果関係とはいえないと明確にする。 私たちすべてが知っている常識でも、科学的な知識だという保障はどこにもないということだ。 まるで多くの肺ガン患者がいても決してタバコ産業が止まらないように。 その上、たいていの重要な情報は、問題を起こした当事者が独占しているはずだ。 こうした状況で可能なことは言い争いしかないのではないだろうか。 結局、市民と市民、活動家と専門家、企業と地方自治体、 そして中央政府などの大規模な伏魔殿が演出される。

ヨ・ギボンの論文 「唐津エコパワー石炭火力発電所建設をめぐる脱石炭運動の展開過程と意味」は、 まさにこの過程を誠実に表わした報告書だ。 忠南道唐津の話に接したことがあるだろうか。 論文は首都圏の居住者がばく大な量のエネルギーを消費して豊かさを楽しんでいる間、 唐津では環境汚染と地域社会対立が起きたことを指摘することから始まる。 新たに感じさせる。 私たちすべてが互いにつながっていることは分かっても、 事実、全般的にわれわれは無知か無感覚だ。 とにかく論文ではこうした話をしている。

  1. 石炭火力発電所近隣で健康と環境被害が耐えられない水準になった。 そしてこのような問題にまきこまれたたいていの地域がそうであるように 発電所側の懐柔と暴力が始まり、石炭火力発電を固守する既存勢力と 脱石炭を主張する勢力間の対立が現れた。
  2. 発電所の追加増設が試みられたが、始めは普通の増設反対運動と似ていた。 地域社会内で発電所増設が重大な懸案に急浮上し、 全国規模の連帯運動につながった。
  3. 興味深いのはこの過程で、増設反対の主張が次第に脱石炭の議題化に変貌し始めたという事実だ。 送電塔の建設をめぐって汎市民運動が組織される間、 ある種の相乗作用が現れて問題意識が専門化され、普遍的な見地を持つに至った。

表面だけを見るとこの論文は地域社会の対立の様相と環境政策的な示唆に焦点を合わせたように見られる。 実際に著者のヨ・ギボンは脱石炭フレームを通して分散型電源と再生エネルギーの導入という社会的要求を読みだす一方、 社会構成員との双方向の意志決定を骨子とする政策プロセスを要求する。 だが著者が明らかにしたことを越えて、 この論文で(あるいは著者が行間に隠した)学ぶべき点がさらに多いと思う。

村の住民たちが10年近く闘争しながら得たものは何だろうか。 そしてわれわれはそこから何を読みだすべきか。 始めはガン患者が急増するほど病気の人が増えて、 騒音と飛散粉塵で日常生活が不可能な状況だった。 ここから始まり、住民たちは一種の闘士であり、送電分野の専門家に生まれ変わった。 そして昨年末の8次電力需給基本計画の確定で、 唐津エコパワーLNG転換という成就を勝ち取った。 (相変らず山積する課題にもかかわらず) われわれはの村住民と地域運動の成長叙事に基づく一本の映画のような 政治社会的成果を話すこともできるだろう。

しかし対立と成就のドラマ構造を消費するだけではないのなら、 多少目新しい討論も可能かもしれない。 環境問題に覚醒した住民または市民が新しい存在として生まれ変わった効果は、 政策的な成果以上の論点に触れる部分があるためだ。 環境の変化によって私たちの健康と生命が威嚇されていることは子供でも分かる事実だ。 ただし、その危険が実際に近付いてきた時、これをどう見るのか、 つまりどんな倫理に立脚して理解し、対処するのかという問題は、 思ったより重い主題だ。

唐津の住民たちのように、われわれは誰でも反応というものをする。 まず身体的反応. 反応というものは物質の性質や構造が変わるという事実を意味する。 環境の変化は私たちのからだの中に入り、特定の内部作用(intra-action)をするはずだ。

そのように、われわれは他の体になる。 そして社会的反応。身体の変化は結局精神を、そして関係を変えたりもする。 おかしな点が認知されるとわれわれはその原因を知ろうと努力して、 問題を最小にするための特定の実践を組織したりする。 情報を検索し、準専門家的な知識を積んだり、 一人で解決できない問題なら、他の誰かとの連結を企てたりもする。

多少思弁混じりの話のように聞こえるかもしれないが、必ずしもそれだけではない。 「特定の社会的反響を勝ち取る過程」の前に 「市民-専門家の関係性と環境正義に対する規範が変わる過程」があり、 その前に「非人間的物質が闖入して私たちの存在様式が変化した事件」があったことに注目すれば、大いに重要な話になりうる。 これは、これまで私たちが準拠してきた哲学的前提、 つまり(自我と他者だけでなく)人間と自然を区分する論理が一定の限界点に達したという事実を示す。

つまり、どのような方法であれ、 政治的主体、市民的主体になるためには私たちの身体に(他人、動物、事物、自然環境など) 多様な関係性がすでに位置しているという事実から始めるべきではないだろうか。 そのような脈絡で、個人的にヨ・ギボンの研究結果は(環境計画学的報告であると同時に) 私たちにとって他の方式の倫理的態度が要請されるという、 つまり今日の存在論的転回(ontological turn)と呼ぶ流れの重要な端緒になりうるという気がした。 たとえ同一の政治価値を持たなくても、 ポストヒューマニズム、客体指向的存在論、思弁的実在論、行為者-ネットワーク理論、 人新世(anthropocene)論理のようなもののように。

もちろん私たちの存在様式はこんなふうだというような悟りを得るのに終わるという話では絶対にない。 単純な道徳還元論であれ、ナイーブな市民倫理論に閉じ込められては困る。 とにかく解放と変革という政治形式の他にも今日の正義や倫理のようなものも 政治的主題と見なす時点に達したことはますます明らかになっている。 では残された課題は、こうしたこと程度になるのではないかと思う。 私たちが知っている政治と、 新しく知るべき政治はどのように接合できるだろうか。 決して容易なことではないだろう。[ワーカーズ50号]

原文(ワーカーズ/チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2018-12-29 10:36:25 / Last modified on 2019-01-17 04:48:10 Copyright: Default

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