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韓国:私はユソン企業の労働者です
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私はユソン企業の労働者です

[ワーカーズ・イシュー1]11月22日事件、ユソン企業労働者の証言

キム・ハンジュ、ユン・ジヨン記者 2018.12.24 10:10

11月22日、ユソン企業の労働者たちが会社役員のキム○○常務に暴行する事件が起きた。 そして6日後の28日。 保守言論と日刊紙は先を争って「ユソン企業暴力事件」をいっせいに報道した。 彼らはユソン企業労組をはじめ、民主労総全体を暴力集団だと非難し始めた。

最近、労働界との関係が歪んでいる政府と与党も総攻撃に出た。 共に民主党のイ・ヘチャン代表は 「絶対にこのようなことが二度と起きてはいけない」とし 「行政安全部と警察庁は格別の対策をたてなければならない」と声を高めた。 金富謙(キム・ブギョム)行安部長官は 「国民の安全をしっかり保護できず、国民と被害者に謝罪する」と頭を下げた。 この合間に警察は意気込んで「公権力強化」を示唆し、 自由韓国党は「民主労総告発センター」という滑稽な事業計画まで発表した。

今から8年前。 ユソン企業の工場の前で会社を叱責した政治家はもういない。 労働者たちになぜと尋ねる言論もない。 彼らは会社の役員が全治5週間の怪我をしたという理由で、 8年間続いてきたすべての暴力を消した。 垂直的な暴力は当然視され、下からの抵抗は罪悪になる社会。 ここで労働者たちはどう暮らしているのか。

22日事件当時、 現場にいたユソン企業の労働者の話だ。

[出処:キム・ハンジュ記者]

#1. 11月28日

11月28日、その日から新聞をやめました。 誰かがSNSに書き込む記事もつとめて無視しました。 最初はただあきれていました。 私たちを人殺の犯罪者のように描写していたからです。 そしてすぐ悲しみが押し寄せました。 過ぎた日々が、苦痛がすべてなくなってしまったようです。 まるで無かったことのように。 最後には一番耐えるのが難しい感情が押し寄せました。 罪悪感と申し訳ない思いです。 他の感情はすぐに消えますが、かなりしっかり貼り付いていました。 その時、私は臆した罪人のようでした。

誰がどんな記事を書いても、どんな悪口を言っても、それは重要なのではありません。 組合員の顔を見るのがつらいということ。 それが頭に来るんです。 とても罪悪感があります。 50日近く賃金ももらえず戦った人たちに累を及ぼしたようです。 私のおかげでみんなが死にそうになって守ってきたことが一日で崩れてしまうようでした。 それで次の日、労組の事務室に行きませんでした。 眠りから覚めるとそのことを思い出すので、一日中寝て起きて、また寝て。 子供たちが家に帰ってくる時間になって起きて外に出て行きました。 そしてしばらくそのまま歩きました。 歩いてタバコを吸って。 また歩いてタバコを吸って。 その時、始めて受け入れる、という気がしました。

次の日、労組の事務室で、しばらくの間、わたしたちは互いに罪悪感を感じていました。 この闘争のために自分の貴重な同僚が拘束されるかもしれないという罪悪感。 そして私のおかげで私たちが長い間守ってきたこの戦いが水泡に帰すかもしれないという罪悪感が交錯しました。 われわれは互いに心配しあっていました。 互いにへの負債を確認する過程はとても苦しかったのですが、 一方では多くの慰めになりました。 心配するな、私たちがいるじゃないか、いっそ良かった、 お前だからその程度で俺がそこにいたら殺したかもしれない、 その時お前と一緒にやることができなくて申し訳ない。 とても悩んで投げたその無関心のように見える言葉がとてもありがたかった。

#2. 11月22日

事件が起きた日。 われわれは普段のように集会の後、会社本館に残っていました。 組合員が帰った後、幹部だけが残って本館に留まるのは儀礼的な行為でした。 私たちを避ける会社役員の顔を見ようという意味です。 われわれはその日、キム○○常務と会うとは思ってもいませんでした。 ほとんど会社で会うことがありませんでしたから。 いくら会おうといっても、会いませんでした。 よほどのことがなければ組合員が「キム○○氏愛しています。会いたいです」というプラカードまで作りますか。 彼に向けた組合員の怒りは相当でした。 彼がユソン企業にきた後、現場は完全にめちゃくちゃになってしまったからです。

