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PC(Political Correctness:政治的正しさ)[ワーカーズ]ワーカーズ辞典
チェ・ヒョジョン(政治学者、慶煕大フマニタスカレッジ解雇講師) 2018.11.21 11:20
韓国社会で政治的正しさという概念は、入ってくるとすぐ 「説明厨、真摯厨、ソンビジル、犬市民」と似た使用法を持つ 否定的で冷笑的な言葉になった。 きちんと思惟される前に淘汰された用語が「政治的正しさ」という概念であろう。 本来この言葉は少数者運動と差別撤廃運動にどれほど大きな力を与えた言葉なのか、 その歴史を知ればこのように嘲弄する意味に変質したことは驚くほどだ。 しかしまた、なぜそうなったのかも知るべきだろう。 いったい何があったのだろうか。
[出処:キム・ヨンウク] 政治的正しさという用語を理解するためには「政治的に正しい」という文章から見なければならない。 この文章は意味解釈が必要な二つの部分から形成されている。 まず「政治的に(politically)」という言葉と、次に「正しい(correct)」という言葉。 「正しい」ということは、正しいか正しくないかという真偽の判別を意味し、 これは真理の問題と関連する。 人間は何が正しいかの誤っているのかを絶えず判別しながら生きる存在だ。 しかし正しいかどうかは簡単にわからないではないのか。 とても単純な例をあげてみよう。 1足す1は2、これは真だ。 ただ、それは数学的に正しい。 物体は上から下に落下する、 これは真だ。 ただ、科学的に正しい。 ではこの正しさが政治的に正しくないこともあるのか。 政治的正しさという概念は、そのようなことがあると言う。 それで「政治的に正しい」というこの文章で問題になるのは、 「政治的に」という部分だ。 政治的に正しいということは、 数学的に、または科学的に正しいことが政治的には正しくないこともあるという意味だ。 政治的に正しいことは、政治の世界ではそのような形で確証されない「正しさ」があると言う。 さらに、政治的に正しいことは、時にはあの数学的真理や科学的真理を破棄することもできる。 つまり、政治的には「1足す1は2」という整式が正しくない場合もあるということだ。 そしてまさにここで政治的真理判断の困難が発生する。 どういうことか。 政治的真理は「正義」を樹立する過程だ。 強者が弱者を支配することは自然の法則であり真理だ。 この自然の秩序によって生きる動物に対し、われわれは「正義」を要求しない。 しかし政治の世界で生きていく政治的な存在である人間には、 自然法則とは違う法則が要求され、それを政治的真理として、 ただ政治共同体の中で正義として樹立する。 例えば、パンの塊一つを十人が「同じように(equally)」分ける方法を考えてみよう。 その時「同じように」という条件を充たす最もやさしい方式は、 パンを同じ量で十切れに分けることだ。1/nというこの方式は 数学の割算を知っている人なら誰でも受け入れられる一番「正しい」方式ではないか。 だが「政治的正しさ」はここに問題を提起する。 こうした方式の「全く同じ」は、パンに対してのみ正しいのであり、 数学的に正しいだけだという。 なぜならこのパンが観念の中のパンではなく、政治的な世界に置かれているパンだからであり、 パンを分ける人々が「同じ」人たちではないからだ。 彼らの中には何年間も倉庫に腐るほどたくさん小麦粉の袋を積み上げている人もいるが、 この何日かパンは見ることもできない人もいる。 彼らがパンを同じ大きさで分けるのは果たして正しいことだといえるだろうか。 政治的判断は、それは正しくないと話す。 それは正義ではない。 正しいかどうかを区分するに当たり「政治的正しさ」という、 もうひとつの形式の真理判断が要請される理由がここにある。 古代ギリシャ語ではこのような政治的分別力を「フロネシス(phronesis)」と呼ぶ。 理論的・思弁的判断・理性と区分されるという点で、 フロネシスを倫理的判断、実践理性、政治的理性だと言うことができる。 このフロネシスが現代的な意味で再構成され、西欧の政治という現実の場で復活したのがPC、 つまり「政治的正しさ」という概念だ。 思想的・実践的な「政治的正しさ」西欧社会で道具的・合理的理性に対する反省と共に、実践的理性への要請が台頭したのは 第二次世界大戦が終ってからだった。 