幹部たちはいつものように一時間だけ待って帰ろうとしていました。 幹部が苦労するのが残念で、私も一緒にいると言いました。 寒くて、本館の中に入ることにしました。 そこでキム○○の顔を見ることなるとは誰が思ったでしょうか。 後で知ったことですが、その日は御用労組と会社が交渉をした日だったそうです。 その前の週にも、私たちがみんな帰ると会社と御用労組が集まって交渉をしたといいます。 いつも会社はそんな形でした。 私たちと御用労組を徹底して差別しました。 私たちが交渉しようとソウル事務所まで行っても、会社はびくともしませんでした。 もし会社が私たちと会ってくれていれば、 私たちの話を聞こうとしていたら、 キム○○の顔を見た瞬間、あれほど感情が爆発したでしょうか。

キム○○は私たちを見て逃げました。 すべてがめちゃくちゃになって疲弊した人の前で、彼はまた逃げました。 ただ対話をしようということだったのに、逃亡とは。 その姿を見た瞬間、血が逆流するようでした。 私たちがいつまで待たなければならないのか、 いつまで耐えなければならないのか。 もうこれ以上は我慢できないと思いました。 そして私はキム○○を追いかけました。 代表室の前に到着した時、当然扉は締まっていると考えました。 もしもと思って扉のノブを回すと、不思議なことに扉がガチャンと開きました。 そして目の前にキム○○が現れました。 まるで世の中に私とキム○○の二人しかいないかのように、 周辺が真っ黒になりました。 私はキム○○に向かって「やい」と大声を出しました。 そして一瞬、今回は全てが真っ白になりました。 荒々しい波のような人の群れがあっという間に私の後から襲ってきました。 全てが本当にあっという間に行われたことでした。

よく思い出せません。 危機をまぬがれようと嘘をついているのではありません。 誰も予想できないその瞬間をどうして覚えていられますか。 保守言論は40分間私たちがキム○○を殴打したと報道しました。 労組は1〜2分といいました。 どちらも違います。 いくら考えても20秒、いや10秒程度だったでしょう。 暴力が起きたのは思い出せない程短い、一瞬間でした。 誰が組合員なのか、誰が管理者なのか、そしてどの人たちがかかわっていたのか識別することもできない程の時間でした。 たった1分でも私は覚えていたでしょう。 しかしその時の記憶は、騒がしい声だけでした。 そして誰か後からやめろ!と叫ぶ声で精神がハッと戻り、 キム○○を囲んでいた人々も後に退きました。 その時始めてその場にキム○○常務と、チェ・チョルギュ代表などの会社側管理者が一緒にいたことを知りりました。 本当にそれほど長い間暴行されていたとすれば、 会社側の管理者はなぜ暴行を止めなかったのでしょうか。

私たちがキム○○を監禁したと言います。 監禁して暴行したと言います。 私たちが扉を閉めたのは、事件の直後でした。 組合員が入ってくるかと思ってそうしました。 怒りが極に達した組合員がそこに押しかけてくれば、本当に事故がおきそうだったので扉を閉めたのです。 それ程、キム○○常務に対する怒りは相当なものでした。 本当にただ1分間でも暴行がなされたとすれば、キム○○はまともに歩くこともできなかったでしょう。 事件の後に管理者に対する糾弾が続きました。 私たちとも交渉してくれ、対話してくれと。 私たちが今までどのように暮らしてきたかを話しました。 どれほど佗びしかったのか、副支会長はその場で大泣きしました。 体面が台なしになるほど、なぜ泣いているのかと、 私がわけもなく面と向かって非難したりもしました。 20分、30分間われわれはずっと積もりに積もった嘆きを爆発させました。 これまでの人生をかけて誓えます。

保守言論は私たちが計画的に暴力をした後、証拠隠滅までしたと言います。 私は証拠隠滅という単語がそのように使われるとは思いませんでした。 そうです。 清掃をしました。 その渦中でまた周辺を片付ける人が必ずいます。 ある先輩はキム○○の血をふいてやって手にティッシュも与えました。 別のひとりは外でミネラルウォーターを持ってきて人々に水を配りました。 紙コップに水を入れて、床を磨きました。 状況がすべて終了した後に、その人々は机の整理までして出てきました。 元々そんな人たちです。 いつも私たちが勝手に紙コップを置いて行くと、怒る人たちです。 その時われわれはみんな素顔でした。 ありふれたマスク一つ使いませんでした。 素顔で計画的な暴力を行って証拠隠滅をするバカがどこにいますか。

[出処:キム・ハンジュ記者]