核技術の開発に参加した科学者は、自分の実験室で「正しさ」が立証された仮設が 実験室の外の世界をいかに破壊したのかを目撃した。 それは正しくないことだった。 人間の理性に希望をかけた哲学者も同じだった。 彼らは人類歴史上、最も多く知っていて最も賢く、最も啓蒙された人間が作り出したガス室を見た。 政治的判断が麻痺した結果だった。 フロネシスという新しい理性への要請は、そのような問いの中で再誕生した。 歴史を見ると、この「政治的正しさ」への要求は、最初は思想的・実践的次元の運動として始まったのは明らかだ。 この概念はヨーロッパの68革命の場でこれまで市民政治領域から排除されてきた少数者の声を政治化するために力を発揮し、 米国の60年代の民権運動の歴史にも大きな影響を与えた。 1961年、ケネディ大統領はアファーマティブアクション(affirmative action)と呼ばれる「少数集団に対する積極的優待措置」を行政命令として施行した。 1964年に完全に法制化されたこの法案は、初めは黒人差別禁止が核心だったが、 次第に女性割当制、障害者義務雇用制など、多様な範囲と対象に拡大した。 アファーマティブアクションは、米国のPC運動と切っても切れない関係であり、 PC運動の成果であり核心だ。 そのような理由で米国内の保守主義者と極右勢力は、 絶えずこの少数者優待政策を揺さぶり、攻撃してきた。 代表的なものは1978年から始まった違憲訴訟だった。 1978年、100人の学生がこの政策を白人に対する逆差別だとして違憲訴訟を出したが、 大法院は合憲と判決した。 その後、2003年まで米国の最高裁は類似事件に対し合憲判決を出し続けた。 その過程で逆差別の反論に対して重要な思想的な根拠を提供したのが、 まさにこの「政治的正しさ」の概念だった。 「あなたが言っていることは正しい。 しかしそれは『政治的には』正しくない」。 PC運動の主導者はこのように話すことができた。 だが2013年に大学入試逆差別に問題を提起したアビゲイル・フィッシャー訴訟事件からは、 多少留保の判断が初めて下され、 2016年のトランプ大統領当選以後は法務部が内部的に逆差別事例を調査し、 集団訴訟を組織するなど、 この優待措置を積極的に廃止する試みを政府次元で敢行している。 しかしこの概念が初めて韓国に導入された時は1990年代の冷戦が終わって真っ最中ポストモダニズム思潮が入ってきた時期であった。 特にリチャード・ロティなど、絶対的で普遍的な真理性を否定し、 多元主義を主張した米国のプラグマチズム思想家を通じて流入したので、 政治的真理とはたびたび「その時によって違う」という相対主義的真理と誤解され、 PCの概念も狭く理解された。 すでにその時、西欧社会では政治的正しさという主題が現実性と運動性を失い、かなり観念化されていた時であった。 韓国でもそのような「観念としてのPC」が学術の場にまず輸入された。 学界や関連分野などで流通したこの用語が、 大衆的にまた浮上し始めたのは比較的最近のことだ。 特にキャンドル広場で女性、障害者など、疎外され排除された非市民的主導者が自己主張を表わして、 政治的正しさの主張と共に政治的正しさに対する攻撃が同時的に現れた。 「PCを粉砕する」当時の米国大統領選挙はPC論争を再点火したが、 フェミニズムを選挙運動に活用したヒラリーは、 米国の中産層の象徴であるPCの階級的アイコンであったし、 アンチフェミニズムと人種差別主義を公然と打ち出しながら 「代案-右派alt-right」を結集したトランプは、PCを粉砕すると豪語した。 いまや政治的正しさの戦線は、人種と宗教、ジェンダーの間、 主流既得権層と少数者弱者の間に置かれているのではなく、 中産層エリート集団と労働階級の間に置かれた。 1990年代以後にそれは「階級の文化」になっていた。 西欧社会におけるPCは変質し、冷笑と嘲弄の対象になった。 トランプが「政治的正しさを粉砕したい」と言った時、 熱烈に拍手をした人々はKKK団員ではなく米国の労働階級だった。 その中には以前の伝統的な民主党支持者も含まれていた。 80年代まで全盛期を謳歌したPC運動が大衆からバカにされるようになった最大の理由は、 PCが政治的指向性と運動性を失い、進歩的エリートの品行になったためだ。 反戦運動の主軸だったヒッピーがウォール街のヤッピーになって、 ブルジョア文化に対抗する反文化の象徴だったボヘミアングループが「ボヘミアン-ブルジョア」創業者として再誕生する過程で、 PCはエリート教養市民階級が共有する文化的・道徳的共通分母になった。 