#3. 整理上手な熟練工の先輩

話が出たので、整理整頓で極限に達した先輩たちの話をちょっとしなければなりません。 その状況でも片付けてきたのですからすごい人たちです。 その先輩たちは二三十年、ここで働いていた技術者です。 ユソン企業はピストンリングという自動車のエンジンの部品を作る所です。 核心部品ですね。 しかし会社はその時から設備に予算を投資しませんでした。 機械も古くなるとガタが来ます。 ピストンリングは精巧に削らなければなりませんが、機械が古く、 きちんとセンターを合わせることができません。 先輩たちはガムの紙を機械に挟んで作業をしたりしました。 本当の熟練工でなければ不可能な作業です。 だから前には管理者も先輩たちを機長様、班長様、このように呼びました。 技術者待遇をしたのです。

2011年に会社が職場閉鎖をしました。 その時、会社は工場の門を閉じて好みに合う人だけを工場に押し込みました。 当時、臭い飯を食った熟練工の先輩は、みんなこちらの労組員でした。 その先輩たちがいないので、仕事ができないのです。 それで管理者が先輩たちに「入ってセンターだけ合わせてくれ」と頼んだりもしました。 その先輩たちは、またその要請を聞いて工場に入って出てきます。 初めはその先輩たちが本当に憎かったです。 いや、会社があのような形に出てくるのに、その要請を聞くのかと問い質しました。 先輩たちはそうだと言います。 機械に何の罪があるのかと。 機械は自分の人生だと。 それ程、機械と会社に愛着が強い人たちでした。 その先輩たちは「闘争は良い。 ただし現場闘争はしないでほしい」と話したりしました。 現場にいると不良を調べなければいけないのですが、 それを調べられないのです。 いっそ外で闘争するほうが気楽だと。

私もその先輩たちの下で仕事を学びました。 機械をちょっと見ただけで、何が悪いのかわかる人々でした。 清掃もものすごくきれいにしました。 夕方5時半になれば、機械をとめてきれいに清掃しました。 床についた油まできれいに拭いて清掃が終わります。 次の組が入ってくると驚きます。 まるで作業をしていなかったようですから。 その先輩たちにとって機械は「生きているもの」でした。 彼らの人生がそのまま込められた分身といいましょうか。 しかし今は全てが変わりました。 労組を弾圧するため先輩たちに蛍光灯を磨かせ、オイ、やらないのか、 この機械はお前のものではなく会社ものだ、 言うとおりにしろと、自尊心を強く傷つけました。 今は先輩たちも変わっています。 管理者が清掃しろと行っても「私が清掃しにきたのか、生産する」と拒否します。 もう自分の機械ではないから、もう尊重されませんから。 十数年、機械にしがみついて生きてきたその先輩たちの喪失感を私が推し量ることができるでしょうか。

#4. 強盛でなくても

私は2004年にユソン企業に入社しました。 その時は30代初めでした。 周囲の人の話では、ユソン企業の労組は剛性だそうです。 しかし私はよく知りませんでした。 労組であれ何であれ。 私は高等学校の時まで運動をしていました。 ああ、あの運動ではなくサッカーです。 小学校の時に父が家を出て、母が肉体労働をして兄弟姉妹四人を育てました。 毎日ご飯に醤油を混ぜ合わせたものでしたが、それさえも尊かった時期でした。 母は私がとてもよくご飯を食べるので、心配だったそうです。 いくら食べてもひもじがったからです。 米を買う金もないのに、学校の育成会費を出す金はありません。 毎日教務室に呼ばれてなぜ育成会費を払わないのか、お母さんを連れてこい、 いろいろ言われました。 そのうちにサッカー部に入れば育成会費を払わないでもいいというサッカー部の先生の話を聞いて、 突然加入してしまいました。 高校もサッカー特技生の奨学金で通いました。 サッカー大会で準優勝もして、新聞にも大きく載りました。 それでも一番うれしかったのは、合宿でたくさんご飯を食べられることでした。

その時は、がんばれば成功できると思いました。 高校生の時は新林洞に住んでいましたが、毎日ソウル大生がデモをしていました。 その時、私は舌打ちしたりしました。 そんなに世の中が不満なら、がんばって勉強して政治をすればいいだろうと。 その時は、本当に自身満々でした。 しかし父がいない貧しい家の子が運動をするのは、思ったよりずっと難しいことでした。 大学進学に失敗し、それと共に選手生活も終わってしまいました。 その後は金が一番重要になりました。 少なくとも父のように生きない、という気持ちであちこちの職場に通い、 金を貯め始めました。 ユソン企業に入社した時、私は労組では怠け者でした。 集会もあまり出て行きませんでした。 なぜユソン企業労組が剛性になったのか、先輩が説明しても関心がありませんでした。 残業するにも許諾を受けなければならず、 管理者に蹴飛ばされたり横っ面を叩かれても、 管理職と生産職は一緒にご飯も食べられなくても、 その上ユニフォームの質も天と地の差だった時の話を聞いた時もそんなもんだろうと思いました。 ただ先輩が作った元手の上で享受してきたのです。

2011年、昼間連続2交代制施行を控えて労組と会社が交渉をしました。 私もその時、それなりに欲がありました。 常時昼間組に配分されて趣味生活もして余裕も持ちたいという。 本来1月1日から施行するはずだったのに、会社はこれを守りませんでした。 労使交渉がうまくいかないという消息を聞きました。 それでも何、いつかはできるだろうといいました。 本来、労使交渉とは決裂しながらも突然合意するようなものだからです。 そのうちに労組が争議行為賛否投票を実施して、2時間ストライキに突入することになりました。 その時もそんなものかと思いました。 その年の5月18日、われわれは2時間ストライキをした後、家に帰りました。 ところが突然職場閉鎖になったという連絡が来ました。 どういうことなのかと、と工場に戻りました。 用役何人かが出入りを止めていました。 なぜ職場閉鎖をしたのかと聞くと、私たちがストライキをしたからだと言います。 そばで法律をよく知っている組合員がこれは不法だと問い質しました。 私も一緒に「不法だよ。お前たちはもう死んだ」と意気揚揚と工場に入りました。 その時は知りませんでした。 それが地獄のような8年間の始まりになるとは、 そして私がこうして8年間労組で戦うことになるとは。

[出処:キム・ハンジュ記者]

#5. 非現実的なその日の夜よりさらに非現実的な

職場閉鎖になった日。 簡単な集会が終わった後なので夜12時頃だったでしょうか。 組合員たちと工場周辺を見回るために外に出てました。 工場をひと回りして見て回るつもりでした。 私が先に立って暗い道をしばらく歩いていくと、 前から黒い車がライトを点滅させ、クラクションを鳴らしながら向かってくるのです。 われわれは当然避けました。 そしてまた歩きました。 少しのあとでまた黒い車がクラクションを鳴らして向かってきました。 逃げずにはいられません。 あれほど強く向かってくるのに。 そしてしばらく後、向こうからまた何かが近付いてくるのです。 車のようなものですが、前照灯もつけず、クラクションも鳴らさず、 とても非現実的なものが向かってくるという感じを受けました。 角をまがる瞬間、私は明らかにその車を避けたと思ったのですが、 突然バックミラーがヒジに強くあたって過ぎ去りました。 瞬間、パッと光って、ヒジをかばって座り込みました。 そしてその瞬間、後から嫌な音が聞こえてきました。 ぼきんという音のようで、パッという音のようで。 誰かあっと大声をあげたのも同じでした。 とても恐くて、さっと頭を回して後を見ました。 人々が、それも大量に、車に突かれている場面をその時初めて見ました。 車両の下で1人の先輩が引きずられていました。 車両は少しの間止まって、そのまま突進して消えました。 修羅場でした。 四方からうめき声が聞こえました。 私はそのまま座り込みました。 その光景を信じられません。

頭を傷つけた人、足が折れた人、顔が完全にめちゃめちゃになった人もいました。 何日か後にその運転手が自首しましたが、ユソン企業が雇用した用役だったそうです。 車両は捨てられていましたが偽装車だったそうです。 加害者は無免許です。 無免許の運転手が偽装車で歩道に突進し、13人を轢いて逃げたのに、 罪名は単純道路交通法違反でした。 さらにあきれるのは警察調査でした。 交通事故の被害者として調査を受けに警察署に行きました。 私は私が受けた被害の調査を受けるものと思いました。 ところで警察はなぜ外に出て行ったか、その日、集会でマイクを持った人は誰か、 道を歩いている途中にどんなことあったか、そのようなことばかり尋ねました。 私は初めて警察の調査を受けてどぎまぎしていました。 何、争議部長が決めたでしょう、そんな形で話したようです。

しかし後で支会長と争議部長が拘束されました。 私が裁判で証人になったのですが、突然私が警察の調査を受けた調書がスクリーンに現れるのです。 争議部長がマイクを持って扇動したとお前がお前の口で話したではないかと。 その瞬間のことを考えると、本当に悲嘆に暮れます。 胸がはり裂けて背筋が冷たくなりました。 争議部長の顔を見ることができませんでした。 裁判所に警察が誘導尋問をしたと、 私はただ交通事故の調査を受けに行ったと抗議しましたが、 受け入れられませんでした。 その時だったのでしょう。 それまで残っていた社会に対する期待と信頼が無惨にこわれてしまったのです。