労働階級にとってPCとは、彼らだけの真理であり、彼らだけの文化であった。 米国労働階級の没落をした個人史を通して淡々とした書き方で振り返る「ヒルビリーの歌」という本では、 米国の没落した工業地帯であるラストベルト(Rust Belt)出身の主人公が 東部の名門大学に入って初めて知った「PC」に驚く場面が出てくる。 彼が新しく出会った友人たちはみんな他人への配慮が身についた人々だ。 彼らは誰もがみすぼらしい自分を遠慮なくあざ笑ったり軽べつはしないが、 不思議なことに主人公は配慮されるたびに劣等感が増幅する経験をする。 彼らが語るPCの原則は否定できないが、なぜ私は政治的正しさを行う人ではなく、 政治的正しさの対象になるのか理解できない。 米国の中上流層の家庭で育った友だちはみんな知っている「非暴力対話」という用語も 生まれて聞く言葉だ。 彼は故郷の人たちの荒くて下品な言葉がいかに暴力的かを 「教養ある人々のやさしく配慮深い言語」を通じて知るようになるが、 その暴力的な言葉の単純性と正直さと比べ、 この非暴力対話がいかに内的な階層と暴力的な構造を持っているのか改めて自覚する。 故郷の路上で子供たちを罵る大人たちに対しては、同じ悪態でやり返したが、 やさしく指摘質する親切な人々にはどう対処すればいいのか、彼には分からない。 スウェーデンで作られた「スクエア」という映画もヨーロッパのブルジョアの道徳的仮面になったPCを告発する。 彼らは「PCらしい」人という評判のために、政治的正しさから学んだ行為の準則に従っているだけだ。 だが現実では、着実に要請される政治的・倫理的な判断と実践の問題は無視し、回避しながら暮らしている。 その時に彼らが信奉する政治的正しさの原則は、 自分が「われわれは北欧の良い市民」に属していることを立証する、 ブルジョアの精神的高級スーツのようなものと違わない。 守るべきこと、拒否すべきこと「少数と弱者にはあれこれ対しなければならない」ということが主流強者既得権らの道徳的準則になったとすれば、 そのような原理は最も早く少数と弱者から拒否された。 米国の大統領選挙で民主党の敗北とトランプの当選、ヨーロッパ全域で現れる極右政党の勢力拡大と 伝統的な進歩勢力に対する労働階級の支持撤回はそう解釈するしかない。 それは少数者運動から作られたPC運動から抵抗的・批判的・現実的力を去勢し、 運動の主体から概念を奪い、それを自らの道徳的・文化的優位の手段とする 既得権化した進歩に対する労働階級の挫折と政治的報復だと。 だが右派はその挫折感を利用してそれをすべての進歩的社会運動をひっくるめて非難する言葉に変質させた。 いまやPCは運動陣営の新しい烙印になった。 「目覚めた市民」が「犬市民」になったように。 では、われわれはどうすればいいのか。 2種類のPCを区別しなければならない。 守るべきことと拒否すべきこと。 守るべきことはトランプが破壊しようとする政治的正しさだ。 拒否すべきことは労働階級に嘲弄されるPCだ。 二つは同じように見えるが同じではない。 前者は政治的真理を思惟できると考える民衆の力だ。 後者のPCは中産層エリートの偽善と虚偽意識だ。 だが政治的に正しいものは何かという問いそのものを放棄してはいけない。 それを問うためにPC主義者になる必要はない。 われわれの目標は、政治的正しさを「分かる」人になることではない。 韓国的脈絡から見れば「PC」でも「政治的正しさ」でも、 用語自体が輸入された段階ですでに一種の文化資本的性格を持っており、 現実であえてこの言葉を使う必要はないようだ。 ただし「政治的正しいことはこれだ」という文章を 「それが政治的に正しいものか?」という疑問文に変えてみよう。 その問いは概念から私たちを疎外させることなく、 むしろ今まで正しいと定義された世界を揺るがす力を集中するのではないか? だから問いは続けよう。 さらに「PCの原理」についても。[ワーカーズ48号] 翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2018-11-05 16:19:23 / Last modified on 2018-11-22 17:52:15 Copyright: Default 世界のニュース | 韓国のニュース | 上の階層へ | |