[出処:キム・ハンジュ記者]

#6. はれた顔で、大丈夫不安に思うな

私がご飯を二杯食べてサッカーをしたためか、からだが大きいです。 図体は大きくても、見た目と違ってちょっと恐がりです。 その年の5月24日、警察公権力が工場に投入された日、 私は正門の前で組合員たちとスクラムを組んで警察と対峙していました。 直ぐ前に黒い武装した警官が布陣していて、本当に恐ろしかったんです。 それでこっそりとそば同僚の腕を抜いてトイレに行きました。 すぐ全員連行するというから、ゆっくりトイレに行ってくれば、 すべてが終わっていると思いました。 ところがトイレに行ってきてもそのままです。 その上、私の席はそのまま残っていました。 どうしようもありません。 またおずおずと席に戻りました。 その日、組合員たちがみんな警察に連行されて追い出されました。 いったい私たちがどんな悪いことをしたのかわからないままでね。

そして工場の外にあるビニールハウス生活を始めました。 工場に入れてもらえませんから。 その当時、内部事情はとても良くありませんでした。 緊急に金が必要だった時期でした。 当然いろいろな悩みがもちあがりました。 妻に「はやく終わればいいが、そうではないかもしれない。 1年だけ粘ってみる」と言いました。 本当に有難くも妻は、大丈夫だから恥ずかしいことしないでと言います。 暑い日、ビニールハウスと工場の前の橋の下を行き来しながら戦いました。 そして6月22日の朝7時頃。 ビニールハウスでご飯を食べていると工場の前が非常事態になったそうです。 匙を投げ出して駆けつけました。 突然工場の前のコンテナが開き、用役があふれ出てきました。 あわてて飛んで来たのでわれわれは何も持っていませんでした。 その時もなぜか、私が一番前にいました。

あっという間に用役との衝突が始まりました。 しかしその瞬間、頭がパッ光りました。 すぐにコンクリートの地面に何かからから道に落ちる音がしました。 こめかみから熱いものが流れるようで触ってみると血でした。 ぼうぜんとしていると、後にいた同僚の誰かが私の襟首をつかんで外に引き出しました。 消火器で殴られたというのです。 その時始めて前を見ると、地獄でした。 用役が投げた消火器が地面に落ちる音、人々の悲鳴。 消火器をばらまくなかで白い粉が飛び、その間から用役が鉄のようなものを投げていました。 救急車に乗ると、救急隊員が他の人から乗せると私を止めました。 顔が陥没して倒れた人が先に運ばれて行きました。 救急車が次々と入ってきて、私はずっと後になりました。 とても負傷者が多かったのです。 本当にひどく怪我をした人々です。

病院に到着して、頭を七針縫いました。 これまでも人々が続々と運ばれてきました。 麻酔注射がとても痛く、なぜか寂しくて病院のベッドに横になって涙を流していました。 しかし顔がめちゃくちゃになった一人の友人が私のベッドを捕まえて、 大丈夫、大丈夫だ、と言うのです。 私が不安で泣いていると考えたようでした。 自分の顔がもっとひどいことになっているのに、ずっと私に大丈夫だ、泣くなと。 その友人は私とは違ってがんばって労働組合活動をしていた友人でした。 偽装車に轢かれた時、その友人は足が折れました。 その傷ついた足でまた現場に来て帰って、今度は頬骨が砕かれたのです。 その上、その友人は嶺東工場に通っていました。 あえてここまできて殴られて怪我をする理由はなかったんです。 その時、その場面を思い出すととても悲しくなります。 その友人が私を慰めた場面も、その友人のぶよぶよと腫れた顔もです。 友人はその顔で、またその修羅場に行くと言いました。 私よりさらに怪我をした人も負傷した部位に手当をして現場に走っていきました。 また動き始めた現場で、私はこれまで感じたことがない怒りを感じました。 傷ついた人たちに、先輩や後輩に、用役は相変らず消火器を噴射して水をかけまくっていました。 彼らが人間なのかという考えと共に、恐ろしい殺意がいっぱいになりました。

[出処:キム・ハンジュ記者]

#7. 君と私がなぜこうなったのだろうか

私たちはなぜこうなったのでしょう。 なぜ殺しあえず、やきもきするのでしょうか。 いくら考えても理由は変わりません。 職場閉鎖の前まで、いや職場閉鎖の後も、われわれは管理者とかなり親しく過ごしました。 作業をして不良が出れば、会社役員の眼に触れないように工場の裏で会って、 何が問題なのか互いに話しました。 昔は管理者も「私たちも金属労組組合員」だと笑ったりしました。 皆、会社を大切にする気持ちがあったからです。 しかしキム○○がきてから現場は完全に変わりました。 管理者に成果給制を導入し、互いに監視するようにしました。 労組と親しくすれば成果給が削られたり他に転出させられました。 管理者の態度は急変しました。 もちろんその前にも会社は労組を破壊するための作業らをしました。 警告状を乱発して幹部を告訴しました。 だがその程度でしょう。 キム○○常務がきてからは、個別の組合員を相手に途方もない告訴告発が行われました。 管理者が親しくしていた組合員を告訴告発させる分離作業も続きました。

親しくしていた管理者がいました。 退勤する時、一緒に清掃して、飲み物を分けて飲んだりもする。 私が裁判を受けに行った日、その友人が会社側の証人に出てきました。 使用者側で、彼は私に対していろいろな偽証をしました。 怒りが込み上げてきました。 しかしそのままその程度なら、彼も暮らすのが難しいから仕方ない、と言えばそれまでです。 しかし判事が最後に質問しました。 私が罰せられることを望むかです。 その人は目ばたきもせずに答えました。 処罰されることを望みますって。 その瞬間、胸が崩れて理性を失いました。 人間関係とはせいぜいこの程度か、私の存在はやっとこの程度か、 といった背信と侮蔑感が火のように燃え上がりました。 我慢できず法廷で大声をあげました。 あの人は偽証をしいますって。 裁判所の警備員が私に飛びかかりました。 彼との関係はそうして終わりました。 しばらくひどい憂鬱感に苦しみ、今もその友人の顔を見るのがつらい。

管理者たちは組合員一人一人を相手に告訴告発をしました。 しかし告訴告発した管理者は、まさにその事実を知りません。 本当におかしくありませんか。 以前、組合員たちが好きだった管理者がいました。 キム○○常務がきた後、彼は他に追い出された状態でした。 しかし彼は私を告訴して、損害賠償まで請求したそうです。 ある日は彼が久しぶりに私たちの工場に入ってきて昼食を食べているというしらせを聞きました。 食堂に追いかけて行きました。 彼に問い質しました。 どうして損害賠償まで請求するのかと。 彼は頭を下げたまま何も言いませんでした。 また問い質しました。 いったいなぜ私を告訴したのかと。 彼は何も知りませんでした。 こうしたとんでもない状況がいつも満ち溢れていました。

[出処:キム・ハンジュ記者]

#8. 地面に染料がついた罪で懲役1年

初めは知りませんでした。 彼がそんなに強く出てくるとは。 キム○○常務は2014年10月頃、ユソン企業に入ってきました。 その時、私はちょっとした怪我で入院していました。 キム○○が米を買って病気見舞いにきていました。 労使問題を解決したいと。 その場で彼は自分がどのように生きてきたのか、 私的な話をずっと続けました。 そして少し後、本来の労務担当役員を押し出して実権をつかみました。 会社の労組破壊業務を担当することになったのです。 また彼と会ったのは食堂でした。 彼がすぐ自分に対する告訴を取り下げてくれと言いました。 だめだといいました。 罪を犯したら罰を受けなければなりませんって。 その話を聞いたキム○○は「それでは私は悪い人になります」と言いました。

その言葉が始まりでした。 雰囲気が完全に変わりました。 会社の管理者らをすべて労組座込場前に集めました。 そして私たちが付けた横断幕と横断幕を全てはずし始めました。 私たちが止めようとするといっせいにカメラを持ちました。 採証と告訴告発が日常化し始めたのです。 管理者にとって採証は成果でした。 組合員に対する採証と告訴告発は、彼らの成果として積み立てられました。 その時から告訴告発爆弾が爆発しました。 キム○○常務がきた後、何と1300件の告訴告発が行われました。 彼らの方式はあまりにも稚拙でした。 あるときは組合員が布にアクリル染料で文字を書いて、横断幕を作りました。 会社は染料が土についたとし、施設管理物毀損で組合員たちを告訴しました。 さらにとんでもないのは、検察がこの事件で私たちに懲役1年を求刑したということです。

あきれるでしょう? こんな事件は多いです。 検査課というほとんど女性たちが働いている事務室があります。 会社が3か所の入口にすべてCCTVを取り付けました。 夏に薄いTシャツ一枚でいるのに、上からCCTVが撮影しているので嫌がります。 女性組合員たちが労組に建議をしました。 CCTVをなくしてほしいと。 しかし会社が素直になくしてくれるでしょうか? しかたなく私を含む幹部3人がCCTVをテープで隠しました。 会社は施設管理物を傷つけたとし、また私たちを告訴しました。 検察がどんな求刑をしたのかわかりますか? テープを貼った人は懲役1年6ケ月、隣でテープを切った人は懲役1年、 そして私は懲役6ケ月。 なぜ私が懲役6ケ月だったのかというと、 私も一緒にテープを切っていたのですが、隣の人より少なかったそうです。 これが話になりますか。 あらゆる労組破壊犯罪を犯したユソンの会長が懲役1年2ケ月を宣告されました。 労組破壊よりCCTVにテープを張ることのほうが重い犯罪とは思いませんでした。

タバコを吸いながら管理者に抗議したからといって罰金200万ウォンの有罪が宣告されました。 抗議すれば暴力と監禁で告訴されます。 組合員一人当り30〜40件の告訴は基本です。 警察の調査を受けて裁判を受けるのが日常になってしまいました。 バスを貸り切って、裁判を受けに行ったりもします。 労組事務室の日程表が裁判日程で真っ黒になり、 ひと月のうち半月は裁判所に行き来します。 管理者と御用労組の人々は告訴告発するために組合員を挑発し続けます。 兄、弟だった友人たちが悪口を言いながら過ぎ去ります。 それに耐えられずにピクッとすれば、すぐカメラで採証をして行きます。 管理者は是非組、体組、採証組に分れて成果を上げました。 最も頭にくるのは、これらすべてを企画したキム○○常務は 常に告訴告発のリストから抜けていたということです。 HR総括役員だというのですが、会社組織表のどこにも彼の名前は出ていません。 創造コンサルティングのように、後から静かに人々を前に立てて労組を弾圧するんです。 その卑怯さがとても腹が立ちます。

[出処:キム・ハンジュ記者]

# 9. グァンホ、お前だったんだね

開始は稚拙だったんです。 しかし結局それらが集まって大きくなって、私たちを蝕みました。 本当に多くの人々が深刻なストレスに苦しみました。 私もそうです。 子供たちに本当に悪いお父さんになってしまいました。 私は三人のこどもを育てるお父さんです。 小学校に通う息子二人と、まだ幼い末娘がいます。 息子二人がしばしばけんかします。 本来兄弟どうしけんかをしながら育つというじゃないですか。 しかし時々大きな子供が小さい子供にする言葉と行動、 その利己的で暴力的な姿を見ると息が詰まります。 子供の言葉と行動から会社管理者の姿が見えるのです。 まだ幼いから十分にそのようなこともあると考えながらも、 まさにその瞬間にぶつかると耐えられない怒りが込み上げます。 まるで管理者に怒るように、抵抗をするように、子供に感情をぶつけるのです。 世の中に自分の子供が管理者に見えるなんて、話になりますか。 狂う程腹がたって泣いたことも多いです。

自殺を試みる組合員も多かったです。 本当にこういうことでは人が死んでいきそうでした。 それで会社に文書を送りました。 今すぐ組合員たちの心理治療が必要ですと。 会社は心理治療の必要性には同意するとしつつ、後でしようといいました。 そんなある日、支会長が私を呼びました。 そして静かに話しました。 人が死にましたと。 嶺東工場で。 結局、来るものが来たなあ、結局烈士が出てきたんだなあ、悲嘆に暮れました。 組合員たちにこの知らせを伝えるためにマイクを持ったのですが、 涙が止まりませんでした。 ハン・グァンホ、この呼びなれた名前も、顔も、その時は思い出せませんでした。 一足遅れて葬儀場でグァンホの遺影を見て、お前だね。 その夏の闘争の時、私の後に近寄ってきて「大変ですね」と肩をもんでくれたグァンホだね、 なんで選りによってお前なのか、なぜお前が死んだのか、 嗚咽をしていると空が落ち、地面が崩れました。 静かで内省的だった、それでも見えないところで人々の面倒を見たグァンホが烈士になりました。 私をアニキと呼んだ、その弟が今はハン・グァンホ烈士になったのです。

その時からしばらく出勤の服装のまま寝ました。 電話を手に握ったまま。 夜明けに誰かから電話がくれば、すぐ飛び出さなければなりませんから。 夜明けに、つらい、会いたい、こんな電話がくれば家から飛び出しました。 よし私が行くよ、タクシーにも乗るな、そのままじっとしていろ、私が送ってやるから、と言いながらです。 死が、この憂鬱感が広がるかと思うと恐ろしかったです。 守れなかったという申し訳ない思いを越えて、 守らなければならないという責任感が切実でした。 誰かが自殺を試みたという知らせを聞くたびに胸がドキッとしました。 本当に強い人だったし、それで信じていた先輩が睡眠剤を飲んだ時、 あわてて応急室に駆けつけた時、 その先輩が横になっている姿を見て 怒りがこみ上げタバコばかり続けざまに吸いまくった時。 私はその鬱憤をこらえて、また飲み込みました。 私と同僚が互いの安全と危機を監視しながら生きていくということが どれほど苦痛なのか推察できますか。

#10. 私は君を捨てることができない

よく一人でソウル市良才洞の現代自動車本社前で1人デモをしに行きます。 そこに行くとグァンホの遺影があります。 写真の中でグァンホは笑っています。 その写真に時々話しかけます。 やあ、お前はなんで笑っているのか。 そう思うとグァンホがとても嫌になります。 その時から悪口が出始めます。 この卑しいやつ、なぜ死んだのか、おれは絶対死なない。 みんな戦って死ぬんだ。 殺人者扱いされても死なない。

私は今、殺人未遂を犯した犯罪者扱いを受けています。 会社役員に全治5週の負傷させた殺人者だそうです。 強硬労組で組織暴力労組、国民の安全を威嚇するテロ分子だそうです。 それでも、われわれはずいぶん前から死んだ生活を送った人々です。 死ぬ程殴られ、踏みつけられ、そして生き返って、また死ぬ程殴られ踏まれて。 民主労組死守ですか? 昼間連続2交代制ですか? 今はただ余裕がある声でしかありません。 私はもうそんなことまで考えることはできません。 今は民主と労組とラッパで、ただ私は隣りにいる君を見捨てられないということです。 隣のお前が踏みにじられて死なないように、 ただ君と私が互いを守らなければならないという気持ちだけです。

[出処:キム・ハンジュ記者]

現在、警察はキム○○常務負傷事件を口実として、 ユソン企業の労働者に対する標的捜査をしている。 警察は事件から一週間で特別合同監査チームを設置し、 3日後に該当労働者たちに対する召喚状発布と出国禁止命令をした。 警察調査を受けた労働者たちの証言によれば、 担当の警察官は「計画された犯罪だ」、「誰が命令したか」、 「今回拘束できなければ私は警察を辞める」といった強圧的な態度で陳述を要求した。 裁判所は12月24日、組合員4人を相手に令状請求実質審査を進める予定だ。

しかしユソン企業の柳時英(ユ・シヨン)会長をはじめとする会社役員に対する犯罪捜査は2か月経っても遅々として進まない。 ユソン企業支会は去る11月1日、会社役員を業務上背任・横領で告訴したが、 現在も柳会長の召喚調査は行われていない。 警察は12月19日、核心人物を除く使用者側の4人に調査を進めた。 忠南警察庁の関係者はワーカーズとの通話で不公正捜査の議論について 「事実ではない。同じように続けている」と答えた。

一方、12月13日、忠南労働人権センターが発表した 「ユソン企業労働者精神健康実態調査結果」によれば、 2017年基準ユソン企業労働者の53.4%が主要憂鬱高危険群に属していることが明らかになった。 国民平均主要憂鬱高危険群の割合は約5%程度だ。 一般人の10倍を越える数値だ。 社会心理ストレス高危険群も86.2%にのぼる。 2012年の50.7%より35.5ポイントが増加したわけだ。

ユソン企業労働者255人のうち5人(2%)は実際に自殺を試みたことが明らかになった。 20人(7.8%)は具体的に自殺を計画し、62人(24.3%)は自殺を考えたと答えた。 2012年からユソン企業精神健康実態調査を行ってきた忠南労働人権センターは 「2017年の結果は衝撃的な水準」とし 「全体職員が500人内外の企業で精神健康高危険群が非正常的に多い。 労働者が置かれている環境と条件、反復的な弾圧が中断されない限り、 状態は急激に悪化する」と明らかにした。[ワーカーズ50号]

付記
* この記事は22日事件現場にいた金属労組ユソン企業支会組合員インタビューを再構成した文です。

原文(ワーカーズ/チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2018-12-29 10:36:25 / Last modified on 2018-12-29 10:39:37 Copyright: Default

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